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  • 執筆者の写真明裕 橘内

2023年11月19日 聖霊降臨後第25主日

交読文 詩編90編1~12節(旧約p929)

司)1:【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。

会)2:山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。

司)3:あなたは人を塵に返し/「人の子よ、帰れ」と仰せになります。

会)4:千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。

司)5:あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。

会)6:朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。

司)7:あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。

会)8:あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。

司)9:わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。

会)10:人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。

司)11:御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて/あなたの憤りをも知ることでしょう。

全)12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。


聖書朗読 1テサロニケ5章1~11節(新約p378)

1:兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。

2:盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。

3:人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。

4:しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。

5:あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。

6:従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

7:眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。

8:しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。

9:神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。

10:主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

11:ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。




説教 「あなたがたは光の子」  


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン



聖霊降臨後最終主日が目前に迫った本日聖霊降臨後第25主日、世の中もパレスチナのハマスとイスラエルの戦争状態も混迷を極める中、私たちはパウロの初期の手紙と思われるテサロニケの信徒への手紙第一を開いております。イエス様の再臨がすぐにでも起こると思っていたパウロが、終末の時のことについて、具体的にはイエス様の再臨のことについてをテーマに書いている部分です。


1)再臨の時期は?

前の章、4章において、パウロはイエス様の再臨のことを描き出しています。4章16節には、「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます」と記されています。ここまで詳しくイエス様の再臨の様子が描かれれば、当然のことながら、このような素晴らしいことが起こるのはいつなのか、という好奇心が湧いてもおかしくありません。しかし、今日のテキストである5章は、「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」という文章で始まっているのです。これは不思議なことです。主の再臨がいつなのか、ということについて、触れないでおくことなどあり得るのでしょうか。しかし、パウロはそれについて、明らかにしようとしません。むしろ、あなたがたは前もって教えられなくても、信仰者であるならそれを知ることができる、と言うのです。2節で、「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」と言われている通りです。


ここでは、「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」という、どちらかと言うと主の日の恐怖の側面が取り上げられています。ここで言われている「主の日」が、イエス様の再臨の日のことです。このイメージには、続く3節の、「人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません」という、「突然襲う主の日」の、苦難の側面が深く関係しています。そこには、「誰もそこから逃げられない」という性質も加わって、私たちが主の日の到来を恐れることを目的に書かれたかのようにさえ思われます。


しかし、決してそうではないことが、4節において明らかにされます。「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです」とあり、暗闇の中にいて主を恐れない人には恐怖となる主の日が、信仰者にとっては恐怖となることはない、と明言されています。ここで、「兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません」と断言されていることが、私たち信仰者の状態を表わす言葉として、たいへん重要になってきます。これは、5節で言われていることの前提になっているからです。私たちは、決して暗闇の中にいるのではない。確かに、ドキュメンタリーの題にもなりそうですが、私たちが「混迷の世紀」に生きていることは間違いありません。戦争の世紀であった20世紀を乗り越え、戦争のない、平和な21世紀を夢見て、私たちが目の当たりにしたのは何だったか。911、アメリカ同時多発テロとして知られるあの出来事、私たちが崩れ行くワールドトレードセンターを固唾を飲んで見守り、何が起こっているのかを知って戦慄を覚えたあの出来事は、まさに希望を持って全世界の人々が21世紀の幕開けを喜んだ、2001年に起こったのでした。その後何が起こったか。アフガニスタン、イラクへの軍事攻撃が起こり、多くの兵士がいのちを失い、疲弊し、また昨年起こったウクライナとロシアの争いでは一般の人々のいのちも多く奪われ、それはつい先月起こったパレスチナのハマスとイスラエルの戦闘状態でもますます広がっている。私たちは恐ろしい戦争の世紀を越えてきたはずだったのに、いつの間にか輝く希望の21世紀も、もうその最初の20数年が、戦争に彩られている。これは何と皮肉なことでしょう。


このようなことを目の当りにしたら、誰もが、今なお私たちは暗闇にいる、と言わざるを得ない。そのような現実を前にしても、神の御言葉は変わらず、「あなたがたは決して暗闇の中にいるわけではない」と私たちに語りかけてきます。私たちが目にしている「現実」と呼ばれるものと、神の言葉が指し示すリアリティーとのせめぎ合いを私たちは経験するわけですが、その際に軍配が上がるのは、神の言葉が伝えるリアリティーの方です。私たちはそちらを選ばなければならない。どんなに私たちの目の前が暗くとも、私たちは御言葉が伝えるリアリティーの方を、私たちが今暗闇にいるのではない、ということの方を、真実として受け取るのです。


