聖書交読 詩編126編(旧約p971)
司)1:【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
会)2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
司)3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
会)4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
司)5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
全)6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
聖書朗読 ヨハネ1章29~34節(新約p164)
29:その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
30:『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
31:わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
32:そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
33:わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
34:わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
説教 「見よ、神の小羊」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日はアドベントスペシャルということで、スコラ・カントルム神戸の皆さんがお越し下さり、ヘンデルの『メサイア』から抜粋を聞かせてくださっています。「メサイア」とは、救い主のことです。救い主イエス様の誕生をお祝いするこのクリスマスの時期にまことにふさわしい曲です。素晴らしい演奏に心からの賛辞をお送りします。
さて、今年は暑い日が続きました。それで、今年一年を表す漢字は「暑」になるかと思ったら、それは2位で、意外にも1位は「税」でした。理由は様々ですが、重い負担感、というのもあるでしょう。誰かが犠牲になる、という社会。それは、社会の歪みの表れなのでしょうか。しかし、犠牲は悪いことばかりではありません。本日の聖書の言葉に聞いてまいりましょう。
救い主イエス・キリストをお迎えする準備をするために現れた洗礼者ヨハネは、そのイエス様を見た時、思わず「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。「神の小羊」という表現には「犠牲」のイメージが伴います。ですが、その犠牲によって、誰かが生かされるのです。ここで言われる「小羊」あるいは「神の小羊」は、イエス・キリストを表しています。「小羊」は、スコラ・カントルム神戸の皆さんにこのお話の後演奏していただく
メサイアの第53曲にも出てまいります。「屠られた小羊」として、新約聖書の最後、黙示録5章に登場します。かつて動物の小羊が犠牲としてささげられたように、イエス様が犠牲となる。そしてそれによって、私達人間が神様の前に生かされるのです。
イエス様の犠牲。それは、一重に「世の罪を取り除く」ためでした。世にはびこる罪が何も生み出さず、却って人々から大事なものを奪い取り、悲しみに陥れることを知っておられて、父なる神様はイエス様を神の小羊とし、その犠牲によって世の罪が取り除かれるようにしてくださったのです。それはのちにイエス様の十字架によって実現しました。イエス様の十字架の犠牲によって、私たちを苦しめる世の罪は取り除かれるのです。
30:『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
続く洗礼者ヨハネの言葉によると、この神の小羊とは、ヨハネの後に来るのではあるが、ヨハネより先におられたので、ヨハネよりまさっている、とのこと。これは矛盾したような言い方です。イエス様はヨハネの後に出現する。そもそも、このヨハネはイエス様の出現のために準備をする存在として現れたので、イエス様がヨハネの後に出現する、というのはもっともなことです。しかし、そのイエス様がヨハネよりも偉大な存在であることの理由として、ヨハネより先におられたとは、どういう意味なのでしょうか。
これは、潜在的には洗礼者ヨハネよりずっと先に世界にはおられたのであるが、救い主として明確に姿を表されたのはヨハネより後、ということになるでしょう。複雑な話にはなりますが、三位一体の神様として、イエス様は永遠の昔から存在しておられ、天地創造のわざに参与されたのです。しかし、具体的なことで言えば、イエス様というお名前までは、明らかにされていませんでした。救い主イエス様として世に現れ、公の場で教えを始められたのは、洗礼者ヨハネの活動の後だったのです。神様からの知恵によってイエス様が世の初めから存在しておられたことを教えられたヨハネは、もうそれだけで、イエス様が自分よりまさった、偉大な方であることを悟ったのです。
31:わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
「わたしはこの方を知らなかった」とは、実際洗礼者ヨハネはイエス様と地上的な意味では親戚同士だったので、理解に苦しむ表現ではあります。ここでは、神様からの知恵なしには、それこそイエス様を親戚ぐらいにしか思うことができず、その存在の深い意味、重要性を自分の知恵で知ることはできなかった、ぐらいの意味でしょう。
32:そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」とは、イエス様が神様に由来する特別な存在であることを表そうとした言い方です。引用符のある”霊”は、神の聖霊のことと思っていただいて構いません。三位一体の神様を父、子、聖霊と称する時の、あの聖霊です。
33:わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
そしてまた改めて、自分の知恵ではイエス様の偉大さ、重要性を知ることがなかったことを強調するために、「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返します。イエス様を「聖霊によって洗礼を授ける人である」と洗礼者ヨハネは言い表しますが、これは自らが行っていた、「水によって洗礼を授ける」こととの対比のための表現です。実際にイエス様は直接洗礼を授けてはおらず、弟子たちが授けていたのですが、それでもヨハネ同様水を使っていたでしょう。しかし、問題はその力と効果です。ヨハネは、イエス様の洗礼、すなわちイエス様名義で行われる洗礼が、自分の授けている洗礼よりも遥かにすぐれており、人を救い、生かす力があり、永続的な効果を持つ、ということを神様の知恵によって教えられていたのです。そのことを表現するために、あえて「聖霊による洗礼」という言い方をしたのです。
34:わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
ヨハネは、「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」という奇跡的な体験を通して、親戚の一人に過ぎないイエス、ではなく、神の子であるイエス様を見出しました。そして、そう証言したのです。それだけではありません。ヨハネは、イエス様の生涯が、「神の子羊」という言葉に代表されるように、誰かのための犠牲のトーンを持っていることを見抜いていました。そしてそれは、私たち人間のための犠牲であったのです。
今日は聖書における「神の小羊」という言葉を軸に、「犠牲」というテーマに取り組んでまいりました。この犠牲、ということ、「自己犠牲」ということで、崇高な精神として大事にされています。例えばそれは文学作品の大事なモチーフにもなっています。一時期よく読んでいた梶尾真治という作家は、SF作品、特にタイムトラベル的な作品の多い作家ですが、その作品には実にしばしば、この自己犠牲の精神が色濃く反映しております。誰かのために犠牲となって何かをする人生も悪くない。そのように思うこと、皆さんもおありではないでしょうか。もちろん、それがしてあげている、そして更にマイナスの方向に進んで、させられている、となってくるとしんどいことにはなるのですが・・・。
ただ、いかがでしょう。イエス様が神の小羊となって人間の犠牲となるのを、後悔しただろうか、ということです。私たちが自分たちの狭い世界で考える自己犠牲などとは遥かに異なり、イエス様の体験された十字架という犠牲は、私たちの想像を絶するような、身体的、精神的苦痛を伴うものでした。イエス様の十字架当時、そこにはあざ笑いの声が上がっていたことを考えると、そこに露呈していた人間の無理解、それに対してイエス様が一切言い訳をしなかったこと、それがいかに耐え難いものであったかは察するに余りあるものです。それでも、イエス様は後悔するどころかむしろご自分のなさった犠牲のわざに満足され、それによって人が生かされ、救われていくことを喜ばれたのです。
私たちもそれに感化され、そのように生きたいと思う時、「人のために生きるのは良いことであり尊いことだ」、というのは、道徳や倫理の世界で十分対応できる考え方です。しかし、私たちが理不尽なことに直面した時・・・わかってもらえない、思ったほどの感謝が得られないなどなど、そういった時、初めて、それでもわかってくださり、労に報いてくださる人間を超えた存在、神というものに思いが至り、信仰ということを考え始める、ということがあるのではないでしょうか。
今日はこのように、「神の小羊」ということばから、イエス様の犠牲について思いを馳せてまいりました。イエス様が犠牲になってくださったおかげで、私達は生かされ、救いを頂いております。そのことのゆえに、私たちはイエス様に感謝し、その救いを喜びます。そして、様々な方法を通して、ひとつには音楽を通して、救いの喜びを表現するのです。私たちの人生の意味も、神の小羊として現れたイエス様に感謝し、与えられた救いを喜び、それを表現することにあるのです。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。
この朝をありがとうございます。
メサイアの素晴らしい演奏を通して、救い主のお誕生を祝うことができ、感謝します。
この救い主イエス様が、神の小羊として、私たちのために犠牲となってくださったからこそ、私たちは神様の前に生かされ、救われていることに改めて感謝いたします。
この感謝を表しながら、人生の旅路を歩んでいくことができますように。
その人生の中で困難に出会うとき、イエス様の力で覆ってください。
世界を見渡しますと、そこには戦火が絶えませんが、
地には平和、とのみことば通り、
主による平和が実現しますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日はアドベントスペシャルで、スコラカントルム神戸の皆さんがお越し下さり、『メサイア』から抜粋を賛美して下さいました。感謝します。
・来週はクリスマスイブで、午前は待降節第四主日礼拝、そして愛餐会があって、そのあと4時半からクリスマスイブ燭火礼拝となります。是非お集まりください。
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