top of page

2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2023年10月22日
  • 読了時間: 12分

交読文 1テサロニケ1章1~10節(新約p374)

司)1:パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。

会)2:わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。

司)3:あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

会)4:神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。

司)5:わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。

会)6:そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、

司)7:マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。

会)8:主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。

司)9:彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、

全)10:更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。


聖書朗読 マタイ22章15~22節(新約p43)

15:それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。

16:そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。

17:ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

18:イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。

19:税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、

20:イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。

21:彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

22:彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。



本日は交換講壇で、御影での礼拝は豊島牧師の説教です。そこで、本日は午後の園田伝道所の礼拝説教を掲載します。


説教 「御子イエス様とはどんな方か」 園田伝道所編


本日は教団の教会との交流を図る交換講壇で、午前中は堺育麦キリスト教会に行ってまいりました。そこで語らせていただいたのは本日の聖書日課の使徒所の箇所で、こちらでは交読文の箇所になっています。この午後は、その箇所から「御子イエス様とはどんな方か」というテーマで語らせていただきます。


◯1節 恵みと平安 

新共同訳1:パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。


この手紙の書き出しから、手紙の差出人がパウロ一人でなく、シルワノ、テモテも加えて3人であることがわかります。従って、あとに出てくる「私たち」は、この3人のことであることがほとんどであると考えられます。


シルワノ、テモテは、パウロとともにテサロニケ伝道に当たった同労者です。シルワノは「使徒の働き」の「シラス」でエルサレム出身、パウロと同様にローマ市民権を有していました。テモテはパウロの弟子で、母はユダヤ人でしたが、父はギリシア人でした。


テサロニケは現在のギリシャ第2の規模の都市「テッサロニキ」で、ローマ帝国の属州マケドニヤ(ギリシア北部)にありました。ギリシア世界であり、ヨーロッパに属しています。貿易のために集まってきたユダヤ人たちのために会堂がありました。紀元50年のはじめ頃、パウロ、シルワノ、テモテの3人は、ヨーロッパ大陸への宣教に導かれ、まずフィリピにやってきました。その後、このテサロニケに移って宣教をしたわけです。そこから去った直後に、コリント滞在中に書き送ったのがこの手紙だと言われています。そうすると、パウロのかなり初期の手紙であることになります。


宛先は、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」となっています。神様とイエス様との結びつき、つながりが示されています。「恵みと平和が、あなたがたにあるように」は単なるあいさつと見られることもありますが、恵みはイエス様の救いの恵みのことでもあり、イエス様を信じる者にとってはなくてはならないものです。それを大事な手紙の冒頭で、心から願ったのではないでしょうか。


また、「平和」にはヘブル語の「シャローム」の背景があるでしょう。「シャローム」には、あるべき姿である、完全な様子、満ち満ちた様、といった意味があると言われています。パウロは共同差出人とともに、テサロニケにいる信徒たちが、神様によってあるべき姿であるように、と願っているのです。もちろん、ウクライナとロシアの戦争、また昨今心を痛める、ハマスとイスラエルの戦争状態のことも忘れてはいません。彼の地に平和が訪れるよう、私たちは心を込めて祈るのです。


◯2,3節 望みの忍耐

新共同訳2:わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。

新共同訳3:あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。


「わたしたち」とは、先ほど述べたとおり、パウロと共同差出人のことです。テサロニケの信徒たちのゆえに神様に感謝している3人であることがわかります。感謝があるから、祈りがあるのです。しかも、彼らは常に他者のために祈っていることがわかります。目が他者に向いているのです。


彼らはテサロニケの信徒たちのことを、祈るたびに思い起こしていました。そして絶えず、彼らが信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることについて、御前で心に留めています。そのことを決して忘れてはいない、ということです。ここで、今年の御言葉にも「待ち望む」という言葉がありますが、イエス様に対して希望を抱くことの大事さを思わされます。それがあるから、労苦することがあったとしても、忍耐できるのです。


◯4節 神に愛されている兄弟たち=神に選ばれた者

新共同訳4:神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。


神様への感謝、それにテサロニケの信徒たちを思い起こして思いが高じ、パウロたちはテサロニケの信徒たちを、「神に愛されている兄弟たち」と思わず呼んでいます。もちろん、教会の兄弟姉妹のことです。それだけではありません。「あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」とまで言っています。テサロニケの信徒たちは単に神様に愛されていただけではありませんでした。同時に、神様に選ばれた者でもあったのです。


◯5節 力と聖霊と強い確信によって福音が伝えられた

新共同訳5:わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。


なぜテサロニケの信徒たちが神様に選ばれた存在なのか、そのことを説明する箇所がこの5節です。それは、どのように彼らに福音が伝えられたかに関係がありました。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」とあるように、それは当たり前のことではなかったようです。福音宣教において、顕著な神様の現れがあった、ということです。それは、神様の愛と、選びがあったからこそのことでした。


