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執筆者の写真明裕 橘内

2023年2月5日  顕現後第五主日

聖書交読 イザヤ書58章1~8節(旧約p1157)

司)1:喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。

会)2:彼らが日々わたしを尋ね求め/わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らがわたしの正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。

司)3:何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。

会)4:見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。

司)5:そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。

会)6:わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。

司)7:更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。

全)8:そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。



聖書朗読 マタイ5章13~20節(新約p6)

13:「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

14:あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

15:また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

16:そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

17:「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

18:はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

19:だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

20:言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」



説教  「私たちの光を」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン



先週に引き続き、イエス様の「山上の説教」と呼ばれる箇所を開いております。この部分、特に14節を読むと、その後半が私自身の愛唱聖句でもあり、また、今から28年ほど前、神戸ルーテル神学校に入学したときのことを思い出します。神学校新館3階に寮がありまして、階段を上がってすぐの部屋が私の部屋でした。入寮して早々、私はドアに、14節後半の御言葉、その頃は新改訳でしたが、それを書き、時々色鉛筆画を描いておりましたので、そこに山のイラストを描き込んだ紙を自己紹介がわりに貼っておきました。おかげで最初からちょっと周囲の印象に残ったようです。


そのようにしたのはもちろん、「山の上にある町は、隠れることができない」という御言葉に憧れたからにほかなりません。そのように、自然体で、隠れることなく、開けっぴろげにクリスチャンであることを明らかにしながら生きることができたらどんなに素晴らしいことか、と単純に思ったわけです。


その反面、「あなたがたは地の塩である」(13節)、また「あなたがたは世の光である」(14節)という言葉はそれほど心に響かないと言いますか、むしろ、やや苦手な意識があったように思います。どこかで、「私が地の塩にならなければならない」「世の光にならなければならない」といった気負いがあったのでしょう。この、「地の塩」「世の光」といった御言葉に対して、同じような思いを抱く人は少なくないと思います。


自分がクリスチャンになった意味を考える時、少しでも周囲の人の益となる人物であったら、と願う面があるかもしれません。しかし、「地の塩」「世の光」と表現される状態がある種のスタンダードのようにして迫ってくるときに、早晩私たちの夢は潰え去り、「とてもそこまではいかない」と自覚せざるを得ないこともあるでしょう。


そのような時もう一度、イエス様の言葉に意識を集中させたいのです。あくまでイエス様は、「あなたがたは地の塩である」(13節)、また「あなたがたは世の光である」(14節)とおっしゃったのであり、それはある意味で宣言でありました。私たちの姿がどうあれ、もうすでに私たちは地の塩なのであり、世の光なのである、ということを私たちに告げるものであったのです。


ですから、この御言葉は福音なのであり、律法であるように捉えられるべきではありません。福音はあくまで私たちに神様の恵みによって自由と解放を告げます。そこには、律法の暗い要求の影はどこにもありません。律法は、ひたすら私たちに何かを要求します。この部分であれば、私たちに「地の塩になるように」と要求し、「世の光であるように」と求めてきます。それは、日頃の生活の中で疲れ、先行きの不安や複雑な人間関係の中で悩む私たちの魂を癒やすどころか、むしろ更に苦しみの上に苦しみを押し付けるようなものです。イエス様は、一週間の旅路を終えて疲労感を覚える私たちに重荷を追わせようとは決してなさいません。神様の限りない恵みを示し、私たちを悩みから解放し、癒やしを与え、それによって再スタートの力を蓄えさせようとなさっておられるのです。ですから、イエス様は「あなたがたは地の塩である」「世の光である」とおっしゃることによって、私たちを解放して自由にしようとなさっておられるのであり、その意図を正しく受け取って、私たちはこれを福音として聞いて、大いに慰められるべきなのです。ルーテル教会では、説教は福音の宣言であると言われます。ですからこそ私はその大事な説教の務めを任じられている者として、「地の塩」「世の光」といった御言葉を、その通り、福音として、ここにお伝えするのです。


