聖書交読 詩編148編(旧約p988)
司)1:ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
会)2:御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。
司)3:日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。
会)4:天の天よ/天の上にある水よ主を賛美せよ。
司)5:主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。
会)6:主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。
司)7:地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ
会)8:火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ
司)9:山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ
会)10:野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ
司)11:地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ
会)12:若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。
司)13:主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。
全)14:主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。
聖書朗読 ルカ2章22~40節(新約p103)
22:さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
23:それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
24:また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
25:そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
26:そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
27:シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
28:シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29:「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
30:わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
31:これは万民のために整えてくださった救いで、
32:異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
33:父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
34:シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35:――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
36:また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、
37:夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、
38:そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
39:親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
40:幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
説教 「安心してこの一年を終える」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
いよいよ今年2023年も大晦日を迎えました。年の瀬の慌ただしい中、このように御言葉のもとに集まって来られ感謝します。一年の神様からの恵みを感謝しつつ、本日のみことばに耳を傾けてまいりましょう。
まずはプロローグとも言うべき、22節から24節の部分です。
22:さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
23:それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
24:また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
イエス様の地上の両親は、律法にかなったことを行うのに熱心な人たちで、イエス様を主に献げるため、神殿に赴きました。23節にあるのは、出エジプト記13章にある規定です。なおかつ、彼らが携えていたいけにえの動物が鳩であったことから、これはレビ記12章にある、貧しい家庭の場合の例外規定に基づくささげものであったことがわかります。神様は一律にいけにえを規定されたのではなく、貧しい人たちへの救済措置として、別の比較的手に入りやすい動物をいけにえにすることを赦されました。ここに神様の御恩情、すなわち今年私たちがテーマにしてきた「憐れみ」を見ることができます。私たちの救い主は、貧しい家庭に生まれて、その現実を身をもって体験された方なのです。
〇シメオンとの出会い
エルサレムの神殿にイエス様の家族が到着すると、ある出会いがありました。
具体的には、2人の人に出会っています。一人は賛歌を語り、一人は人々皆に幼子のことを話しました。それはシメオンとアンナでした。シメオンの言葉は、賛歌を含めマリアへの言葉まで残されており、一方でアンナの言葉は残されてはいません。
彼らがまず出会ったのは、シメオンという男性でした。彼はイスラエルの慰められるのを待ち望み、メシアに会うまでは決して死なないとのお告げを受けていました。
・シメオンの賛歌
29節から32節は、シメオンが「神をたたえて言った」というところから、「シメオンの賛歌」と言われます。そのクライマックスは初めに置かれており、何と言っても「今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」というフレーズこそ、この部分の中心になっています。
26節の「メシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」という記述と、「安らかに去らせてくださる」という言い方から、シメオンが高齢の人物であったと言われることもありますが、それは定かではありません。「安らかに」とは、「平安のうちに」という意味で、「安心して去ることができる」ということです。そのような思いを、神様をたたえる歌の中で表わすことができるとは、何と幸いなことでしょうか。
そう言える理由は、救いにあります。「わたしはこの目であなたの救いを見た」と、シメオンは確かに言い切ることができました。だからこそ、安心してこの世を去ることができる、と述べることができたのです。
