交読文 詩編46編(旧約p880)
司)1:【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
会)2:神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
司)3:わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも
会)4:海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。
司)5:大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。
会)6:神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
司)7:すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
会)8:万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
司)9:主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
会)10:地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
司)11:「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
全)12:万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
聖書朗読 ローマ3章19~28節(新約p277)
19:さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
20:なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
21:ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22:すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23:人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24:ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25:神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26:このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
27:では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
28:なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
説教 「宗教改革の信仰の核心」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日は宗教改革主日です。10月31日が宗教改革記念日とされているからです。確認ですが、基礎的なことですけれども、マルティン・ルターが1517年10月31日、『95ヶ条の提題』を発表したことにちなんで、その日を宗教改革の起点とし、宗教改革記念日としています。本日は宗教改革主日礼拝として、交読文の詩編46編はルターの愛読詩編、このあとの讃美歌267番はルターの手による讃美歌、としております。
そのルターですが、宗教改革の信仰に至るまでは、見えないゴールに悩んでいました。いつまでたってもゴールに到達した、という満足が得られない中で、もしかしてルターは、 自分が好きになれない、という思いを持ちながら、苦しい日々を送っていたのかもしれません。ルター自身の著書から、言葉を拾ってみましょう。
「しかし、いかに欠点のない修道僧として生きていたにしても、私は、神のまえでまったく不安な良心をもった罪人であると感じ、私の償いをもって神が満足されるという確信をもつことができなかった。だから私は罪人を罰する義の神を愛さなかった。いや、憎んでさえいた。・・・だが、神は私を憐れみたもうた、私は『神の義は福音の中に啓示された。義人は信仰によって生きると書かれているとおりである』ということばのつながりに注目して、日夜たえまなくそれを黙考していた。そのとき私は、神の義によって義人は賜物を受け、信仰によって生きるという具合に『神の義』を理解しはじめた。これこそまさしく、神の義は福音によって啓示されたということであり、神はその義により憐れみをもって信仰により私を義としたもう、という具合に受動的義として理解しはじめたのである。まさに『義人は信仰によって生きる』とあるとおりである。今や私はまったく新しく生まれたように感じた。戸は私に開かれた。私は天国そのものに入った。全聖書も私に対して別の姿を示した」
(『ラテン語著作全集第一巻への自序』より)
ここからわかるように、彼は特別な体験などによらず、ただひたすら聖書の言葉を読むことによって、まさに天国に入るかのような経験をしたのです。そして、その経験によって、聖書の読み方が変わったのです。福音による赦しを中心とした読み方に移っていったのです。
そのようにルターによる宗教改革のことを振り返った上で、本日の聖書日課の使徒書から、宗教改革の信仰の根底にある聖書の教えを見ていきたいと思います。
改めて、19節と20節を読んでみましょう。
19:さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
20:なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
聖書は、すべての人が律法の下にいると断言します。しかも、律法があることによって、全世界が神の裁きに服するという重大な問題があるにもかかわらず、その解決策として律法を実行しても、それでだれ一人神の前で義とはされないと言うのです。何か別の解決策を探らなければならない、ということです。
たとえ律法を実行したとしても、罪の自覚しか生じない、とありますから、先程のルターの経験に通じるところがあります。やはりどこかルターとパウロは重なるところがありますね。パウロはあとで「むさぼるな」という律法、十戒の第九、第十の戒めを例に出しているのですが、そこで「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(7章7節)と言っています。むさぼるなという律法によって、「自分はむさぼっている」という罪の自覚が生じる、ということです。いかに徹底しようと思っても、どこまで、どの程度までむさぼりをなくすのか、もし健全なむさぼりというのがあるなら、それは除外されるのか、など、わからないことばかりです。ゴールが見えないのです。結局は、「やっぱり自分はむさぼりから完全に自由にはされないのだ」と気付くのみであるわけです。
続く21節で、パウロは神の義という言葉を提示します。
21:ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
神の義と言えば、「神の」と言われているぐらいだから、同じ神が語られた律法と関係ないはずがないと思い込んでしまうのですが、不思議なことに、パウロは「神の義は律法とは関係ない」と言うのです。律法によらない神の義、ということです。そうすると、私たちの「神の義」のイメージが異なるということなのでしょう。「義」というと「正義」という熟語を思い浮かべることが多いのではないでしょうか。正しさ、きよさ、というイメージもそこに含まれるかもしれないですね。かつてルターは、「神の義」に、それを振りかざして人を裁くというイメージを見出していました。人に「むさぼるな」と告げて、それを守ることのできない人間をばっさばっさと切り捨てるのが神の義ではないのか、ということです。しかし、パウロはそうではないと言う。神の義とは、むしろ「人を義とするもの」だったのです。のちにルターはそれに気付くことになります。そうすると、律法が人を義とするわけではないので、「神の義が律法とは関係がない」と言われるのもうなずけることになります。
