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2023年10月1日 聖霊降臨後第18主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2023年10月1日
  • 読了時間: 9分

交読文 詩25編1~9節(旧約p855)

司)1:【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み

会)2:わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。

司)3:あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。

会)4:主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。

司)5:あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

会)6:主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。

司)7:わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。

会)8:主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。

全)9:裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。


聖書朗読 フィリピ2章1~13節(新約p362)

1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、

2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。

3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、

4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、

8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

12:だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

13:あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。


説教 「行わせておられるのは神」 


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


10月がやってきますと、2016年10月に赴任した時のことを思い出します。それから7年が過ぎ、8年目に入りました。主の導きに感謝します。またこれからもよろしくお願いします。


〇慈しみや憐れみ

本日は、聖書日課の使徒書であるフィリピの信徒への手紙を開いています。パウロによる書簡で、パウロが獄中で書き送ったとされることから「獄中書簡」とも呼ばれています。60年代初め、恐らくローマの獄中にありながら、「喜び」がテーマのひとつであることは印象的です。2節には、「わたしの喜びを満たしてください」という言葉が見られます。また本日の箇所は、6節以降でキリストの謙遜な姿が描かれている点でも有名です。11節までが当時のキリスト賛歌とも言われており、それをパウロが引用したとされています。


それだけでなく、旧約聖書とのつながりも見られます。1節に「慈しみや憐れみの心」とあるのですが、今年のみことばの「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(哀歌3章22節)との関連を思わせます。「あなたがたに幾らかでも、・・・慈しみや憐れみの心があるなら」と、もともと人間のうちにあるもののように言われていながら、実際はこれは全能の主なる神様が持っておられる特質であり、それは決して絶えることもなく、決して尽きることもありませんでした。しかも、哀歌3章23節にはそれらが「朝ごとに新たになる」とまで言われています。そのような慈しみと憐れみが、神様につながる信仰者たちにも伝わり、その品性、性質となっていくのです。その意味では、神様由来の慈しみと憐れみ、ということになります。


〇思いを一つに

その慈しみと憐れみは、具体的に「思いを一つにする」という姿に結実します。2節には、

「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と言われています。このように、思いを一つにすることこそ、教会の目指す姿ではないかと思います。


〇自分のことだけでなく、他人のことにも

その教会とは信仰者の群れのことでありますが、その一人一人が、群れの仲間を自分よりも優れた者と考え、自分のことだけでなく他人のことも配慮して生きるのです。それは、配慮されるのを待って生きる人生とは大きく異なります。声をかけてくれない。わかってくれないと「くれない、くれない」と言って「くれない族」で生きることも可能ですが、残念ながらそれはあまり生産的な生き方ではありません。自分のことはもう神様にお任せして、視線を他人の方に向けて、常に外に気を配り、慈しみと憐れみを注ぎ、思いを一つにしようと心がける、それが、神様が私たちに求めておられることなのです。


〇キリストの従順

このためには、キリストを模範とする、ということになります。改めて、5節から8節を続けて読んでみたいと思います。


5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、

8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。


私たちに求められている姿は、イエス様にも見られるものだ、とあります。だから、私たちはよくイエス様の姿を追って、御言葉からそれを学んで、ならっていくのです。


6節からが、先ほども触れましたようにパウロ当時のキリスト賛歌であると言われますが、そこにはまず、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに『固執しない』」イエス様の姿が表れています。すなわち、自分にこだわらない、ということです。それに対して、自分にこだわることの多い私たち。それはイエス様の姿と異なる、というだけでなく、私たちの肉、すなわち古い人の持つ罪であると言うほかありません。罪は共同体を破壊するものです。だからこそ、慈しみと憐れみの心をいただいて、思いを一つにするのです。思いを一つにするには、十字架の死に至るまで従順であったイエス様に倣い、従順になる、という流れがここに見られます。


イエス様が「自分を無にして、僕の身分に」なられたということも、私たち信仰者の目指す姿を示しています。自分を無にするからこそ、思いを一つにすることができるのです。そして、思いを一つにして何を目指すかが、「僕の身分」という言葉によく表わされています。自分を無にして、他人のことを思い、互いに僕となって仕え合う。私たちの団体の名前である「フェローシップ・ディコンリー」の「ディコンリー」は「仕える」という意味であって、私たちの精神を表わしています。私たちは神様に仕え、そして人に仕えるのです。しかも、大事なことは、互いに仕え合うことです。それは、相手が私に仕えてくるのを待つ、というのではなく、こちらから相手に仕えていくことから始まります。