「力」によって福音が伝えられたとありますが、実は福音そのものが神様の力でした。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ローマ1:16、新改訳)と言われている通りです。また、福音は人間に属するものではなく、神様に属するものであるので、究極的には人によらず、神様の霊によってのみ把握され、伝えられる性質のものです。だから、神様の霊である聖霊が、福音を伝えたのです。しかし、同時にまた福音は、具体的に、人によって伝えられるものでもあります。だから、福音を伝える者の足は麗しいのです。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ローマ10章15節、新共同訳)と言われている通りです。そうであれば、その伝える人の持つ確信が、福音を伝えられる側に大きな影響を与えるのは想像に難くないのではないでしょうか。それが強い確信であればなおのこと、心を打ち、伝わっていくという側面も否定できないものです。このようにして、福音を伝えられたテサロニケの信徒たちであるからこそ、神様に愛されているのであるし、選ばれてもいるのである、ということなのです。


◯6,7節 聖霊による喜びをもってみことばを受け入れる

新共同訳6:そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、

新共同訳7:マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。


先程は、どのように伝えたか、ということでしたが、まず6節では、テサロニケの信徒たちがどのようにみことばを受け入れたか、ということが示されています。テサロニケの信徒たちにはひどい苦しみがあったようです。それは御言葉に伴う苦難でした。そのような中を耐え抜くには、特別な助けがなければなりません。人の力でそれは耐え抜くことはできないのです。だからここで、「聖霊による喜び」と言われているのです。


御言葉を受け入れる際、テサロニケの信徒たちには聖霊が働いていました。神の霊である助け主はテサロニケの信徒たちの傍らにおられて、ひどい苦しみの中で彼らを励まし、御言葉を受け入れるように導いたのです。しかも、その際に、聖霊は彼らに、ご自身に基づく「喜び」をお与えになったのです。後にパウロが獄中でも強調するようになる「喜び」です。これは信仰のバロメーターにもなると言われるほどのもので、フェローシップ・ディコンリーの流れをくむ私たちも、この「喜び」を大事にしています。


その私たちが「喜びをもって主に仕えている」時、私たちの信仰は神様からいただいているものです。聖霊に基づく、聖霊に由来する喜びがあったからこそ、テサロニケの信徒たちは、ひどい苦しみをものともせず、御言葉を受け入れ、パウロたちとイエス様とに倣う者になったのです。そのようにして、最終的に彼らは、「マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になった」のでした。


◯8節 模範になったので、あらゆる所に伝わっている信仰

新共同訳8:主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。


先に触れたように、ひどい苦しみの中で御言葉を受け入れることは簡単なことではありませんでした。だからこそ、聖霊による喜びが必要だったのです。しかし、そのようにして御言葉を受け入れた彼らは、模範的な信徒となりました。だから、「マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」とまで言われています。この場合の「至るところで」というのは、地中海世界のことでしょう。しかしそこには、いくつもの言語が違う地域が存在していました。今より移動手段は選択肢が少なく、そのスピードも遅かった時代です。まだまだ現代のように世界は狭くなく、少し行っただけで言語が違う、もちろん民族も異なる、などということもあったのです。そのような多様な世界の中に、テサロニケの信徒たちの立派な、模範的な信仰は伝わっていた、ということです。何と光栄なことでしょうか。私たちも、「御影ルーテル教会、園田伝道所の信徒たちの信仰は、あらゆる所に伝わっている」と言われることがあったら素晴らしいことです。


◯9,10節 御子イエス様とは・・・神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから救い出してくださる方

新共同訳9:彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、

新共同訳10:更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。


10節には、御子イエス様がどのような方かが記されています。テサロニケの信徒たちが、いかにして御子を待ち望むようになったかは、すでに他の人々が言い広めている、とパウロは書き記します。そして、天から来られるこの御子イエス様を、「神が死者の中から復活させた方」「来るべき怒りから私たちを救ってくださる」方だと言い換えています。イエス様が天から来られるとは、イエス様の再臨を指しています。テサロニケの信徒たちは、この再臨を待望していたのです。なぜそこまでの待望があったかと言えば、それはイエス様が死者の中から復活なさった方だからでした。それはすなわち、イエス様を信じる者たちにも、復活の希望があることを示しています。イエス様を信じ、洗礼の恵みにあずかることはすなわち、イエス様の死にあずかることであり、それはまた、イエス様の復活にあずかることでもあるからです。来るべき怒りは避けられないものでありましたが、イエス様が私たちの代わりに十字架にかかってくださったからこそ、私たちはその怒りを免れ、救いにあずかることができました。だからこそ、彼らはイエス様を愛して、その再臨を心待ちにしていたのです。今日この御言葉をいただく私たちも、同じように主に希望を抱き、イエス様の救いを心から喜び、このイエス様にお会いする日を心待ちにして、忍耐を持って毎日を過ごしていきたいものです。


お祈りしましょう。

天の神様。あなたのお名前を賛美します。

今日も御言葉から語ってくださり、感謝します。テサロニケの信徒たちが、ひどい苦しみの中でも御言葉を受け入れ、模範的な信徒になっていった様子を見ましたが、私たちも聖霊によって喜びに満たされ、御言葉を受け入れてまっすぐに信仰の歩みを続けていくことができますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン




Comments


御影ルーテル教会

658-0047 神戸市東灘区御影3-10-5

tel: 0788420446

©2022 by 御影ルーテル教会  Wix.com で作成されました。

bottom of page