しかし、その律法が、預言者も含め、神の義を立証すると言う。ここでは、律法や預言者、すなわち神の言葉が、神の義に「ついて」語ってきた、教えてきた、ということでしょう。神の言葉が、旧約聖書の時代から、「いずれ神が人間を義とする」ということを告げてきたのです。
22節において、この神の義は、信じる者全てに与えられるものだと言われています。必要なことは、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストとは、「主は救い」という名のメシア、救い主、という意味であって、この方を信じることが求められているのです。そうやって信じていくときに、その信じる者すべてに神の義は与えられる、とパウロは説いています。しかも、そこには差別がないとのことなので、これは第一に、ユダヤ人も異邦人もそこには差別なく、イエス様を信じるなら誰にでも神の義が与えられる、ということです。神の義が与えられるとは、神によって義とされる、ということにほかなりません。言い換えれば、神の前に、一度も罪を犯したことのないように見なしていただけることなのです。これはあり得ないことであって、奇跡と言っても差し支えないことでした。それが、何かを守る、行う、ということではなく、ただひたすら、救い主を信じることによって、誰の身にも実現する、ということなのです。
続いて23,24節を合わせて読んでみます。
23:人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24:ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
なぜこのように救い主を信じることで義とされることが奇跡なのか、ということが説明されている箇所です。まず、もともとの状態として、人は皆罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっている、というたいへん困った人間の現実が描き出されています。これは、とてもではないが、神の義を得るなどということを考えることすら出来ないような悲惨な状況でした。神の義とは、それを振りかざして人を裁くものではなく、むしろそれをもって、人間を神の前で一度も罪を犯したことのないように見なしてくださるものだ、と説明したものの、もうここで、前提として、人間は皆罪を犯している、と述べられているのです。これでは、罪を犯したことのないように見ていただくことなど、望むべくもないことです。何か特別なことがない限り、ここからの逆転現象など期待すら出来ないのです。
そこに、キリスト・イエスによる贖いの業が現れます。「キリスト・イエス」というように、「救い主」を表す「キリスト」の方が先に言われていて、その救いの業、贖いの業が強調されているように思います。それは罪の赦しの働き、と言い換えることもできるでしょう。「神の恵み」とは具体的に「救いの恵み」のことです。救い主による罪の赦しの業を通路として、神の救いの恵みにより、値を払うことなく神によって義とされる、ということです。すなわち、罪を一度も犯したことのないように見なしていただけるのです。なぜ値が必要ないかと言えば、救い主イエス様が十字架によって人間がとても払えないような代価を払ってくださったからにほかなりません。
25節に進みましょう。
25:神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
そのイエス様の十字架を、神様は信じる者のための罪を償う供え物とみなされました。イエス様が十字架の上で血を流されたことに大きな意味があったのです。十字架があって、それが供え物となって神様が人間を罪なき存在と見るようになったわけです。罪が見逃されるということは、その罪の赦しを求めて一生懸命あてどもなく律法の業を行う必要はなかったことを示しています。
続いて26節です。
26:このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
「このように神は忍耐してこられた」とは、「今まで人が犯した罪を見逃してきた」ということです。御心を持って、ご計画のうちに、そのタイミングを図っておられたわけです。イエス様の十字架の時というのは、神様が、ご自身が正しい方であることを明らかにするためにいちばんふさわしいタイミングだったのです。そして、「イエスを信じる者を義となさるためです」とあり、ここで改めて、イエス様を信じる者を、神様の前で一度も罪を犯したことのない者のように見てくださる神様の恵みが語られています。
27:では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
続く27節では、「人の誇りは取り除かれた」と言われています。義とされるということは、人間が自分で得るものではないからです。ルターはその時代の流れに沿って、神の義を得ようと手を伸ばしていたのですが、それによって義を得ることは出来ませんでした。一方的に、神様の方から近づいてくださって、人間を義と認めてくださるのです。ということは、このことにおいて、何か人間が誇ることは出来ないのです。何の貢献もしていないからです。クリスチャンの品性が謙遜であるとすれば、このように義とされることを正しく理解しているからでしょう。
最後の28節は、今日読んだ箇所のまとめであり、結論となっています。
28:なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
律法の命じていることをひたすら守って、その先にゴールとして義があるのではないのです。それでは、ゴールが見えないことになってしまいます。そうではなく、救い主イエス様を信じることに、義とされる秘訣があるのです。
◯宗教改革の信仰の核心とは
ルターから学ぶことは、聖書を大事にすること、これに尽きると思います。しかも、聖書を福音を語る書として読むのです。神様は私を赦そう、私を認めよう、受け入れよう、良くしようとしておられると思って聖書を読むのです。これが重要です。
そして本日のローマ書の箇所からですが、救い主イエス様を信じる信仰、これが私たちを義とするのだから、これこそが宗教改革の信仰の核心と言えるでしょう。
献堂50周年を迎える今、もう一度自分の信仰を確認し、聖書を福音が書かれている書として大事にし、ただひたすら救い主イエス様を信じていこうではありませんか。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。
この宗教改革主日の朝、御言葉に触れることができ感謝します。
あなたが導かれたルターの宗教改革について共に振り返り、
ローマ書の御言葉から、福音の真髄を味わいました。
あなたがいつも私たちを赦そうと、受け入れようとしていてくださることに感謝します。
御言葉に親しみ、イエス様を信じて歩む宗教改革の民として、
これからも歩ませてください。
献堂50周年を迎える今、私たちの教会の信仰を新たにし、
まっすぐにあなたに向かって進むことができるように導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日は宗教改革主日でした。10月31日が宗教改革記念日、11月1日が全聖徒の日、そして来週が全聖徒主日となり、召天者記念礼拝が行われます。午後には住吉霊園教団納骨堂にて墓前礼拝があります。
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