聖書交読 出エジプト24章12~18節(旧約p134)
司)12:主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、
会)13:モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、
司)14:長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」
会)15:モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。
司)16:主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。
会)17:主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。
全)18:モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。
聖書朗読 マタイ17章1~9節(新約p32)
1:六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2:イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
3:見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
4:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
5:ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
6:弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
7:イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
8:彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9:一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
説教 「まっすぐに歩む」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日私たちは、今年2023年の第8回目の礼拝の時を迎えています。週報の右下に通し番号がふられているので、ご覧いただければそれがわかります。主の恵みによって新しい年が与えられることで、私たちは様々な期待を抱きます。新しい年を迎えて、新しい私になる、というのもそのひとつでしょう。そのような期待の中で、本当に私たちは変わっているのか。また、変わっていくのか。世界は相変わらず戦争のなくならない世の中で、昨日もまた海を隔てたお隣の国から、たいへん危険なものが飛ばされてきました。もしかして私たちは、世界も変わらない、私もまた変わらない、といった失望の中に生きていく、ということに陥ってしまうかも知れません。そんな中で、今年も私たちは共に、変容主日を迎えております。
変容主日は、イエス様に神様の栄光が現れ、そのお姿が変わったことを記念する時です。イザヤ書の「まことにあなたは御自分を隠される神」(45章15節)という御言葉に代表されるように、基本的に「見ないで信じる」(ヨハネ20章29節)ことを聖書は推奨していますが、救いの御計画の中で、重要な時には、目に見える形でお示しくださいます。このイエス様の変容の出来事も、そのひとつと捉えることができます。ご一緒に、その時の様子を福音書を通して追体験していきましょう。
冒頭に、「六日の後」とありますが、ひとつ前の16章では、ペトロがイエス様をキリストであると信仰告白した出来事、そしてこともあろうにそのイエス様がご自分の受難の予告をしておられます。それから六日の後、ということです。イエス様は限られた弟子たちだけを連れて、高い山に登られました。タボル山ともヘルモン山とも言われています。現在タボル山の標高600メートルほどの山頂にイエス様の変容を記念する教会が立てられています。本日の交読文の箇所、すなわち聖書日課の旧約の箇所は、モーセが律法を受け取るためにシナイ山に登って行った所でしたが、イエス様もまた山に登って行かれることは、その出来事をほうふつとさせるような印象深い出来事となりました。
2節に「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」とあり、このあたりも、神様の栄光を白で表すことの由来となっており、それを受けて、本日の礼拝の色は白となっています。牧師のストールの色が、それを示しています。
3節には、それがどのような現象であったかは今となってはわかりませんが、モーセとエリヤが現れた、と記されています。モーセが旧約聖書の律法、エリヤが預言者を代表する、と言われるのが通例です。なぜモーセとエリヤであるとわかったか、これは、イエス様がそうおっしゃったのではないでしょうか。3人が語り合っている内容は、ルカの福音書では、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9章31節)であった、と明確化されています。そのように、聖書では、ある個所では明確になっていない箇所でも、別な箇所ではっきりと説明されていることがあるので、その全体を読むことが重要です。
この時のペトロの発言からは、いくらこの前にイエス様に対しての信仰告白をしていても、旧約聖書時代の代表的な人物がいきなり目の前に現れた、ということもあり、3人がフラットな関係であるように見えていた、ということがうかがえます。それが、5節の
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
という不思議な体験を経て、見方が変わってきます。光り輝く雲は神様の栄光の現れであり、最近「礼拝において神様の栄光を拝する」とお話しすることがありますが、それはこのように、礼拝において語られる御言葉を通して、私たちは神様の栄光を仰ぎ見るのです。雲の中からの声は、イエス様が人間と同じ姿になるとの固い決意のもとに、洗礼をお受けになられたときに聞こえた声と同じでした。
