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  • 執筆者の写真明裕 橘内

2023年11月12日 聖霊降臨後第24主日

交読文 詩編70編(旧約p904)

司)1:【指揮者によって。ダビデの詩。記念。】

会)2:神よ、速やかにわたしを救い出し/主よ、わたしを助けてください。

司)3:わたしの命をねらう者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き

会)4:はやし立てる者が/恥を受けて逃げ去りますように。

司)5:あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。

全)6:神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。


聖書朗読 マタイ25章1~13節(新約p49)

1:「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

2:そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

3:愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

4:賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

5:ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

6:真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

7:そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。

8:愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

9:賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

10:愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

11:その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。

12:しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

13:だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」






説教 「終末に向けて」  


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


◯教会の暦、終末について 

教会の暦も、聖霊降臨後第24主日を迎えるまでになりました。今年の累計礼拝回数も46回となっております。アドベント、待降節も間もなくです。11月26日が聖霊降臨後最終主日、そして12月から待降節となります。聖霊降臨後最終主日に向けて、聖書箇所は終末を取り扱う内容になっています。


終末、終わりの時と言いますと、先月突然勃発したパレスチナのハマスとイスラエルの戦争状態は、聖地が戦いの舞台となってしまっていることもあって、私たちの中で何処かに、いよいよ世の終わりも近づいているのだろうか、と思わせるところもあります。また、ウクライナとロシアとの間の争いも、一向に解決の糸口が見えないままです。そればかりか、今年の夏の異常な暑さ、そしてそれに加えて秋に気温が下がらない、異例の暑さで始まった11月、ということもあって、私たちはそのようないわゆる「異常気象」を体験して、「いよいよ世の終わりも近い」と予感することが、ある意味で当たり前のようになってきている感があります。もしかして、日本では2020年から始まったコロナ禍のときに既に、何かもう世界が変わってしまった、世界はもはや、今まで私たちが知っていた姿ではない、ということに薄々気づいていたのかもしれません。一応平静に暮らせているようで、その実どこかに切迫感があるような、世の終わりを予感せざるを得ない事態に直面することの多くなった世の中に、今私たちは置かれているのかもしれません。


そのような中で、教会が代々大事にしてきたこの教会の暦、教会暦というものは、イエス様の到来の待望としての待降節に始まり、終末を思う聖霊降臨後最終主日に終わる1年のサイクルの中で、ある時期は救い主イエス様を思い、またある時期は終末に思いを馳せるというように、たいへんよくできています。これは、礼拝において伝道、教育、牧会のわざが生起すると言われる時、教会暦がこの教育の部分を実によく担っていることを意味します。教会暦の中で1年を過ごす時に、たとえ考えたくなくとも、必ず終末のことを考える時が来る、というわけです。いつ終末の時がやってくるかわからない、しかし、その予感はある、という難しい時代を生きる私たちには、御言葉によってしっかりと、この終末の時代をどう生きるか、ということに関して、神様からの教育を受けることが必要です。


1)天の国は次のようにたとえられる

というわけで、今日の聖書日課の福音書の箇所では、「天の国は次のようにたとえられる」として、花婿を迎えに出て行く十人のおとめの様子が、終末に向けての心得と結び付けられて描かれています。イエス様の当時のユダヤの婚礼は夜盛大に行われました。だから、ともし火が必要だったのです。花婿は友人たちとともに、花嫁を迎えに行きます。その花婿を出迎えて、花嫁の家から花婿の家まで一緒に行進したのが、ともし火を持ったおとめたちでした。


2)五人、五人

その十人のおとめのうち、「五人は愚かで、五人は賢かった」(2節)というのは、何か象徴的です。「賢かった」というのは、「思慮深かった」ということです。何にしろ、思慮深くよく備えをする人もいれば、それができない人もいます。同じように、終末に向けて備えが出来ていない人はいつの時代にもいるものです。


3)それぞれが持っていたもの

愚かなおとめたちも、思慮深いおとめたちも、皆その役割として、ともし火は携えていたのです。しかし、問題は予備の油でした。「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」(3節)というのは、予備の油を持っていなかった、という意味です。それに対して、賢い、思慮深いおとめたちは、「それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」(4節)と言われています。


4)花婿が遅れる

さて、婚礼の行列において、花婿が遅れるということは多々あったようで、友人たちと話し込んでいたのか、このたとえのケースでも、時間が夜でしたから、花婿を出迎える係であったこのおとめたちは、愚かなおとめたちだけではなく、思慮深い、賢いおとめたちも、全員が眠り込んでしまった、とあります。これは何を意味しているのか。それは、具体的にはイエス様の再臨が遅くなった、ということを暗に示しています。聖書を読む時、「花婿」は「イエス様」を指す場合が多くあります。反対に「花嫁」は「信仰者」を指すことが多いです。このたとえの場合、花嫁が登場しませんので、付き添いのおとめたちが、信仰者を表しているようです。パウロなどは、イエス様の再臨がすぐにでもあるように思っていた節がありますが、実際はそうではありませんでした。一人でも多く救おうとして神様が忍耐しておられるので、その分イエス様の再臨は遅延しています。それに対して、いくら思慮深い信仰者でも、愚かな者たちはなおのこと、十分には対応できず、うっかり眠り込む、すなわち安穏とした生活を送ってしまうことはありうるのです。


