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執筆者の写真明裕 橘内

2023年2月26日  四旬節第一主日礼拝

聖書交読  詩編32編(旧約p862)

司)1:【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。

会)2:いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

司)3:わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。

会)4:御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。

司)5:わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。

会)6:あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。

司)7:あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。

会)8:わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。

司)9:分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。

会)10:神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。

全)11:神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。



聖書朗読 マタイ4章1~11節(新約p4)

1:さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

2:そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

3:すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

4:イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

5:次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、

6:言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」

7:イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

8:更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、

9:「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

10:すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

11:そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。



説教  「人生の苦難の意味」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


今年も私たちの世界は、四旬節第一主日を迎えています。その中で、ウクライナでは、昨年2月24日よりロシアによる軍事侵攻がずっと続いており、苦難の中でこの日を迎えています。私たちの世界には、なぜこのように苦難があるのでしょうか。少し前に最終回を迎えたNHKの「探偵ロマンス」というドラマでは、敵の怪盗に相対した探偵が、「人生に意味なんかない。ただ生きるだけだ」というようなことを叫んでいました。それと同じように、人生の苦難にも、意味などなく、ただそれを苦しみ抜く、ということなのでしょうか。


本日は、四旬節第一主日に伝統的に読まれる福音書の箇所を開いております。それによって、イエス様の御生涯を追体験することができます。イエス様の御生涯はその全体が苦難に彩られていますが、特にこの荒れ野での悪魔の誘惑の出来事以降、その色合いは増していきます。


この荒れ野に、イエス様は「誘惑を受けるため」来られたのですが、それは“霊”に導かれてのことでした。これはあくまでイエス様のこと、イエス様の受難に関して、特別のこと、と思いたい。でも、もしかして私たちにも、”霊”、もちろん聖霊なる神様のことですが、この方によって導かれて、誘惑に満ちた人生の荒れ野に入る、ということもあるのかもしれません。


そこで断食されたイエス様は空腹を覚えられますが、このように「飢えること」は、私たちの人生においても、様々な苦痛、困難を巻き起こすものです。ここに見られるのは、「人生の苦難の意味」というよりも、「人生の苦難の原因」というものです。


よりによってそこに、誘惑する者がやって来る。飢えている状態で、確かな判断をすることが難しい中、世の誘惑が迫って来たら、私たちはひとたまりもありません。イエス様に対して、その誘惑は、悪魔という具体的な存在による、たいへん具体的なものでした。まず「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と誘い、次には「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」と、みことばまで引用して、迫ってきています。この両方にイエス様が申命記のみことばをもって、毅然と対応し、その誘惑をはねのけているにもかかわらず、悪魔は諦めることなく、第三に、:「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と、おおよそ見当違いのことではあるのですが、見方によってはたいへん魅力的な誘いをもって、イエス様に挑みます。もっとも、これが荒れ野においては最後の誘惑となるのですが。


もしこれを言い換えてみるとどうなるでしょうか。第一の誘惑は、「物事を変えてみせよ」となるでしょうか。こうなると、これは単にイエス様に対する誘惑ではなく、私たちにも迫ってくるような気がします。第二の誘惑は「もっと冒険してみよ」と言い換えることも可能です。最後には「世界はあなたたちのものだ」となるでしょう。そのように、誘惑する者は今日も私たちを煽ります。


それに乗って、自分の力で物事を変えようとし、いらぬ冒険をし、我が物顔で世界に幅を利かせて、それで私たちの世の中はどうなったでしょうか。言い換えれば「人間の持つ可能性」というものが、却ってこの世界を生きづらくし、私たちの人生に苦しみを加えてしまっている現実があります。


ただ、考えてみると、このように苦しみを感じることを通して、私たちは神様を求めるようになる、ということもあるのではないでしょうか。これが、人生の苦難の意味を考えるうえで、ひとつの方向性を指し示すように思うのです。


もちろん、この問題は簡単に答えの出せるものではありません。今ウクライナで起こっていること、また、それに派生して世界中で起こっていることは、その一言ですべて説明できるものではないということもわかっています。


今多くの人が感じているのは、罪悪感も苦難のひとつ、ということです。例えば、自分だけ安全な場所にいていいのか?という罪悪感です。これは特に、戦地を離れた在外ウクライナ人の方々が今直面している問題です。故国では、今でも戦火が絶えない。そこで家族が、あるいは友人が現実的に死の恐怖にまさに直面している。しかし、機会を得て国外に出ることができて、例えば日本に難民として受け入れられているとして、その方々にしてみると、自分だけがこのようにして安全なところにいていいのだろうか?と自分を責め、罪悪感にさいなまれる、というのです。これは何となくわかるような気がします。もう少しで東日本大震災から12年となりますが、震災の後、私が感じた苦しみでした。東北の福島に生まれ育ったのに、その当時は大阪にいたために震災に遭うことがなかった。それは、東北にルーツがありながら、何事もなく平穏に大阪で暮らしていていいのか、という罪悪感となってしばらく私を苦しめたのでした。


先週はロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まって一年、ということで、様々な報道がなされていましたが、在日ウクライナの方々をサポートすることに関しても触れられていました。その中で「一人じゃない」、という言葉を聞くことがありましたが、感じることは、それ以上のメッセージがないのだろうか、ということでした。最近は、「寄り添う」、という言葉が氾濫して、ちょっとおなか一杯、と思うこともなくはありません。このあたりは、苦難というものをどうとらえるか、ということにも関わってくるように思うのです。


