聖書交読 イザヤ9章1~6 節(旧約p1073)
司)闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
会)あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
司)彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
会)地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
司)ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
全)ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
聖書朗読 ルカ1章47~55節(新約p101)
47節 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
48節 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
49節 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
50節 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
51節 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
52節 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
53節 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
54節 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
55節 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
説教 「神様がなさった偉大なこと」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
今年もクリスマスイブを迎えました。早速、本日の福音書の箇所から、クリスマスのメッセージを聞き取ってまいりましょう。皆さんご存知のように、イエス様の母となるマリアが、自らがイエス様を宿し、産むようになることを天使に告げられた後に語ったもので、マリアの賛歌とも言われ、マグニフィカトという呼び名でも知られている箇所です。
まず、47節を振り返ってみましょう。
47節 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
ここには、イエス様お誕生の知らせ、言い換えればクリスマスの知らせの背後に「喜び」があることが示されています。繰り返し皆さんお聞きになって来られたことかと思いますが、まだ10代だったかもしれないマリアが、突然身に覚えのない妊娠、出産のことを告げられて、そのことで世をはかなんでもおかしくない時でありました。しかし、マリアはその自らの身に起こった緊急事態を、喜びで乗り切ったのです。ここから、クリスマスの知らせは私たちにとって喜びである、ということとともに、喜びの信仰、あるいは信仰からくる喜びこそが、人生の危機から私たちを救う、という大きなメッセージを受け取ることができます。クリスマスは年の瀬にありますので、この一年を自ずと振り返る時期ともなりますが、今年一年、これは私にとって危機であった、という時を皆さん切り抜けてきたかもしれません。また、来る2024年も、私たちにとって何もかもうまくいく良い年である、などといった保証はどこにもないのです。それでも、私たちが危機を切り抜け、恐れずに、穏やかに来年2024年を迎えることができるのは、信仰によって心の中に喜びを頂いているからです。マリアがいただいた喜びが、私たちの信仰にも息づいているのです。
続いては、48節から50節まででひとくくりとなっております。
この部分には、身分の低い者に目を留めてくださる神様、幸せ者であったマリア、神様がマリアになさった偉大なこと、そして憐れみは世々に限りない、という盛りだくさんの恵みが込められています。少しずつ見ていきましょう。
マリアの賛歌のこの部分においては、身分の低い者に目を留めてくださる神様の姿が表れています。マリアが身分の低い者であって、そのマリアに恵みであっただけでなく、これは後代の、あらゆる弱い立場にある人々への良い知らせでもあります。だから、マリアは自らのことを、幸いな者であると認めることができました。自らを幸せであると認めることができること自体、たいへん幸いなことであると言えます。そして、イエス様のお誕生の知らせは幸いをもたらすものだったのです。
また、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」と言う時の「力ある方」とは、神様のことです。では、その神様のなさった偉大なこととは何か、と言いますと、マリアからすれば、それは取るに足りないような自分に目を留め、救い主が生まれるようにしてくださったことでした。私たちにも、神様は偉大なことをしてくださり、救い主に出会わせてくださったのです。私は、教会に行くようになって、洗礼を受けたいと思うようになった頃がちょうどクリスマスだったので、たいへんこの時期は印象深いものがあります。それまでの何の味気もなく過ごしてきた日々から、教会で救い主イエス様のお誕生のことを聞いて過ごすようになったクリスマス。1990年のクリスマスでしたが、私にとって大きな転機でした。まさに神様が私に、大きなことをしてくださったのでした。
続いて「憐れみは世々に限りない」とありますが、これは今年のみことばのうち、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(哀歌3章22節)という部分を思わせます。憐れみがずっと続くということは、旧約聖書の昔から変わらない約束だったのです。「憐れみ」を表わすことばはヘブル語からギリシャ語に変わりましたが、伝えようとしている内容は同じです。神様が私たちのことをわかってくださり、同情してくださり、親切に対応してくださり、助けようとしてくださるのです。この憐れみはなくなることがありません。
続く51節からも、53節まででひとまとまりとなっております。