5)真夜中に呼ぶ声

6節には、「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」とあります。「真夜中」とは、「おとめたちが眠っている時」という意味です。しっかりと目覚めている時なら、何とでもできるでしょう。しかし、この呼びかけは真夜中だったのです。このこともたいへん象徴的です。私たちが、「イエス様の再臨は近い」などという切迫した、緊張感のある信仰はどこへやら、安逸を貪っているその時に、世の終わりが来て、イエス様の再臨がある、ということを何か予感させるような御言葉です。ですからこそ、少し先取りになりますが、イエス様の言われる「目を覚ましていなさい」(13節)という教えが必要となるのです。


6)ともし火はあったが・・・

7節に「そこで、おとめたちは皆起きて、」とありますから、繰り返しになりますけれども、愚かなおとめたちだけでなく、思慮深く、賢いおとめたちもまた、花婿の出てくるのが遅れて、真夜中になってしまって、眠さのあまり寝てしまっていたことが伺われます。それでも、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声があったら、全員起きたのです。このことは、終末は、その時が来たら、誰にでもそれがわかる、ということを示しています。イエス様の再臨は、思慮深い、よく備えられた信仰者ばかりでなく、たとえ愚かなおとめになぞらえられるような信仰者であっても、ちゃんと目を覚ますほどにはっきりと起こる、ということです。その日を心待ちにする者です。ドイツで19世紀末に起こったフェローシップ・ディコンリーの運動は、その当時の「リバイバル運動」というものに多分に影響を受けていたと思われます。リバイバルとは信仰復興という意味ですが、そのように信仰が復興して、自覚的な、熱心な信仰になって、国外にもイエス様の尊い福音を伝えよう、という動きになっていったのには、イエス様の再臨を待望する信仰が深く関係していたとも言われます。私たちの団体に少なからず影響を与えたリバイバル運動の時代の大伝道者、フレデリック・フランソンは、まさに再臨待望の信仰に生きた人でした。日本にも来て伝道集会をしています。ある時、飛騨高山の美しい木漏れ日を見て、イエス様の再臨の時もこのようであろうと、しみじみと言ったという逸話が残されています。私たちも、終末の時まで私たちを堅固な信仰のうちに建てあげるのは、実にこの「再臨待望」の信仰と受け止めて、先達たちに倣っていきたいと思います。


ところで、用意のできている、予備の油を持っていたおとめたちに対する愚かなおとめたちの言葉はこうです。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです』(8節)。それに対する、思慮深いおとめたちの言葉を聞いてみましょう。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』(9節)。冷たいようではありますが、自分たちの役割をよく自覚している言葉ではあります。予備の油をわけてしまって、花婿の行列に光を掲げることができなくなってはいけないのです。店に行って・・・、とのアドバイスがありますが、このような婚礼の祝のときには、夜遅くにもお店は開けてくれたようです。そのことをあらかじめ知っていて、具体的に、的確な指示を出している、と言うこともできます。


7)買いに行っている間に・・・

しかし、時の流れは残酷で、10節には「愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた」とあります。「買いに行っている間に」。何とも意味深い言葉です。その間に、大きく運命は変わってしまう。一方は花婿と一緒に婚宴の席に入る。一方は、それに入ることができない。無情にも、「戸が閉められた」と書かれています。


8)開けてほしいと願っても聞いてもらえない

11:その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。

12:しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。


そうなったら、もう開けてもらうことはできません。よく備えができていて、花婿が遅れるという非常事態に対応できたおとめたちは、無事婚宴の席に入ることができました。しかし、それに備えが出来ていなければ、戸が閉められて、あとでいくら願っても、中に入れてもらうことは出来ませんでした。同じように、終末に向けて備えが出来ていなければ、天の国に入る門は閉ざされて、いくら願おうとも、もう入ることができない、ということを暗示しており、それが教訓となっています。


9)目を覚ましていなさい

13:だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」


このたとえの教訓を受けて、私たちはどう生きるのでしょうか。先にも触れましたように、戦争が起き、それが長引き、各地で自然災害が多発する今、比較的私たちは終末に向けて敏感ではあります。しかし、それだけでは、ともし火は持っていても、予備の油を持っていない状態と同じです。「目を覚ましていなさい」との主の呼びかけに答えて、常に自覚的な信仰を保ち続ける。このことが重要です。それは、御言葉に密接に結びついた生活によって実現します。終末に向けて、御言葉によって時を見分け、今がどのような時期なのかを知り、目を覚ましてイエス様を見つめ、信仰の歩みを続けるのです。


お祈りしましょう。

天の父なる神様。

終末の時に向けて、このように御言葉による備えの時をありがとうございます。

今日の福音書のおとめたちのように、私たちは花婿の到来が遅れると、

眠り込んでしまうような者です。

ですからこそ、このように御言葉によって「目を覚ましていなさい」とお声をかけてくださり、イエス様の再臨に目を向けさせて下さり、感謝します。

私たちの救い主、イエス様が到来されて、相まみえる日を心待ちにしています。

どうかその時まで、目を覚まして信仰の歩みを続けさせてください。

それを妨げる不安や恐れから私たちを解放してください。

そして、戦火の絶えない世界で、「地には平和」という御言葉が実現しますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・先週は召天者記念礼拝で、午後には墓前礼拝もありました。その後役員会が開催されました。本日は聖餐式とお誕生日のお祝いがありました。礼拝後にはクリスマス委員会があります。その後青年会主催の聖書研究会があり、2時半からは園田伝道所礼拝となります。




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