ひとつの具体的なエピソードなのですが、先週急な電話の故障で教会の電話がつながらなくなるという問題がありました。月曜日にそれがわかったのですが、築50年になる建物ですから、老朽化による障害かもしれません。果たしてすぐ原因がわかり、故障が直るのか、どのぐらいお金がかかるかと不安でなりませんでした。すぐ翌日火曜日午前にNTTから修理の方が来られたのですが、やはりなかなか原因が特定できず、経年変化により、電話線がどこかで断線しているかもしれない、と言われました。大事な教会の電話が使えなくなったらどうしようと気が気でなかったのですが、1時間以上かかってようやく原因が特定でき、断線しているところも直してもらって、何と費用も14,000円かかると言われていたのが、最終的には1,100円でいい、ということになり、結局神様はよくしてくださることを確認する出来事になりました。私にとってはまさに、困難によって神様の優しさを知る、という体験になったのです。これは、人生の苦難の意味、ということを考える上で、助けとならないでしょうか。


聖書において、ヨブは理由も告げられることなく私たちの想像を絶する苦難を経験するのですが、最終的にはまた理由も告げられることなく、神様からの回復を頂いて、いわばハッピーエンドとなっています。私たちが四旬節に深く思い巡らすイエス様の御受難も、その先にあるのは希望の復活です。苦難が最後の言葉、イエス様の物語の最終章ではありません。最後は輝かしい復活で彩られているのです。


本日の交読文の箇所を思い出してみてください。詩編の32編の10節に、「神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる」とありますが、これは「神に逆らう者」と、それとは全く別の「主に信頼する者」の二者について述べているだけでなく、ひとりの人の中で起こる変化を描いている、と受け取ってみるとどうでしょうか。ひとりの人が信じる前に体験することと、信じた後に体験すること、ということです。もちろん人生においては、このようにきっちりと分かれるわけではないのですが、信じる前に神様に逆らう生活をしていて、何かとそれによって悩みを経験していた者が、それをきっかけに神様を求めるようになり、信じたのち、もちろんまだ古い肉、古い自分を抱えているので、様々に人生の苦難を経験するのだけれども、それとともに、今年のみことばとも共通しますが、主の尽きることのない慈しみと、絶えることのない憐れみを経験しながら生きる。これがずばり、人生の苦難の意味だ、などと大上段に構えて断言するわけではありません。ですが、この、一度の説教で扱うにはやや手に余る、それで先週も少し触れたこの「人生の苦難の意味」という大きな大きなテーマを考えるうえでは、苦難の先にあるもの、そこで見えてくるもの、というのは、必ずかかわってくるものだと思うのです。


この苦難の中で、私たちはイエス様の苦難の物語に慰めを受け、その救いを受け入れる準備ができるのです。そこに、巷にあふれる「一人じゃない」「苦難の中で寄り添っていく」というメッセージを越えたものも生まれてくるのではないでしょうか。あなたの苦難は、苦難のままでは終わらない。よりよいこと、幸いのために苦しんだのだ、などと無神経なことは言わないけれども、でも、意味なく苦しんだのではないのだ。その、はたから見ると無意味に苦しみ、死んでいっただけのように見えたイエス様も、その神様に従順に死に向かっていった姿勢が認められ、復活して、そのまた先を言うと、栄光に満ちて神様の右の座に上げられるということまで経験していく。苦難のその先まで見ようと、私たちは互いに声を掛け合うことができるのではないでしょうか。今年のみことばにあるように、再び心を励まし、主の慈しみと憐みを待ち望むのです。そして、恵みによってそれを体験したら、その貴重な経験を分かち合い、証ししていくのです。それがまた周囲への大きな慰め、励ましになるのです。その中で、私たちの共同体において、三浦綾子さんの小説が原作の映画『海嶺』の台詞にも説明があるように、「その通りです」という意味の「アーメン」という信仰告白の言葉をかみしめながら、主の恵みの体験の証しに頷き、喜びの讃美において、また悩みの日の祈りにおいて「アーメン」の声を響かせて、ともに歩んでいくのです。


お祈りいたしましょう。

四十日四十夜、わたしたちのために御子を断食させられた主よ、

どうか己に勝つ力を与え、

肉の思いを主の御霊に従わせ、

常に私たちがその導きに応え、

益々清くなり、

主の栄光を現すことができますように。

この地上において、

人生の苦しみの意味を確かに知ることは難しいですが、

それが神様の優しさを知る機会になり、

苦しみの先に希望があることを、

私たちが感じ、

またそれを受け取ったら、

それを語っていくことができますように。

困難に打ち勝つ力をお与えください。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


【報告】

・本日礼拝後、今年の5月に西宮において三浦綾子さんの秘書の方の講演会が行われるのに合わせ、三浦綾子読書会のお話があります。タイトルは「作家三浦綾子と正田眞次が伝えたかったこと」です。

・来週は昼食会、部会、役員会があります。

・橘内師が聖書日課の締め切りを控えています。2月28日、14日分の執筆の締め切りです。お祈りください。

・次回の園田伝道所礼拝の説教者は馬渕神学生です。




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