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2023年11月5日 全聖徒主日 召天者記念礼拝

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2023年11月5日
  • 読了時間: 10分

交読文 詩編34編2~11節(旧約p864)

司)2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。

会)3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。

司)4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。

会)5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。

司)6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。

会)7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。

司)8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。

会)9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。

司)10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。

全)11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。


聖書朗読 マタイ5章1~12節(新約p6)

1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。

2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」


説教 「天にある慰め」  


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日は年に一度の全聖徒主日に合わせて、召天者記念礼拝としております。全聖徒主日とは、今この世を生きる信仰者と、すでに世を去った信仰者たちが、一緒になって神様を礼拝する主の日、すなわち日曜日、という意味です。すでに世を去った信仰者の方々を、神様が天に召された、召天者であるとして記念し、しのぶ礼拝のひと時です。本日は、この教会で葬儀をなさった方のご家族など、関係の方々にもご案内を送付し、お越しいただきました。多数お集まりくださり感謝申し上げます。ルーテル教会には聖書日課というものがありまして、本日読むことになっている福音書の箇所を先ほど読んでいただきました。その聖書の言葉に基づき、しばしの間、お話をさせていただきます。


多くの群衆がご自分のもとに集まってきているのを見て、イエス様は山に登られます。そこで、この箇所は「山上の説教」とも呼ばれています。ですが、実際はイエス様を慕い、その近くにいて付き従っている弟子たちが近くに寄って来たので、その弟子たちに語っているのが、本日の箇所になります。


1)天の国はその人たちのもの~その1 「心の貧しい人々は幸い」

この部分には、「幸いである」という教えが続いています。特に今日は、召天者記念礼拝に合わせ、「天の国」という言葉が見られる箇所を中心に味わっていきたいと思います。


この箇所には、「天の国はその人たちのものである」と言われているところがふたつあります。この3節と、10節です。まずこの箇所を見ていきましょう。どのような人たちを指して、「天の国はその人たちのものである」と言われているのでしょうか。その直前を見ると、「心の貧しい人々は、幸いである」と言われています。本日の箇所には、この世の価値観と異なる考え方が見られます。普通は貧しい人々を幸いであるとは言いません。そうすると、「心が貧しい」という表現に鍵がありそうです。そもそも、「心が貧しい」とはどういうことなのでしょうか。この場合、「心が貧しい」とは「心が卑しい、心が狭い」ということではない、と言われます。むしろ自分の正しさを誇らず、心砕かれた謙遜な人、ということになります。神様を視野に入れ、神様との関係の中で物事を考え、それゆえに人間に頼らず、誇ることのない人々。そのような人たちのために、天の国がある、というのです。そうすると、天の国とは、どこか遠くにあるというよりは、神様を中心とした信仰のコミュニティーの中に、もう存在するのです。そこに、慰めがあるのです。


2)慰め

続く4節に、まさに「慰め」という言葉が出てまいります。「その人たちは慰められる」。その人たちとは、「悲しむ人々」です。ここでも、この世の価値観との違いが浮き彫りにされています。「悲しむ人々は、幸いである」と言われています。普段なら、とてもではありませんが、こんなことは言えません。深い悲しみに沈む人に、誰が「そのようなあなたは幸いだ」と言えるでしょうか。しかし、「その人たちは慰められる」と言われる時、それは「誰かが傍らにいて、それで慰められる」という意味です。私はこれまで牧師として多くの葬儀に関わり、その際に、多くの場合、ご家族の方々がひとりではなく、何人かで一緒におられ、寄り添うようにしてお互い慰め合っている麗しい姿を目にしてきました。ここでも、葬儀の場でありながら、そこに慰めの小さな共同体が生まれ、あたかもそこが、この世にある慰めの天の国になる、ということが実現しているのです。


その他にも「幸いである」という教えが重ねられていますが、どれも重要な聖書の言葉でありますけれども、今日のテーマを優先して、割愛させていただきます。


3)平和を実現する

それでも、10節にある、もうひとつの「天の国はその人たちのものである」に入る前に、9節にどうしても見落とせない言葉がありますので、それにだけ触れておきたいと思います。それは、「平和」という言葉です。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」と言われています。もう600日以上続いているウクライナとロシアの戦争、そして先月急に勃発した、誰もが予想だにしなかったパレスチナとイスラエルの戦争状態。それを目の当たりにしている私たちは、今世界中の誰もが、この「平和を実現する人々」の出現を待ち望んでいることを知っています。「その人たちは神の子と呼ばれる」と複数の人間であるように書かれていますが、第一に、これは神の子イエス・キリストのことを指しています。分断されて相容れない二つのものを、不思議にも一つとされるのは、この地に十字架を打ち立て、平和を宣言されたイエス・キリストです。そして、この聖書の言葉を自分のこととして受け取り、イエス・キリストに倣う者として、積極的にこの「平和づくり」に参与する人々の存在も重要となってきます。救い主イエス・キリストを信じて、神様の子どもとされた人々は、自覚的に、この平和づくりに参加していきます。それは、ごく身近なところで「つながりづくり」をしていくところから始まります。家族の中に、地域社会の中に、つながりが絶たれてしまっている人はいないか。そのような小さなほつれを治しながら、やがては世界平和を夢見て、聖書の言葉にある「地には平和」を合言葉に、平和の実現の働きに身を投じていくのです。