51節に、「主はその腕で力を振るい、」とありますが、このように主の御腕に力があるという表現は、旧約聖書に描かれているあの出エジプトの奇跡、聖書において大事な救いのイメージとなっている出来事との関連を思わせます。旧約聖書の申命記5章において、十戒の二度目の記述が見られますが、その中には出エジプトの救いの奇跡を指して、このように述べられています。
「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。」(申命記/ 5章 15節)
マリアは当然このみことばを知っていたことでしょう。ですから、ここでマリアは、自らの賛歌の中に、神様から与えられる救いの恵みのことを織り込みたかったのではないでしょうか。それは、これから自らが産むと言われる救い主を通して、実現していくのです。
マリアはまた、神様のことを描写して、「権力ある者はその座から引き降ろされる」、また「飢えた人を良い物で満たす」と表現しています。この、「飢えた人を良い物で満たす」ということに関しては、有名な詩編の言葉との関連を見出すことができます。
「若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。」
これは詩編34編11節のみことばですが、恐らくこのみことばのこともマリアは知っていて、意図的に自らの賛歌の中に取り入れていると思われます。このように、マリアは突然の天使の来訪を受け、とっさに自らの信仰、また思いを表明したように見えますが、実は常日頃から聖書の言葉に慣れ親しんでいて、あたかもそれを自分の言葉であるかのようにして、その思いを表現することができた、ということがうかがわれます。すでにお気づきかと思いますが、このマリアの賛歌、また祈りといってもいいかと思いますが、これは旧約聖書サムエル記に記されている、あのハンナの祈りとの関連も指摘されます。サムエル上2章には、祈り求めていた子どもが与えられて、喜び歌うハンナの祈りが記されています。その一部をお読みしましょう。
「勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる。
食べ飽きている者はパンのために雇われ 飢えている者は再び飢えることがない」(4,5節)
このみことばをはじめ、マリアの賛歌に類似していることがわかります。マリアは旧約聖書の豊かな土壌に則って、自らの信仰、その思いを表現したのです。私たちも、自らの信仰や思いを表すのに、自らの限界の中で乏しい語彙を使うのではなく、「私は、このみことばにあるように・・・」などなど、聖書にある豊富な語彙を用いて、表していくことができたら素晴らしいのではないでしょうか。日本において有名な説教者である加藤常昭師は、ドイツ留学時に見た光景について語っておられます。「高校の授業で、若者たちがひたすら詩編を読んでいる。そうすると次第に、詩編の言葉で、自らの思いを語り出すようになるのだ」と。私たちもそのようにありたいと思います。それは自らの言葉を持たないのではなく、むしろ聖書の中の豊かな表現の中から、自らの思いにぴったり合うものを選び出してきて、それによってより豊かに表現することであるのです。
54節もまた、単独ではなく、続く55節とひとつながりになっています。
54節 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
55節 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
先ほどすでに、「憐れみ」という言葉について、今年の御言葉と絡めてお話ししましたが、ここで憐れみが2度目の登場です。いつもお話ししていることですが、この短いまとまりの中に2度もこの「憐れみ」という言葉が用いられているということは、それだけ大事なことばである、ということです。残念ながら、日本においてはこの「憐れみ」、「恵み」という言葉と並んで、あまりいい意味合いを持ってないかもしれません。「憐れんでくれるな」などと不貞腐れることもありますし、日本では「お恵み」というと、何かみじめなイメージがしたりするものです。自分を信じて、一人しっかり立ってこの世を渡っていく、という考え方においてはマイナスに見えるような、憐れみもお恵みも必要ない、と肩ひじ張って生きてしまうこともあり得る中で、「憐れみ」も「恵み」もプラスにとらえ、それどころかそれなしには生きられないと自覚して生きることは、実は尊いことである。そのように思います。もちろん、その時の「憐れみ」も「恵み」も、もちろん神様からいただくものです。
55節は、言い換えれば「神様は約束なさったとおりに事をなさる」と言うことです。キリスト教とは何か。それは、約束の信仰である、と言うこともできるかと思います。神様が、救い主キリストの誕生を古くから約束してこられた。そして、まさにその約束の通り、この世界に救い主が来られ、私たちはそのことをこのクリスマスに喜び祝っている。神様は、約束を守って下さったのです。そうであれば、聖書にあるほかの数多くの約束もまた、神様は実現してくださると信じることができます。私を幸いな者としてくださり、大いなるわざをなしてくださり、良いもので満たしてくださる。そして、私に対する憐れみを決して忘れることがない。これらの約束を、神様は必ず実現してくださいます。そのことに希望を抱く2023年のクリスマスでありますように。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。
今年もこのように無事クリスマスイブを迎えることができ、感謝します。
世の光として来てくださった救い主イエス様が、やみの中を歩んでいた私たちに光を投じてくださり、救いの道を照らし出されて救いに至ることができ、ありがとうございます。
そのように、あなたは偉大なる救いの業を私たちになしてくださいました。これからもあなたの素晴らしい数々の約束のうちに私たちを保ち、どんな困難な中でも希望を持って歩み続けることができるように導いてください。そしてもちろん、「地には平和」とのみことばが、この世界に成就しますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・先週はアドベントスペシャルで、スコラカントルム神戸の皆さんがお越し下さり、『メサイア』から抜粋を賛美して下さいました。感謝します。
・本日はクリスマスイブで、午前は待降節第四主日礼拝、そして愛餐会があって、そのあと4時半からクリスマスイブ燭火礼拝となります。是非お残りください。
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