年末に際し、私たちもまた、主の救いがあるからこそ、安心してこの一年を去ることができます。確かに、やり残したことはあるでしょうし、もっと別な道があったのではないか、と思うこともあるでしょう。しかし、主の救いがあるからこそ、私たちは安心して一年を終えることができるのです。しかも、その救いは、主が私たちすべてのために整えてくださったものです。
この、ラテン語で「ヌンク・ディミティス」と呼ばれ、ルーテル教会の保守的な礼拝では旋律がつけられて賛美され、また葬儀でも用いられる賛歌は、イザヤ書の影響を色濃く受けているとも言われます。また、「去ることができる」とは、奴隷の解放を意味する言葉から来ている表現だとも解釈されるので、ここで言われている救いというのは、重荷からの解放、というイメージが強いとも思われます。私たちが何かに今、囚われているということはないでしょうか。こうしないといけない、という社会通念、やや凝り固まった「今までのやり方」というもの。あるいは、「私は不十分なのではないか」といった否定的な思いに縛られていたりしないでしょうか。私たちはそういった全てのことから、救われて、まったく解放されるのです。
・シメオンからマリアへ
続いて、シメオンからマリアへの言葉について、少し触れておくことにいたします。多くの人は、マリアは幸いな人だ、ということで、彼女に「おめでとう」ぐらいしか言わなかったかもしれません。先週見たマリアの賛歌の中で、確かに彼女は自分で自分のことを幸せ者と言っていたし、何しろ救い主を産んだのだから、おめでとう、と言われて何のおかしいこともありません。しかし、シメオンは違っていました。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」。この子のことで、あなたは何か心を刺し貫かれるような、まさに身を切るような辛く悲しい経験をする、という預言でもあります。ある意味で、彼は現実を見ていた、とも言えるかも知れません。まだまだこの子がどんな風に成長していくのか、楽しみで仕方がない、希望ばかり、といったときにふさわしくないとも思われますが、しかし、このシメオンの言葉によって、少し気が早いですが、マリアにとっては、ずっと先のイエス様の受難に心備えができたとも言えるのではないでしょうか。私たちにとって、究極的に救いをもたらしたのは、イエス様の十字架だったのですから。
〇アンナとの出会い
もう一人の人との出会い、それはアンナという女性との出会いでした。彼女は「夜も昼も神に仕えていた」ということで、一般的な言い方に従えば、たいへん敬虔な信徒であった、ということになるのですが、それは単に彼女の内面的なものを指すだけではありませんでした。なぜ彼女がそのように敬虔だとわかったのか。それは、具体的に言うと、神殿から離れないでいたからでした。その姿を見て、彼女は「夜も昼も神に仕えていた」と評価されたわけです。ここには、現代に当てはめた時、教会を離れないことの重要性を暗示しているとも考えられます。来る2024年も、2023年がそうであったように、教会を離れないで、夜となく昼となく、神様に仕えていたいものです。
またこの部分から、当時、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々が確かにいたことがわかります。その人びとにイエス様のことを伝えたのがアンナでした。来る2024年、私たちも救いを待ち望んでいる人々に救い主イエス様のことを伝えるものでありたいと、強く願います。
〇エピローグ
さあ、39.40節にたどり着きました。エピローグとも言うべきこの部分において、2つの大事なことが述べられています。まず、福音をもたらす方は、実は主の律法で定められたことをみな行った方である、ということです。そして第二に、イエス様はたくましく育たれた、ということです。そして、神の恵みに包まれていたのです。この救い主が、しっかりと前を見据えて、たくましく十字架に向かっていかれるのです。
〇今年一年を振り返り、来年を展望
さあ、今日はシメオンの「安らかに去らせてくださいます」という賛美の言葉から、「この一年を安心して終える」ということを受け取りました。私たちが解放され、平安のうちに、安心して後にしていくこの2023年は、どんな年でしたでしょうか。ひとつには、献堂50周年の年でした。1973年の12月9日に献堂式を迎えた当時の石屋川ルーテル教会、現在の御影ルーテル教会。当時のことを振り返り、懐かしむ時がありました。また、今年のみことば「再び心を励まし、なお待ち望む。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」(哀歌3章21,22節)を通して、尽きない主の慈しみと憐れみを覚え、感謝した一年でした。私たちの周りに目を転じますと、大きなことでは、数年間の間私たちを閉じ込めたコロナ禍から少し脱却し、コロナが5類扱いになった、ということがありましたし、つい最近、10月には、誰も想像もしなかった、パレスチナのハマスとイスラエルの戦争が始まったのが2023年でした。
私たちが向かっていく2024年は、どのような年になるのでしょうか。来年の教会の御言葉は、詩編117:1~2、「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。
主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ」となっています。「慈しみ」という点で、2023年の御言葉とつながりがあります。また、大事にしている「つながりづくり」の視点からすると、私たちが向かっていく2024年には、そのさまざまなつながりの中で、「一緒に賛美する」、すなわち、皆が一つ心になって一緒に賛美していくヴィジョンが見えてきます。更に、来年のみことばに基づく目標である「主の慈しみとまことをほめたたえよう」によって、私たちは明確に、「主の慈しみとまこと」に目を留めて歩んでいく、という道筋を得て、それに向かっていきます。一緒に主の慈しみを見ていこう、それを賛美していこう、ということです。どんなところに、主の慈しみを私たちは見出すのか。楽しみなところです。献堂50周年の記念の年を経て、私たちは次に、2026年の協会創立70周年に向けて進んでいきます。それに向けて、2024年、2025年と準備していくことになります。その過程にあって、来年2024年は、献堂50周年の今年同様、過去にどのような恵みを主が与えてくださり、この教会を導いてこられたか、ということに目を留めていくことになると思います。しかし、かと言って慈しみは過去のことだけでなく、私たちが足を踏み入れようとしている2024年の一日一日に、豊かに主が備えられているものです。それを皆で一緒に探して、味わい、賛美していく毎日が待っています。安心してこの一年を終え、希望を持って新しい年を迎えたいものです。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。
この一年最後の礼拝の時を感謝します。
私たちは今年あなたからいただいた数多くの恵みに感謝し、御前に出てまいりました。
特に今年は献堂50周年の年で、12月3日には記念礼拝を行い、あなたの恵みに感謝したことでした。私たちを様々な労苦や束縛、重荷から解放して下さり、この一年を、安心して終えることができ、感謝いたします。あなたからの大いなる救いと解放をいただいていますから、そのように心に平安を抱くことができます。新しい年2024年も、あなたが伴ってくださり、あなたが備えていてくださる慈しみを味わいながら、過ごすことができますように。いまだ戦火の絶えぬこの世界に、
「地には平和」とのみことばが、この世界に成就しますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・先週はクリスマスイブで、午前は待降節第四主日礼拝、そして愛餐会があって、そのあと4時半からクリスマスイブ燭火礼拝がありました。
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