4)天の国はその人たちのもの~その2 義のために迫害される

今の情勢を見て、平和について少しお話ししましたが、テーマをまた天の国のことに戻していきたいと思います。「天の国はその人たちのもの」ということばが2度出てくる、とお話ししましたが、その2回目の方、10節の所です。少し耳慣れない言葉です。「義のために迫害される人々は、幸いである」。そして、「天の国はその人たちのものである」とイエス・キリストは言われます。そもそも迫害という言葉が、現代日本ではあまり馴染みのない言葉です。そこにまた、「義のために」とありますから、余計イメージしにくい表現となっております。これは、「義を求めて」迫害される、と言い換えることもできますし、義を奉じるゆえに」迫害される、という理解もできます。その場合、私たちに義を与えてくださる、私たちを義としてくださる方を私たちが信じるがゆえに、迫害される、ということにもなりましょう。これは、私たちを義とする神様を信じるための迫害、ということです。ある一つの信念を持つことで、それを持たない人からの批判、無理解を被ることはよくあることです。神様を信じることもそれと同じです。しかし、そのような苦しみに遭う人たちを、神様は放っておかれません。たとえこの現世で苦しむことがあっても、神様は幸いな慰めの来世を約束してくださいます。ただ、これだとどうしても天の国が来世であるというイメージが強くなってしまって、現世の只中で体験できる天の国、という側面が弱くなってしまいます。この世においても、信仰者同士の「つながり」の中で、すなわち信じる者たちのコミュニティーの中で、天の国は実現します。孤独にさいなまれていた人々が教会の交わりの中でいのちの豊かさを回復し、喜びに満たされていく。それはひとつの天の国です。絶望しかなかったところに希望の光を見出し、慰めを受けることが、あたかも天からの慰めとして信仰者の間で受け止められる。それこそが、この世において、現世で天の国を味わうことであるのです。


5)天にある大きな報い

11節は、10節の拡大、強調です。ですから、「天には大きな報いがある」というのも、「天の国はその人たちのもの」というフレーズの言い換えであると考えられます。それであるにせよ、私たちにとって、この「報い」のある人生は魅力的です。結果、成果のなかなか見えない中で、報いというものをなかなか感じられず、「報われることなどそうそうない」と諦めてしまうところ、「天には大きな報いがある」と言われることはまた慰めでもあります。それは人生に意味がある、ということでもあるからです。「天には」とわざわざ断り書きがあるのは、「神様を信じる世界には」、ということなのかもしれません。座標のない、軸のない人生の中では、自分が何者で、何に向かっているのかもわからない、そこを神様という軸をしっかりと人生に入れることで、自らを知り、向かう方向性もわかり、最終的には「この人生、捨てたものではない、なかなか良かった」と振り返ることができるようになる。このようなことなのではないかとも考えます。不条理とも思えるような世の中で、すべての願いが叶うわけではなく、失望することも多い中で、それでも私たちが絶望せずに生きていけるのは、神様がおられるからです。この神様が、苦境に立たされている私たちのために救い主イエス・キリストを送ってくださり、望みのない人生から救い出し、天にある大きな報いを目指して生きるようにしてくださるのです。


すでに世を去られた信仰者、すなわち召天者の方々は、この希望を抱き、天に大きな報いがあることを天にある慰めとして受け止め、信仰の歩みを続けて来られました。その方々をしのぶだけでなく、日本では「供養する」とよく言われますが、その方々のために何かしたい、ともし思われたら、召天者の方々がいちばん望んでおられるのは何か、ということを考えるのがよいかと思います。この方々は、神様が送られた救い主イエス・キリストを愛し、また教会を愛して過ごされました。できれば教会にずっと集いたい。しかし、病などの理由によってその望みが断たれ、そして天に召されて行かれました。そのことを思うと、残された私たちが教会に集い続けること、このことを召天者の方々が願っている、ということは言えるかと思います。ぜひ教会に集い、教会を支える一員になっていただければと願っております。先に天に召された方々のことを思い起こし、その足跡に倣い、私たちも天にある慰めを目指して、歩みを続けたいものです。


お祈りしましょう。

天の父なる神様。

この召天者記念礼拝のひと時をありがとうございます。

先に天に召されていった信仰者の方々を思い起こし、しのぶ機会となりました。

その足跡に倣い、私たちも天の国を目指し、そこにある慰めを求めて生きてまいります。

その歩みの途上で、この地上においても、あたかも天の国にいるような、

温かい信仰者同士の交わりや神様からの御配慮を感じて生きることができること、

感謝をいたします。

いつも共にいて、私たちのこの世での旅路をお守りください。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日は全聖徒主日に合わせ、召天者記念礼拝です。午後1時より教団納骨堂にて墓前礼拝です。




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