2)あなたがたは光の子

そのことを前提として、次の御言葉を聞きましょう。5節です。「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません」。改めて、後半で「私たちは夜にも暗闇にも属していない」と言われていることに注意したいと思います。いくら私たちの前に暗い現実が広がっていようと、私たちが暗闇に属している、などということはありえない。私たちはあくまで「光の子、昼の子だからです」と断言されています。この御言葉を、努力目標に置き換えてしまわないように、どんな時にも細心の注意を払うことが必要です。そうでないと、人間はいとも簡単に、この素晴らしい福音の宣言を、「あなたがたは光の子、すなわち昼の子でなければなりません」という律法に替えてしまうのです。


律法とは、私たちに何かしら要求してくるもの、と言い換えることができます。しかも、この要求としての律法の方が、人間にはわかりやすく、ピンとくる、というやっかいな性質があります。人間は、特に日本人はそうだと思いますが、何もしなくても、そのままでいいんだ、というメッセージに親和性が少ない。あの、お客さんとして招かれて、お茶が出てくるのを待っている間の、「どうぞゆっくりお座りになっていてください」と言われた時の何とも言えない居心地の悪さ・・・。却って「ではお手伝いください」と言われて、何か役割をいただいた方が、貢献している、という手ごたえがあって、そこにいやすいという、あの独特の心理をご経験なさる方は少なくないかと思います。それはよくわかりますが、それでも、ここではこの「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです」という言葉を、あくまでその通り、私たちが今現に、光の子、昼の子であるのを宣言する言葉として、受け取りたいと思います。もちろんそれは、神様が私たちを、光の子、昼の子と「してくださった」ことを意味します。しかも、「あなたがたはすべて」とありますから、信じる全ての者が、分け隔てなく、神様によって光の子、昼の子とされていることが示されています。もちろん、これから信じようとしている人々のことも、例外なく光の子としてくださることの約束です。


その私たちに、6節で「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」と勧められています。光の子とされることは、完全に神様の働きです。そのお働きを受けた私たちは、「目を覚まし、身を慎んでいる」ということですが、これもまた、神様が私たちを、そのようなことができる存在へと変えてくださる、という神様の側での働きを意識しておきたいものです。また、このように「目を覚ましている」というのは、先週の福音書の箇所でも示されていた姿勢であって、終末の時を過ごす時の共通の姿勢とも言えるでしょう。


3)私たちは昼に属している

続く8節では、「しかし、わたしたちは昼に属していますから」とあり、あなたがたは昼の子、夜にも暗闇にも属していない、と言われた時に、昼に属している、ということが実は前提とされておりました。「私たちは光の子である」と言う時に、それは「私たちは昼に属している」ということを意味していたのです。私たちが何に属しているのか、その「所属」ということが、私たちの性質を決める、という重要な側面があります。その点では、私たちは暗闇に所属しているのではなく、昼に所属している、ということになります。そして、昼の所属だからこそ、私たちは明るく、光の子であり、昼の子である、ということになるのです。その私たちに、8節の後半で「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」と勧められています。ここでも、「身を慎んでいましょう」との勧めがなされています。7節でも最後に同じく「身を慎んでいましょう」と言われていました。このように7,8節と二度繰り返されているということは、重要である、ということです。改めて、重要なこととして、終末の時代をどう過ごすのか、この御言葉によく表されています。


4)私たちの良い命運

続く9節は、ある意味で、その「身を慎んでいましょう」と言われることの理由と言いますか、根拠とも言うべき箇所です。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」と書かれています。そのように、せっかく救いにあずかるよう定められた私たちなのだからこそ、身を慎んでいよう、というつながりになると考えられます。ここに、私たちに対する、神様の良い定めが明らかにされています。私たちは信仰を持って、運命論からは決別したはずですが、敢えて言えば、これは神様が私たちに与えてくださった、良い運命でもあります。私たちの印象はどうでしょうか。洗礼を受けて変わったかと思えば、いつまでたっても古い自分の姿が見え隠れする。やることなすことがすべてうまくいくとは限らない。むしろ、悪くなっているように思える。そのような時には、私たちはもしかして神様の怒りに定められているのではないか、との思いを持つかもしれません。ですが、それはまやかしであり、ある意味で悪魔のささやきです。どのような時であっても、私たちは神様から、救い主であり人生の主であるイエス様による、もっと細かく言えばイエス様の十字架による救いにあずかるよう定められているのであり、それが私たちの良い運命なのです。