ここでキリストの姿から学ぶ「従順」とは、勿論父なる神様に従順であることです。信仰者の群れの中で、何でも相手の言うことを聞く、ということではありません。それでは単にイエスマン、ということになります。勿論、あるグループの中で、何でも話しが通ればそれほど楽なことはありません。逆に、事あるごとに出される方針や提案に異議が出されれば、確かにやりにくいことでしょう。しかし、ここで大事とされる「従順」とは、神様に対する従順のことです。まず第一に、神様の御声に、御心に従順であることです。それは、今日の聖書箇所では、慈しみと憐れみの心を持って相手を気遣い、仕え合うことです。その神様のみ心に、従順であるのです。だから、自分を無にするのです。そして、自分を僕の身分に置くのです。そうやって、思いを一つにしていくのです。


〇行わせておられるのは神

それでは、慈しみと憐れみの心を持ち、思いを一つにし、従順に生きる中での私たちの行いとはどのようなものとなるのでしょうか。あれをしたい、これもしたい、と思う私たちです。しかし、それぞれがやりたいようにやっていては、とてもではありませんが「思いを一つに」どころではありません。ですが、キリストが神様に従順であったように、私たちも従順にしているなら、13節に「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」とありますように、神様は私たちの内側で働いてくださるので、いつしか私たちは御心のままに、すなわち御心に沿って「何かしよう」と望むようになるのです。しかも、それを私たちが自分で行っているようでありながら、神様が行わせておられる、ということになるのです。そのようにして出てくる私たちの行いとは、自然に、群れの仲間を気遣った、配慮あるものとなり、私たちが思いを一つにして共に信仰生活を送るのに助けとなっていくのです。そしてその思いを一つにした姿は、まさに一つの声のようになった使徒信条の告白、声の揃った高らかな頌栄、それからアーメン三唱の壮大さに現れてくるとも言えると思います。その点では、この御影ルーテル教会の礼拝はたいへん優れていると思います。


それでは、もう一歩踏み込んで、今日の御言葉を実践するとは具体的にどうすることなのか、ということになりますと、まず待ってみる、相手に譲る、相手の話を聞く、と言った、ごく単純で、人間関係においては当たり前、信仰云々の前に人間として当然のことではないのか、ということにもなるでしょう。しかし、そうはいっても、自分を無にすることができず、僕であるよりは支配したい、というのが人間の罪というもので、わかっているけれどもやめられない、ついつい私の方が語ってしまう、私を優先してほしい、私の言うことを聞いてほしい、というように「私、私」と我を張ってしまうのが私たち、というものかもしれません。そこに人間の罪が潜んでいる限り、これは信仰の世界の事柄となり、まずその私たちの罪が、十字架の死にまで従順であったイエス様によって赦されていくことから、すべては始まります。そのことに恩義を感じるとき、私もイエス様に従っていきたい、と思うようになります。そして、いやいやでなく、強いられてでもなく、信仰の喜びのうちに自らを無にし、僕の姿となって、他者に仕えていくのです。このことを行わせておられるのはまさに神様です。この神様につながっていくときに、私たちは御心のうちに生き、御心のままに思いを抱き、神様主導で、御心のままを行っていくのです。


お祈りいたします。

天の父なる神様。

今朝も御言葉の時をありがとうございます。

あなたの慈しみと憐れみを受けて、

私たちもまた慈しみと憐れみの心を持つ者となり、

互いに相手のことを気遣って、自分を無にして僕となって仕え合い、思いを一つにして生きる道を与えてくださって、ありがとうございます。

そのように行わせておられるのはまさに神様です。私たちではありません。あなたにいつも従順になって、あなたの導きのうちを歩み、思いを一つにして、声を一つにして、あなたを賛美し、信じていくことができるように助けてください。

不安と困難の中を歩む人々を助け、福音によって悩む魂を慰め、励ましてください。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日昼食会があります。その後部会があり、役員会が開催されます。

・10月15日は昼食後予算総会となります。




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