そのように、福音であるゆえに、この御言葉は「世の光になるように」と私たちが本来の意味を曲げて理解することを拒みます。それは聖餐式において「これはわたしの体である」「わたしの血である」(マタイ26章より)と言われて差し出されるパンとぶどう酒が、なにゆえかは伏せられていても確かにキリストの体であり、血であることが疑いようもないことと通じるところがあります。「これはわたしの体である」と告げられた大事なイエス様の御言葉は、「これはわたしの体になる」であるとか、「体に変わる」、はたまた「体を象徴する」と読まれるべきではありません。これは、ルターが生涯戦った点でした。カトリック教会は「キリストの体になる」あるいは「変わる」と読もうとし、ツヴィングリやある程度までカルヴァンも、「これは象徴なのだ」と主張し続けました。確かにある人々が指摘するように、現在ギリシア語が原典とされるマタイによる福音書も、元はと言えばアラム語で書かれていた、あるいはイエス様がアラム語で語られた言葉を保存したものだ、という説には一考の余地があります。その場合、ギリシア語と異なり、「である」の部分はなく、「これはキリストの体」としか言われていなかった、と主張されるわけですが、ルターはそのことも知った上で、また、パンはパンにとどまり、ぶどう酒はぶどう酒にとどまることを認めた上で、なおも「これはキリストの体である」「これはキリストの血である」という御言葉にこだわりました。それは、そこにこそ福音があったからです。「変わる」でも「象徴する」でもなく、あくまでそれが「キリストの体である」「血である」と言われるところに福音があり、私たちを恵みによってキリストに結びつけ、キリストに与る、あるいはあやかる者とし、キリストとともに死に、キリストとともに復活する者とするのです。


どうして、というところを越えて、パンとぶどう酒がキリストの体であり、キリストの血であるのと同じように、なぜかはわからなくても、私たちはもう地の塩、世の光となっているのですから、その私たちの光を大いに照り輝かせて、堂々と生きていきたいものです。


この光についてですが、本日の交読文を振り返ってみると、


「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。」(イザヤ書58章8節)


とありまして、すでにイザヤ書において私たちの光について語られていることがわかります。イエス様の念頭にこの御言葉があったとしてもおかしくはありません。イザヤ書の文脈では、他者に向けられた行動が私たちの光の土台となっているように読むことができます。これは、福音書の方の、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」という勧めにつながる点があるでしょう。だからといって私たちの行いだけが強調されているのではなく、「私たちの後ろには輝く主の栄光がある」と、私たちの光の背後には、そもそもすでに光っているものがあり、それは主の栄光だ、と言われて、これは大きな安心材料になります。


なお、本日は午後に総会がありますから、今年の御言葉に目を留めますと、


「再び心を励まし、なお待ち望む。

主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(哀歌3章 21、22節)


とあり、これを手がかりに考えれば、主の尽きることのない慈しみと憐れみによって光とされた私たちである、とも言えるかと思います。私たちを巧みに騙して、「地の塩になるべきだ」「世の光となれ」と御言葉を読ませ、「とてもそのようにはなれない」と思わせるような世の暗闇の勢力ががあろうと、私たちは御言葉にあるように、「再び心を励まし、主の憐れみを待ち望む」のです。


そして、今年の目標として、「恵みを分かち合う」と掲げていますが、まさにこれは私たちの光を輝かせることで実現するのであり、それは私たちが大事にする「フェローシップ・ディコンリー」(交わりと奉仕)の精神が指し示す「つながりづくり」を思わせ、私たちがますます「つながりづくりに熟達する」というヴィジョンを共有していけるように、促すものです。既に始まっておりますこの2023年度、私たちは私たちの光を輝かせるために、礼拝において神様の栄光が現れる、という旧約聖書の礼拝観を受け継ぎ、なお「伝道も教育も牧会も、すべて礼拝の中に生起する」というダイナミックなルター派の礼拝観も大事にして、礼拝を続けていきたいものです。


お祈りしましょう。

天の父なる神様。

あなたからの恵みをいただくこの礼拝のひと時をありがとうございます。

御子イエス様を通して、

御言葉を頂きました。

その中から、

私たちが恵みによってすでに地の塩であり、

また世の光であると教えてくださり、

ありがとうございます。

あなたの限りない慈しみと憐みを受けて、

日々恵みを受け取り、

励まされ、強められて日々の歩みに出ていくことができますように。

2023年の私たちの教会の歩みを祝福してください。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


【報告】

・本日昼食会があり、そののち第50回目の教会総会となります。






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