【聖書交読】 ミカ書6章1~8節(旧約p1455)
司)1:聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ。
会)2:聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発し/イスラエルと争われる。
司)3:「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。
会)4:わたしはお前をエジプトの国から導き上り/奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを/お前の前に遣わした。
司)5:わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ/ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし/主の恵みの御業をわきまえるがよい。」
会)6:何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
司)7:主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
全)8:人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。
【聖書朗読】 マタイ5章1~12節(新約p6)
1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日私たちが見てまいりますのは、有名なイエス様の「山上の説教」と呼ばれる箇所です。その場所は特定されていません。恐らくガリラヤ地方の丘のような場所であっただろうと言われています。そのようなところに退いて、祈ったり教えたりするのはイエス様がよくなさったことでした。ここで語られた説教は、実はひろく大衆に向けられたものではありませんでした。「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」という1,2節の表現からわかりますように、第一の聴衆は弟子たちだったのです。ちなみにこの、「腰を下ろす」というのは、ユダヤ教の教師が正式に教える時の姿勢だったそうです。
この箇所にある「幸い」ですが、もちろん詩編1編などにみられる「幸い」とつながり、神様の祝福の宣言となっています。更に、この「幸い」についての教えには、いくつかの逆転現象があります。3節の「心の貧しい人々」が幸せかと言えば、ぱっと聞いたときにはそうは思えないのだけれども、実際は神に祝福されている状態である。続く4節の「悲しむ人々は幸い」も、どう聞いてもそうは思えないのに、神様によって逆転現象が起きて、そういった人々は幸いだ、神様に祝福されている、と言われる。10節に飛びますが、「義のために迫害されている人々」。その迫害は今も続いているような書き方になっていますが、それから11節、イエス様のために「ののちられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」、とても幸いだとは思えないのに、それでも幸いだ、と言われる逆転現象となっています。
そのように、あり得そうにもない状態が幸いである、と言われる不可思議な教えが非常に印象深い一方で、柔和な人々や義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々や心の清い人々、平和を実現する人々が幸いである、という順当な教えがあることも忘れてはなりません。
また、ただ幸いである、と宣言されるだけではなく、そのあとにその理由が語られていることが斬新であり、それゆえに先ほど述べたような逆転現象も納得されるわけです。「心の貧しい人々は、幸いである」(3節)。ではそう断言される理由は何なのか。それで「天の国はその人たちのものである」と理由が明らかにされて、当時の聴衆であった弟子たちも、また現代の私たちも、イエス様の教えに納得するわけです。「心が貧しい」とは、「霊において貧しい」という意味で、頼るものが何もない、自分ですら頼れない、神様しか頼ることができない、という状態だと言われます。むしろそれは神様に向けて心が、また霊が開かれているような状態ですから、そのような人々に天の国の門が開かれている、というのもうなずけるわけです。
続く「悲しむ人々は、幸いである」に関しては、そのように言われる理由として、「その人々は慰められる」と言われています。これも、そのように言われれば、納得できます。同様なことが記されているルカの福音書の方ですと、この逆で、「今笑っている人々は、不幸である」と教えられています(ルカ6章25節)。そしてその理由は、「あなたがたは悲しみ泣くようになる」と明らかにされています。マタイにある「悲しむ人々は、幸いである」の方は、それはそれで慰めにもなるのですが、ルカの方の「今笑っている人々は、不幸である」という教えは、ぞっとすると言うか、背筋が寒くなるような思いもします。私たちがこの世で、人生を喜び楽しみ、笑って暮らしたらそれは不幸なのか、という話になりますが、ここでは暗に、神様から離れて面白おかしく生きたときのことが指摘されているのであって、私たちが現実生活の中で笑うことがとがめられているのではありません。同様に、「悲しむ人々が幸いだ」と言われますのも、神様を信じるうえで、みこころに沿わないことが起こっている現実を悲しむ、などのことが想定されていると思われます。
