聖書交読 詩編23編(旧約p854)
司)1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
会)2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
司)3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
会)4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
司)5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
全)6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
聖書朗読 エフェソ5章8~14節(新約p357)
8:あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
9:――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
10:何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
11:実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12:彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
13:しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
14:明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
説教 「前とは違う私」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
先週は木曜日に5月に開催される合同婦人会のための準備祈祷会がありまして、今日開いておりますエフェソの信徒への手紙の4章25〜32節の方から「新しい私」と題してお話をさせていただきました。隣人に真実を語り、悪い言葉を捨てて建設的なことを語り、赦し合う、と勧められている箇所です。そして昨日は松田正子さんの姪御さんである増田典子さんの結婚式がありまして、今日開いております5章の後半、21~33節をもとにお話をさせていただきました。夫婦の間柄がキリストと教会の関係に例えられており、そのキリストが、命がけで教会を、すなわち私たちを愛してくださった、という箇所でした。そして今日、この5章の8節から14節ということで、エフェソの信徒への手紙からお話することが続いております。ルーテル教会の聖書日課の関連で言うと、聖書日課は木曜日から始まり、主の日である日曜日をクライマックスに、水曜日まで続く一週間のサイクルがあります。その点からすると、木曜日の聖書箇所と今日の聖書箇所にはつながりがありまして、木曜日が「新しい私」、そして本日は「前とは違う私」ということで、関連した内容となっております。
では、今日開いている箇所を振り返ってみましょう。8節を見ますと、
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」
と記されています。本日の箇所の中心部分とも言うべき、重要な聖書の言葉となっております。
ここにあるように、「あなたがたは、以前には暗闇でした」(8節)とはっきり言われると、却って安心します。「あなたたちはよくやっています」などと言われたほうが、却って居心地が悪いかもしれません。言われるほどのことをしていない、あるいは、たとえ今できていても、今後だんだんできなくなったらどうしよう、などと、プレッシャーに感じることもあるでしょう。率直に「以前はこうでした」と、暗闇であったことを指摘されると逆にホッとする、ということもあるのではないでしょうか。もう神様の前で取り繕う必要がないからです。
この「暗闇だった私たち」というのは、14節で言う「眠りについている者」でした。そして、「死者の中」に存在していたのでした。しかし、神様はそれをあくまで「以前のこと」としておられます。「今は・・・光となっています」というのが神様の私たちに対する見方で、いくら今「そう言われても私の中にはまだまだ暗闇の部分があります」と訴えても、神様の言葉の方が確かなのですから、また私たちは安心できるのです。
では、なぜ私たちが光なのか。とてもそうは思えないかもしれないけれども、これは神様が確かに告げておられることです。それはまた14節にヒントがあります。「キリストはあなたを照らされる」。私が立派な、素晴らしい存在になったから、その性質や品性によって光り輝いているのではありません。世の光であるキリストに照らし出していただいているので、光っているのです。ですから、私たちは月のようなものです。一見すると不安定であるような、満ち欠けをするのです。しかし、キリストの光を受けていることに変わりはありません。もう前の私とは違っているのです。
そのきっかけとなるのは、「起きよ。死者の中から立ち上がれ」という神様の呼びかけです。キリストの光によって照らし出される資格が私の中に生まれたから照らされる、というのではなく、明確に神様の側からのアクションとして、神様が私たちに声をかけてくださって、私たちはキリストの光を受けるようになるのです。キリストが光であることは、ほかの聖書箇所で言われていることです。例えば、「わたしは、世の光です。私に従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(12節、新改訳)などがあります。
前の私は、「なっていないから、◯◯になりなさい、◯◯でありなさい」、という世界で生きてきました。
聞き分けのない子だから、聞き分けの良い子になりなさい
人の気持ちがわかっていないから、人の気持ちがわかるようにならないといけない
言ってみれば、これは「まだ到達していないので、これからがんばりなさい」というメッセージです。それを私たちはこの世から何らかの形で受け取って、その枠の中で生きてきました。そのような価値観の中でしか生きてくることができなかったのです。普段の私たちの会話にも出てくるような言葉です。至らないことの多い私なので、もっと努力しなければならない、あるいは、私さえしっかりして、目標を定めて頑張れば、もっと上に行ける、という自分の中での迫り、というものにもつながっていくこともあります。
それが変えられて、新しい私は、今、このままで認められている。もう前とは違う私なのです。改めて聖書の言葉遣いを確認しますと、
「あなたがたは、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」
となっていました。言い換えれば、
すでに光になっている。だからあとは、それらしく生きれば大丈夫。
ということにもなります。これが、聖書が私たちに語りかけるメッセージです。まだ到達していない、ダメなあなた、ではなく、今その存在がまるごと神様に受け入れられ、受け止められているあなた、ということなのです。聖書に書かれていることを信じるとは、この新しい価値観に生きる、ということです。自分では実感しづらいかもしれないけれども、聖書の言葉がそう語る限り、私はもう光であると認められている、ここに希望と喜びを見出すのです。
今日の聖書交読の箇所は詩編23編で、お好きな方も多いかと思いますけれども、その中の2節と3節が、今までお話してきたこととつながりを持っています。
2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
という部分です。
「魂を生き返らせてくださった」ので、新しくされて、前とは違う渡しになって、光になっている、とも言えます。あとは神様が、私を正しい道に導かれるだけです。
お祈りいたしましょう。
天の神様。
いたらないことばかりの私を、
すでに光になっている、
と認めていてくださり、
おそれおおく、
また感謝いたします。
あなたの愛を一身に受けて、
そしてイエス様の光に照らされて、
光になっていること、
ありがとうございます。
あとはそれらしく生きるだけ、
そのようにあなたはおっしゃいました。
滞りなく、あなたの尽きることのない慈しみと憐れみのうちに、
光の子として生きていくことができますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・先週の礼拝は、御影教会も園田伝道所も説教者は馬渕神学生でした。
・来週は青年会主催の聖書研究会があります。内容は詩編です。
・今年の合同婦人会は5月11日、場所は母の家ベテルで、講師はオリンピックメダリストの岡本依子牧師です。
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