top of page
執筆者の写真明裕 橘内

2023年1月22日 顕現後第三主日礼拝


【聖書交読】 イザヤ書8章23~9章3節(旧約p1073)

司)23:今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。

先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。

会)1:闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

司)2:あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。

全)3:彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。


【聖書朗読】 マタイ4章12~23節(新約p5)

12:イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。

13:そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。

14:それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

15:「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、

16:暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

17:そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

18:イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

19:イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

20:二人はすぐに網を捨てて従った。

21:そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

22:この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

23:イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。


【説教】「希望の光、明日の光」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


2023年も、その輝かしい希望に満ちた幕開けから3週間近くが経ちました。終わりの見えないウクライナでの戦乱、再び広がりつつある新型コロナウイルス感染と、私たちを不安に陥れる材料には事欠かない、といった現状です。重く垂れこめる黒雲を振り払い、希望の光を見出すためにも、私たちはイエス様の福音に誠心誠意、耳を傾けるのです。


本日の福音書には、「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(14節)という言葉を導入として、聖書交読の箇所が引用されています。



引用されているのは、イザヤ書8章23~9章1節です。


「先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。

闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」

(イザヤ書の預言、イザヤ8章23~9章1節)


それが、マタイの福音書になりますと、


「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、

暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

(マタイ4章15~16節)


となっています。


旧約聖書の引用についての研究によりますと、この箇所の引用の仕方ですが、当時すでにギリシア語に翻訳されていた旧約聖書よりも、オリジナルのヘブル語本文に近いところもあれば、自由にマタイの意図に合わせて引用された面もあると言われています。


細かく言いますと、ヘブル語旧約聖書にあった「辱めを受けたが」と「栄光を受ける」はマタイの方ではなくなっています。そして、イザヤ書の方の「闇の中を歩む民」はマタイでは「暗闇に住む民」となり、「死の陰の地に住む者」に揃えられていることがわかります。傾向として、言い方や用語を整理して、わかりやすくしようとしていることが感じられます。


そのようにして、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」(15節)とひとくくりりされた場所が「暗闇」また「死の陰の地」(16節)とまで言われているのには経緯がありました。


それは、北王国が紀元前8世紀にアッシリアに滅ぼされた影響で、アッシリアからの植民があり、アッシリア人などが住んでいたことが挙げられます。また、のちにローマによる支配の拠点にもなってしまいました。そのような経緯から、外国人が多いということで、「異邦人のガリラヤ」と言われるようになり、それに辺境の地である、というニュアンスも加わって、暗闇の地、希望のない地のように呼ばれるようになったと思われます。


しかし、まさにその地こそ、そこに住む住民が「大きな光を見」(16節)、彼らに「光が射し込んだ」(同節)と言われ、もとのイザヤ書の方では、続けて「あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った」(イザヤ書9章2節)と言われているのです。そのように喜びが与えられ、明日の希望が生まれるのです。


あらためて、イザヤ書の9章3節を読むと、次のように言われています。


「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった」(イザヤ書9章3節)


ここで「ミディアンの日」とは、士師記6,7章における、ギデオンが敵のミディアンに勝利した日のことで、ミディアン人は、シナイ半島地方からヨルダン川の東の地方に住んでいました。イザヤは、暗闇の地に光が差し、それによって希望が生まれることを喜びと捉えただけではなく、勝利であるとも捉えていたようです。もしかしてそれは、言葉には表れていなくても、マタイにも受け継がれているかもしれません。そして、それはひとえに、そこに救い主イエス様がお越し下さったから実現したのです。


まさにその場所で、イエス様は「天の国は近づいた」と言って宣べ伝え始められたのであり(17節)、実際にその地方の町であるカファルナウムに来て住まわれ(13節)、その足でガリラヤ湖のほとりを歩かれたのです(18節)。その時すぐに何かが変わったわけではなかったかもしれない。でも、確かにそこにイエス様が存在なさったということ自体が、希望の光、明日の光であったわけです。


それだけではありません。イエス様はそこで行動を起こされました。非常にささやかな行動です。主はそこで「二人の兄弟」というごく少数の人を「ご覧になり」(18節)、「わたしについて来なさい」(19節)と言葉をかけられました。始まりは、このような小さなアクションだったのです。ある意味できざしのようなものでした。しかし、まさにそれが、人類にとっての「希望の光、明日の光」となっていったのです。ですから、私たちの間でイエス様がなさることも、それは平和のことについてでも、私たちの抱える困難なことについてでもそうですが、それは最初はきざしのようなものなのです。最初から劇的に何かが起こり、何かが変わるわけではないかもしれない。骨折も、いくら今がインスタントの時代、何でも結果を早く求める傾向にある、と言っても、けがをするのは一瞬でも、治るには時間がかかるわけです。


しかし、後から見ると、このときたった2人だった主の弟子は、今や全世界に何十億といるわけであり、ペトロ個人を取っても、この小さなガリラヤ湖畔の町にいた働き人が、最終的には言い伝えではローマにまで活動の領域を広げていく。そのような大きな花を咲かせていくのです。


今日このみことばは私たちに何を語るのでしょうか。時期で言うとまだ1月、この1年の方向性を指し示すものとなるかもしれません。とかく不安になりやすい、そのような材料の多い世の中であるとも言えるかと思いますので、そのような中で、ある意味このみことばにあるように、暗闇の中に住み、また死の陰の地に住む、すなわち絶えず死を思いながらもその恐れをなかなか語ることができない中で毎日を過ごすには、外側から何か明るい光で照らしだしていただかなければなりません。その光を見出す上で、今日の福音書の箇所は大きな希望となります。ここに光がある、と希望を見いだして、この2023年を歩むことができるのです。


お祈りをいたしましょう。

闇の中に大いなる光を上らせてくださる神様。

この新しい一日をありがとうございます。

御子イエス様が来てくださって、

まさに暗闇に住む民は大きな光を見、

死の陰の地に住む者に光が射し込んだ、

とみことばが語る状況が実現しました。

そこに希望を見いだし、

不安の多いこの世の中でも、

明るく照らし出していただいて、

希望の中を進んでいくことができますように、

いつも導いてください。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


【報告】

・先週は昼食会があり、そのあと総会の準備のための役員会がありました。

・2月5日は第50回目の教会総会となります。昼食会があります。




閲覧数:17回0件のコメント

Comments


bottom of page