もちろん決定的なのは、8節に記されている体験、「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」とあるように、あっという間にモーセとエリヤの姿が消えたことでした。これで、モーセとエリヤよりも、イエス様が大事であることが分かったのです。何かがあることばかりが重要なのではありません。時にはなくなること、見えなくなることも重要です。この時、ペトロの目には、モーセとエリヤの姿が消える必要がありました。それで、イエス様の優位性が明らかになったのです。それは、古い律法と預言者の時代が過ぎ去ることを象徴的に表していました。今の私たちの視界からも、モーセとエリヤは消え去るのです。新しいイエス様による福音の時代を生きていくのです。
この出来事によって、イエス様が神様に由来する存在であることがわかり、のちに遂げられる十字架でのご最期が、私たち人間を永遠に救うのに充分であることが明らかにされます。この出来事の重要性はそれだけではありません。イエス様のお姿が変わることが、信じて従う私たちの姿も変わる、という希望につながることは、言うまでもありません。イエス様のお姿が変わるのを見ることは、ある意味で私たちも姿が変わるという私たちの希望をこの目で見ることにつながるのです。
ただ、この栄光ある変容主日が、四旬節に先立っていることに注目しましょう。イエス様に姿を変えていただく私たちもまた、イエス様同様、受難の道を歩んでいくのです。人生の苦難の意味はここにあります。
私たちは、イエス様に従い、この世にあってイエス様に似た者として生きていきます。その際に、イエス様が歩まれた苦難の道を忘れることはできません。イエス様が苦難の道を歩まれたのであれば、イエス様に従っていく私たちもまた、苦難の道を歩んでいくのです。思ったほど自分が変わっていかないことの焦り。自分一人の力では世界は何も変わらない、という無力感。苦難の道を歩くと決意しても、人生楽しまなければ、何でも楽しむことが第一、という、この世の主な流れからは外れていくわけで、そのことによる軋轢、周囲からの無理解も、私たちには無縁ではありません。そして、新型コロナを含む様々な地上での病。人間関係における様々な気遣いからくる精神的な披露。なぜここまでと、挙げればきりのないほどの悩み苦しみがこの地上にはあるわけで、感じる度合いは人それぞれでしょうけれども、多かれ少なかれ、生きにくさといったものをある程度は感じながら生きている。そしてそれを大抵の場合、良いか悪いかの価値判断とともに受け止めて、悩むことはよくない、改善しなければならない、信じているものがあるのであれば、その信念によってそれは解消されるべきだ、と自らを追い込んでいきがちです。
しかし、イエス様を信じ、その姿に倣い、従って生きていこうとするときに、苦難の道を歩むことはある意味で必然であって、それは私たちが何らかの悩み苦しみを抱えたまま生きていく、ということと重なっていくのです。そこから逃れなければ、ともがくよりは、ある程度これは抱えていくものなのだ、と受け止めていくのです。そのように、重荷を抱えた私たちだからこそ、マタイ11章にある「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」というイエス様の言葉がいつも響くわけだし、そのような私たちだからこそ、つながりづくりが必要なのです。一人では抱えきれないものも、つながりづくりのなかで出来た共に歩む仲間たちと一緒であれば、負っていけるものです。
人生の苦難の意味に関しては、来週四旬節第一主日に改めて説教で取り上げますが、「再び心を励まし、なお待ち望む」と始まる今年の御言葉は今日の私たちに大きな希望となります。もしかして苦難という言葉は大げさかもしれないけれども、何らかの悩みや不安を抱えながら生きる者には、なお諦めずに希望を持つことが許されている。しかも、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」(哀歌3章21,22節)と言われるのですから、決して変わらないように思えた私が変えられる、姿が変わる、このある意味で奇跡とも言えるようなことは、主の変わることのない慈しみと憐みによって実現する、と私たちは固く信じることができるのです。私たちは、先週学んだように、姿を変えられて、大胆に「アーメン」と力強く応答しながら、この世を生きていくのです。
ここで、「変わらない主の恵みを共にわかち合おう」という、今年の目標の登場です。本日の福音書を通して、イエス様の姿が変わったことを見る私たちは、そこに私たちの姿も変わるという、私たちの希望を見いだします。そして、その希望によって自分が支えられる経験をするとき、私たちの口には隣人とその体験を分かち合う証しの言葉が生まれます。これは、この時イエス様の変容という恵みの出来事をその目で見て体験したペトロとヤコブ、ヨハネの姿からもわかります。マタイがこの出来事を福音書に記していますが、彼はこの出来事を見てはいません。では、なぜそれを記録できたのか。それは、ペトロたちがこの恵みの出来事を分かち合い、証ししたからにほかなりません。もちろん、イエス様の言いつけを守って、イエス様が死者の中から復活を経験するまでは秘密を守っていたのでしょう。しかし、そのあとは違いました。聖霊を受けて証し人になっていった彼らは、自分たちの受けた恵みを分かち合ったからこそ、それがマタイに伝わり、この福音書の記述に至ったのです。これは私たちが受け継ぐべき姿です。イエス様に従い、イエス様同様苦難の道を歩むわたしたちであってもなお、私たちには希望があります。深い慈しみと憐みによって、私たちの姿は変わる。その希望を抱き、恵みの体験の証をしながら、毎日の歩みを続けてまいりましょう。
お祈りします。
天の父なる神様。
あなたはその独り子の受難の前に、
聖なる山の上で御子の栄光を現されました。
どうか私たちが、
信仰によってみ顔の光を仰ぎ見、
自分の十字架を負う力を強められ、
栄光から栄光へと、
主と同じ姿に変えられますように。
イエス様と同じように苦難の道を歩むときにも、
あなたのなさるみわざに常に「アーメン」と力強く応答し、
大胆に歩み続けることができるように、
常に共にいて、希望を見せてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・先の総会で新役員が選出され、先週と今週、2週にわたって任命式を行いました。
・来週礼拝後、今年の5月に西宮において三浦綾子さんの秘書の方の講演会が行われるのに合わせ、三浦綾子読書会のお話があります。
イエス様の変容について、希望につながるお話をありがとうございました。自分も変われるのだろうかと、信じられない気持ちでいたので、とても心に響きました。イエス様に付き従える自分に変えられますようにと、祈るような気持ちになりました。ヨブ記を読んで心が挫けそうになったので、苦難の意味について、次回のお話を心待ちにしています。