5)イエス様の十字架の理由

10節は、そのような私たちの良い運命の土台、イエス様の十字架の理由です。なぜ私たちなどのために、イエス様が十字架で死なれたのか、ということです。それについて、パウロは「わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と明かしています。「目覚めていても眠っていても」は、目覚めた信仰、すなわち自覚した信仰を持っているときでも、眠っているような、惰性で信仰生活を送っているようなときでも、という意味でごく自然に理解できるところではありますが、その意味するところは「生きている間も、死んだのちも」ということであって、同じ比喩表現であるにしても、もっと根本的な、私たちの生と死の問題に深くかかわった表現であると言われています。


「眠っていても、主と共に生きる」、すなわち、死んだ後も主と共に生きるとは、矛盾をはらんだいい方にも思えますが、実はそうではありません。イエス様は、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(マタイ22章32節)という表現を通して、実は人が何らかの姿で、ずっと神様の前に生き続けるのだ、ということを明らかにされました。それは、死を越えるいのち、とも呼びうるものです。たとえこの地上での旅路を終えることで「死」と呼ばれる形態に入ったとしても、それでもなお人はイエス様と共に生き続ける。そういうことです。ここには、再臨を巡る矛盾点を解消する手がかりがあります。パウロがあれほど熱心に待ち望んだ再臨がまだ起こっていないというのは、どういうことなのか。しかし、再臨が主とお出会いして主と共にいるようになることであり、また、再臨をいまだ経験することのない私たちが、生きていても、たとえ死んだとしてもイエス様と共に生きるとするなら、結果はどちらも同じです。ここに、いまだ再臨が起こっていない状況が異常事態であり、間違っている、悲しむべき状態、というのではなく、まだ再臨が起こっていなくとも、私たちはいつでも主と共に生きるという、幸いな状態に置かれている、ということが明示されているのです。


6)お互いのために

「ですから」と、11節は、今までの議論を経て、最後に行きつくところを総括して指し示します。「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」。これが私たちの目指すところであり、また、光の子の特徴であるとも言うことができます。しかも、ここにパウロは、「現にそうしているように」という小さなフレーズを加えました。そのように描写できるテサロニケの教会は、きっと麗しい愛に満ち溢れていたことでしょう。献堂50周年という、輝かしい節目を迎えようとしている私たちも、現に今そうしているように、互いに励まし合い、互いの向上に心がけたいものです。別な言い方をすれば、「互いの徳を高める」ということです。「建徳的な生き方」と、教会用語かと思いますが、そんな言い方もなされることがあります。フィリピの信徒への手紙2章3,4節で、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と言われることとつながりが深い考え方です。大抵は、自分の方が相手よりも優れている、と思いたいのです。でも、そうではないということは、ここに神様の助けがなければこのように思うことは困難です。表面上は取り繕っていても、どこかで「いつか見返してやりたい、優れているのは本当は私の方なんだ」と思っているときは、私たちの内には暗い衝動があり、どこか切ったらどす黒いものが吹き出すような、まさに暗闇に属しているようなものです。しかし、神様に心整えられて、相手の方が優れている、と納得しているときは、心はカラッと晴れ上がっていて、私たちはまさに光の子、昼の子として、光に属し、光のうちを歩んでいるのです。献堂50周年を迎えようとしている今、私たちがそれぞれ神様に捕らえられて、お互いの向上のために力を尽くし合うなら、きっと私たちも想像しなかったような大きなことが、この教会に起こるに違いありません。期待して、今週も光の子として生きてまいりましょう。


お祈りしましょう。

天の父なる神様。

今朝も御言葉から語りかけてくださり感謝します。

まさに終末の時を生きる私たちに、

身を慎んで生きる道を示してくださいました。

私たちはすでに光の子、昼の子とされていること、感謝をいたします。

その感謝を胸に、今の困難な状況の中も歩みを止めることなく、

進み続けることができますように。

「地には平和」との御言葉の通り、

この地に平和が実現しますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・来週は馬渕主事の説教です。橘内師はベテル教会での説教と聖餐式のご奉仕です。午後の園田伝道所礼拝は、堺育麦キリスト教会の豊島先生の説教です。

・来週午後1時から、第6回三浦綾子読書会が開催されます。







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