残りの逆転現象、「義のために迫害されている人々」それからイエス様のために「ののちられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」、ここだけ「人々」ではなく「~のとき」と言われていますが、これらは両方とも「迫害」に関係しています。信じるうえでの迫害、となると、もはや時代錯誤と言いますか、キリシタンの時代か何かのことで、今の私たちにはさすがに関係がない、と思ってしまいます。しかし、この「迫害する」は、「追求する」という意味でもあります。信仰生活を送るうえで、「追求」されることは、あり得るでしょう。ある方が、身内を亡くされた方に「お祈りしてます」と言いました。すると、「祈ったところで何が変わるのか。そもそも、神がいるのならどうしてこういうことが起こるのか」と問い詰められた、ということがあったそうです。その方はご自分がお身内を亡くされたばかりで、同じ体験をしているから気持ちはわかる、何とか慰めたい、という思いで「祈ってます」と言ったのですが、相手には通じなかったようです。相手の方はクリスチャンではありませんでした。
私たちが信じているゆえに、何かを追及される、ということはあることだと思います。私たちの発言に対して、「なぜそのように言えるのか」と追及される。私たちが何よりも主の日の礼拝をたいせつにすることについて、「なぜそのような協調性のないことをするのか」と追及されることもあるでしょう。大学生のころ、学園祭が日曜日にかかる、でも日曜は礼拝に行くので学園祭の手伝いはできない、と言いましたら「クリスチャンである前に人間であれ」と随分言われたものです。このようなことは、いにしえの聖徒たちが受けた迫害からしたら、随分と軽いものだったことでしょう。いずれにせよ、そのような状態でも、それを体験したときはつらく悲しいのですが、幸いなのだから喜びなさいと言われる。それは、天における大きな報いがあるからです。
この迫害における幸いは、いくらイエス様からの「喜びなさい。大いに喜びなさい」との重ねてのイエス様からの御命令があったとしても、なかなか感じにくいものだと思います。ただし、これはあくまで事実描写として語られており、その意味では幸いの定義でもあります。私たちがそれを感じるかどうかで左右されるものではありません。私たちの感情を越えて、事実として、ここで語られている。それゆえに、信頼に足るものであるとも言えます。これは、古い時代の箴言にも通じるものがあるように思います。箴言には「事実を述べる言葉」というものがありまして、現実の状況を捉え、観察し気付いたことを述べる、というものなのですが、たとえば「主に従う人は完全な道を歩む。彼を継ぐ子らは幸い」(箴言20章7節)という格言があります。これも、客観的に世の中を観察して事実を述べている洞察の知恵の格言であり、同じく「幸い」という言葉が用いられていることもあり、共通しています。イエス様はそのように、旧約時代の箴言の形式も念頭に入れ、しっかりとした旧約の土台のもとに、新しい時代の知恵として、この幸いの教えを語っておられるとも言えるでしょう。
今日の福音書の箇所にあるこれら「幸い」についての教えは、今日の交読文の最後において主が求めておられることとして示されている「正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと」(ミカ6章8節)の具体的な表れであるとも考えられます。それに当てはめて改めて「幸い」の教えを見ると、義に飢え乾き、憐れみ深い人々は幸いであると教えられています。今年のみことばにある、「主の憐れみは決して尽きない」(哀歌3章22節)という言葉にもつながりがあります。
先ほど触れましたように、「山上の説教」とも呼ばれるこの箇所において、「天の国はその人たちのものである」という印象的な言葉が2度繰り返されている(3節、10節)ことに注目したいと思います。主のみこころに従って生きる者は自らを心貧しくし、義のために迫害までされながら地上の生涯を歩みます。しかし、憐れみ深い神様はそのままで終わらせることなく、そのように生きた人々に、天の御国を示してくださる。そうすると、その人々はまさに天国に所属していた、ということになるでしょう。それこそ、天には大きな報いがある、と言われる所以です。私たちもそのような歩みに倣い、自らの立場が悪くなろうとも義を求め、憐れみ深く生き、天国に所属する者として喜びの日々を歩ませていただきたいものです。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神様。
この朝も目覚めを与えてくださいまして、
この週の初めの日の礼拝を持たせてくださり、
感謝いたします。
イエス様の教えをありがとうございます。
私たちに、幸いであることとはどういうことなのか、
さやかに示してくださいました。
私たちがたとえ、
地上でマイナスに思えるような歩みをしても、
天の国に属する者として、
あなたは大いに私たちに報いてくださると信じ、
心から感謝いたします。
天の国に所属する者とされている幸いを味わい、
この世の歩みを続けていくことができますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・来週は第50回目の教会総会となります。昼食会があります。
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