【聖書交読】 イザヤ書42章1~9節(旧約p1128)
司)1:見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
会)2:彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
司)3:傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
会)4:暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
司)5:主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。
会)6:主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。
司)7:見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
会)8:わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
全)9:見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
【聖書朗読】 マタイ3章13~17節(新約p4)
13:そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
14:ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
15:しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
16:イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
17:そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
【説教】「神が人の前に跪いて」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
今日は、主の洗礼日に際し、福音書でイエス様が洗礼を受けられた記事を読んでおります。毎年決まったことではありますが、それだけ繰り返さないと、なかなか私たちの印象に残らない出来事なのかもしれません。日頃どれだけ、イエス様が洗礼をお受けになったお方であることを意識しているでしょうか。十字架にかかられた方、なおかつ復活なさった方であることは十分意識していても、その方が洗礼を受けられた方であることは、なかなか私たちの意識に上らないことかもしれません。しかし、イエス様がその公の働きの初めに洗礼をお受けになられたことは、毎年祝い、記念すべき大事な事柄なのです。そこに、決して絶えることも、尽きることもない主の慈しみと憐れみが明確に表れたからです。
洗礼をお受けになられたということは、それだけ人間のことを考えておられたことを表しています。他者へ、すなわち人間へ関心を向けておられたことがそこからわかります。人間を救うために、何が大切なことか。それを考えられた時に、人間と同じ姿になるということが浮かんだのです。そして、肉体を取られ、人間の姿で現れた。それとともに、洗礼という形で父なる神のもとに帰ることを表明しなければならない人間の憐れむべき状態にも目をお留めになりました。それは見落とすことができない。本当に人間と同じ姿になるというのなら、それをもなぞらなければならない。そう思われたイエス様は、まさに天における神としての栄光をお捨てになって、いろいろと誤解されやすい姿へと身を落とされたのです。洗礼を受けるなど、所詮人間に過ぎないではないか、と誤解されてでも、人間を知り、そしてその悩みを知り、救おうとなされたのです。
では、そのようなイエス様の洗礼の意味するところの神学的考察をあとにして、本日のテキストに密着していきたいと思います。
まず13節ですが、「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた」とありますけれども、これは直訳すると「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られる」となります。歴史的現在形とも言うべき表現法で、あたかも今もイエス様が歩いておられるかのような、生き生きとした表現になっています。もちろんヨハネのところに来られた目的は、洗礼を受けるためです。このヨハネは洗礼者ヨハネのことです。しかも、ここで「彼から洗礼を受ける」と言われることで、あくまでこれが、神が人から洗礼を受ける、という出来事だったことが明らかにされています。
洗礼者ヨハネにとって、これは大きな驚きであり、恐れ多い、としか思えませんでした。慌てて彼は言うのです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(14節)。これは、イエス様を「思いとどまらせようとして言った」(同節)ことであることが明記されています。しかしこれは、人間的な思いに過ぎませんでした。
先ほど時制のことに触れましたが、15節でも、イエス様の説得の後、「そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」という部分ですが、原文では「ヨハネはイエスの言われるとおりにする」という、今の世界に生きておられるイエス様、とも言うべき描き方をしています。
イエス様の説得の言葉は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」であって、するならするで神様の御心に適う正しいことは「すべて行うのだ」、というイエス様の固い決意がうかがわれます。ここで喜ばしいイエス様の声が聞こえます。「我々にふさわしい」。イエス様と誰を指して「我々」と言っておられるのでしょうか。ここでまず頭に浮かぶのは、イエス様と洗礼者ヨハネ、ということです。
「我々」という代名詞は、「我々は、こう思う」と意見を表明するとき、あまり厳密に誰がそこに含まれるか限定していないことが多いかもしれません。かと言って、日常の生活で下手に「我々」などと言うと、「あなたと私を勝手に一緒にしないで」などと言われてしまうこともあり、使い方が難しいものです。とは言え、私が尊敬する、私が及びもつかないと思っている人が、私のことも含めて「我々」と言ってくださると、「私など加えていただいていいのでしょうか」と恐れ多い気持ちになるとともに、仲間に入れていただいた、ということで、うれしくもあるのではないでしょうか。そうです。ヨハネはここで、神であるイエス様とつながりを感じたのです。神が人の仲間になったのです。そして、洗礼を受けていかれる。当時どのようなスタイルで洗礼を行っていたのか不明の部分も多いですが、川でヨハネの前で水に一度沈められる、という体勢だったとも考えられます。まさにここで、神なるお方が人の前に跪くかのように身を低くしたのです。
その時です。16節によると、洗礼を受けて水から上がられたときに、「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」としか表現できないような、目を見張るような光景がそこに広がったのです。これが、イエス様が神であるのに人の前に跪き、徹底的に身を低くしたときに起こった驚異的な出来事でした。世界は、驚くべきことが起こった時に、それに反応して驚くべき現象を引き起こすのです。
しかも、続く17節では、「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」と報告されています。16,17節は大きくとらえて、「イエス様の驚くべき行動のゆえに、驚くべきことが起こった」、といった具合に理解してもよいのではないかと思います。天からの声の「わたしの心に適う者」とは、新改訳の方では「わたしはこれを喜ぶ」と訳されています。人の前に身を低くし、人間とひとつであろうとされたイエス様を天の父なる神様がいかに喜ばれたかがここに表れています。
このときの驚きと感動は、実に聖餐式の中において再び共有されます。私たちと同じ姿を取られ、人間の悲喜こもごもをすべて体感して、そのうえで救おうとされた方が、実際にのちの十字架と復活によりその救いを実現し、その恵みを今私たちが、現に口で味わい、覚えることができる。それはある意味で奇跡であり、そのような体験が許されていることに、私たちはただただ驚き、また感動するのです。こののち執り行われる聖餐式の恵みに期待いたしましょう。
私たちのために、神であるにもかかわらず人の前に跪き、ただの人ではないかと誤解されることがあろうと一言も言い訳しなかったイエス様の姿が迫ってきます。そのお姿は、どこかで自分の立場を守ろうとし、なるべく自分の得意な領域で立ち回ろうとしがちな私たち人間とまったく逆の姿です。イエス様が、ご自分が快適な領域を打ち破って出てこられて、大胆にも人の前で身を低くなさったとき、天は破れて驚くべき光景を見せました。すべてこれは人間の救いのためであり、そのために人間と同じ姿になり、その悩み苦しみを知ろうとなさった行動でした。その結果として私たちは罪と死と悪魔から救われ、それがもたらす諸々の悩み苦しみから救われていくのです。そしてその恵みの結果を、パンとぶどう酒という形で口にして、味わい確認することができる。その恵みに感謝する一年でありますように。
お祈りいたします。
天にいます父よ、あなたは、御子イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられたとき、聖霊を注ぎ、愛する子であると宣言されました。どうか御名によって洗礼を受けたすべての者がその約束を守り、御子を主また救い主として大胆に告白することができますように。世の悩みに打ち勝たれたイエス様の恵みにあずかり、この困難多き地上での歩みを、勇気をもって続けることができますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
【報告】
・本日は今年最初の聖餐式でした。
・来週昼食会があります。午後には役員会も開催されます。
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