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執筆者の写真明裕 橘内

2023年1月15日 顕現後第二主日礼拝

【聖書交読】イザヤ書49章1~7節(旧約1142頁)

司)1:島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

会)2:わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して

司)3:わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

会)4:わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。

司)5:主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は

会)6:こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

全)7:イスラエルを贖う聖なる神、主は/人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て。


【聖書朗読】ヨハネ1章29~42節(新約164頁)

29:その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

30:『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

31:わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

32:そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

33:わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。

34:わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

35:その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。

36:そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

37:二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。

38:イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、

39:イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。

40:ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。

41:彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。

42:そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。



「神の小羊と呼んでみる」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日の説教のタイトルは、「神の小羊と呼んでみる」ですが、これは洗礼者ヨハネがイエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)と言ったことに基づいています。イエス様を「神の小羊」と呼んだのです。


イエス様にはいくつかの呼び名があり、有名なところではマタイの福音書1章で「インマヌエル」と呼ばれています。これは「神われらと共に」という意味です。そして、この箇所の「神の小羊」があります。こちらは、「神の小羊のような方」という意味で、たとえであることを示す「~のような方」が省略され、隠喩として「神の小羊」と簡潔に呼ばれています。この方を、私たちもヨハネに倣い、「神の小羊」と呼んでみよう、わかる、わからない、感じる、感じないを越えて、そう呼んでみるのだ、というのが本日のお話の中心点となります。大事な言葉、あるいは呼び名であるから、そうしよう、ということなのですが、そもそもなぜここで「小羊」が出てくるか、というところからお話をしていかなければなりません。ほかの動物でなく、なぜ羊、しかも小羊なのか、ということです。


これは、古い時代のイスラエルの習わしに起源があります。今でしたら動物愛護団体から非難を浴びることになるかもしれませんが、神様の前に出るのに、犠牲なしということは考えられませんでした。その時の数々の犠牲の種類の中に、小羊が入っていたのです。


創世記から振り返ってみますと、ユダヤ教において「アケダー」と呼ばれ、非常に重要な出来事とされている、神様がアブラハムにイサクをささげよとお命じになられる出来事に、小羊が出てきます。イサクは何も知らずに、父アブラハムとともにささげものをする山に向かいます。その時イサクはこんなことを言っています。創世記22章の7節を読んでみます。


創世記/ 22章 7節

イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」


ここで、神様に対するささげものとして、小羊を焼き尽くしてささげる、という考え方が見られます。続く8節には、このイサクの問いに対する父アブラハムの返答が記されています。


創世記/ 22章 8節

アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。


自分がささげられようとしていることを知らないイサク、そのことを知っていながら、本当のことを告げることのできないアブラハム。その葛藤の中で、アブラハムは犠牲の小羊を神様が備えてくださる、とその信仰を告白しました。最悪本当に自分の子イサクをささげなければならない、もちろんその覚悟もできている、しかし、神様はこの状況を打破するために、何か代わりのものをご用意くださっているのではないか。そのようなギリギリの信仰です。事実、神様は実際にイサクをささげなくても住むように、代わりの動物を用意しておられました。それは聖書では雄羊と言われているのですが、雄の小羊だったことでしょう。このように、誰かの身代わりの犠牲として、小羊が登場しています。


続く出エジプト記では、12章で、最初の過ぎ越しの際に、小羊が出てきます。12章 3節、「イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。」とありますが、偉大なる出エジプトの奇跡の直前、主がエジプト人を打つために巡るとき、小羊の血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗ったところは、主が過ぎ越していく、それで害を免れる、ということがありました。それ以降、その過ぎ越しの記念として、小羊をささげる過ぎ越しの祭りがおこなわれていきます。


レビ記にある詳細ないけにえの記述に関しては詳しく立ち入るいとまがありませんが、9章 3節以降に、「またイスラエルの人々にこう告げなさい。雄山羊を贖罪の献げ物として、無傷で一歳の雄の子牛と小羊を焼き尽くす献げ物として、」主の御前にささげるように、というところで、小羊について触れられています。


そのような中で、最も大事なのは、イザヤ書にあるイメージです。 キリストの犠牲を思わせる53章 7節で、このように言われています。「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」。まさにキリスト預言と言われるこの箇所で、自らを犠牲にして民をいやすメシアが、小羊として描かれているのです。これはかなり、本日の福音書の箇所の「神の小羊」という表現に似ています。


今引用しましたそれぞれの旧約聖書の箇所が物語っているのは、身代わりの犠牲です。そのような大事な事柄が語られるとき、付随するイメージとして、小羊が用いられているのです。そのことが、ヨハネの言葉の中にある「神の小羊」という呼び名につながっているのです。


そのように、私たちが神様の前に出るための犠牲として、イエス様はご自身をささげてくださったのでした。そのことを重視して、代々のキリスト教会はこの「神の小羊」というイエス様の呼び名を大事にしてきました。それで、「アグヌス・デイ」あるいは「アニュス・デイ」として、キリスト教美術の大事なテーマとなり、音楽の面でも、カトリックで言うところの聖体拝領、プロテスタントにおける聖餐式において賛美され、宗教曲としても独立していくことになるのです。


そのように、「神の小羊」と呼ばれる方が、今度はペトロを見て、「岩」と呼ぶようになる。そのことも重要です。イエス様は、単にご自分が「インマヌエル」であるとか、「神の小羊」と呼ばれる、というのではなく、イエス様の方も、誰かをとある呼び名で呼ばれる、ということがあるのです。イエス様がペトロを見て「岩」と呼ばれるとき、それは、ペトロ自身にもともとそのような岩としての性質があったことを意味するのではありません。あくまでペトロは揺らぎやすい、弱い一人の人間で、その点では私たちと何ら変わることがありません。むしろもともと岩のようではないペトロを、ご自身の目的のために、岩のような存在にしよう、というのが、イエス様なのです。そのためには自らを犠牲にするのもいとわないのがイエス様でした。そのように、イエス様はご自身の犠牲のもとに、揺らぎやすい私たちを岩のように盤石なものとしてくださるのです。私たちの内なる確信が弱まるような不安の時も、「この方をとにかく神の小羊と呼んで信頼しよう」というように、全幅の信頼を寄せていきたいと思います。


お祈りしましょう。

天の父なる神様。

このように私たちに目覚めを与えてくださって、

新しい朝、そして新しい一週間をありがとうございます。

昨日、また先週どんなに自分の弱さを見せつけられて落ち込んだとしても、

また今日、今週、新しくスタートを切ることができますので感謝します。

そのために、まさに神の小羊として、

私たちのために犠牲となられたイエス様がおられます。

どうか、その尊い犠牲のゆえに神の怒りは私たちの上を過ぎ越し、

大胆に神様の前に出られる者とされたことに感謝し、

いつも信頼して、この不安材料の多い世の中を歩み続けることができますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


【報告】

・先週は今年2023年最初の聖餐式がありました。

・本日礼拝後昼食会があり、役員会が開催されます。役員の方々の一年間の御奉仕に感謝します。


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