2023年10月15日 聖霊降臨後第20主日
- 明裕 橘内
- 2023年10月15日
- 読了時間: 10分
交読文 フィリピ4章1~9節(新約p365)
司)1:だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
会)2:わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
司)3:なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
会)4:主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
司)5:あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
会)6:どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
司)7:そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
会)8:終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
全)9:わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
聖書朗読 哀歌3章19~24節(旧約p1289)
19:苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを
20:決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても
21:再び心を励まし、なお待ち望む。
22:主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
23:それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
24:主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。
説教 「慈しみと憐れみは決して尽きない」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日の午後は予算総会となります。その前に、今年の御言葉を、その前後の文脈も含めて、じっくりと味わっておきたいと思います。
哀歌は、紀元前6世紀初期、エルサレムの崩壊とバビロン捕囚を見たエレミヤによって書かれたと考えられてきました。「エレミヤの哀歌」というタイトルの合唱作品にもなっています。エレミヤが著者と思われてきたことから、エレミヤ書の次に置かれてきましたが、イスラエルの人々は、詩編などと同じくくりに置いているようです。背景にエルサレムの崩壊の悲しみがあると思われます。特にこの3章にも、エルサレム崩壊と、それに続くバビロン捕囚における苦難がにじみ出ているように思います。
〇苦汁と欠乏の中で
改めて、19節から21節まで読んでみます。
19:苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを
20:決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても
21:再び心を励まし、なお待ち望む。
今年の御言葉は、21節から始まっています。
イスラエルの人々は、過去の苦難の中で、貧しくさすらうものの、そこで主の助けを経験できました。そのことを忘れていないからこそ、たとえバビロン捕囚の苦難の中で魂が沈み込んだとしても、その主の助けを思い起こし、それによって自ら再び心を励まし、主を待ち望んだのです。
私たちも、イスラエルの民と同様に、苦悩と欠乏の中でさすらうような体験をしてきたのではないでしょうか。しかし、どうだったか。その中でイエス様は出会ってくださり、救いに導いてくださったのです。そのことを、私たちは決して忘れません。だからこそ、毎日の生活の中でうなだれるようなことがあったとしても、過去の恵みを思い起こし、再び自ら心を励まして、私たちも主を待ち望むのです。
コロナ禍を生きざるを得なくなり、その中でウクライナとロシアの戦争のことを聞き、聞くだけでなくて、その結果として値上げなどの影響を受け、今は聖地イスラエルがハマスに攻撃され、憎しみの連鎖から大きな戦争に移行していきそうな気配です。その中で、この世界はどうなっていくのか、不安は大きいでしょう。その中で、恵み深くある主に気づくことは確かに難しいと思います。しかし、過去の恵みを忘れないことです。私にとって、この神様は常に恵み深くあられた。その事を繰り返し思い起こして、自らを奮い立たせるのです。そして、ひたすら主を待ち望むのです。
〇主の慈しみ、憐れみ
本日の箇所は、新共同訳(1987年)による独自の翻訳が見られる箇所ですが、今年の御言葉の一部である22節も、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」と訳されており、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」と訳された新改訳(1970年)とはかなり異なっています。新改訳で「恵み」と訳されている「ヘセド」というヘブル語の単語が新共同訳では「慈しみ」と訳されており、「ラハム」が「憐れみ」と訳されています。実はこの両者とも、「憐れみ」と訳されることが多いヘブル語の単語で、このような類語を2回重ねて強調している技法が使われています。「絶えない」「尽きない」もほぼ同じ意味の単語で、前者は「終わりがない」、後者は「なくならない」といった意味の単語です。全体で哀歌の作者は「主の憐れみが尽きない」という恵みを強調しようとしているのです。
私たちを取り巻く環境がどう変わろうとも、ここまで主は憐れみ深く、私たちにとって恵み深いのです。そのことを忘れないでいるのです。そうすれば、自ずと心励まされ、苦難の日にも主を待ち望む忍耐と信仰が生まれるのです。
〇朝ごとに新たになる恵み
23節の「それは朝ごとに新たになる」の「それ」は、「主の慈しみと憐れみ」の両方を指すと見た方が良いと思われます。ここは、新改訳でも訳は大きく変わりません。主の慈しみと憐れみは、決して尽きないだけではありません。それは決して古びることはなく、毎日朝ごとに新たになるのです。そういう意味では、新鮮であるとか、あるいは画期的、という意味もあるのではないでしょうか。主の慈しみと憐れみはいつも新鮮であり、それは驚きを伴うものなのです。また、その驚きという点では、画期的という言葉もまたふさわしいのです。私たちの主の慈しみと憐れみとは、画期的なのです。
私たちの持つ朝のイメージを考えてみましょう。それは、毎日希望に満ちているものではないかもしれないですね。毎日代わり映えのしない中で、耳にするのはマイナスどころか悲惨なニュースばかりと言っても大げさではないでしょう。先程も触れたコロナ禍は、私たちの日常を大きく変えてしまいました。数年がかりで変わってしまったものだから、すぐにはもとに戻ったり、理想の状態に改善したりすることはないのかもしれません。また、大規模な災害や、戦争の知らせが日々飛び込んでくるのです。私たちが直接変えることのできない気候は、私たちの意に反して変化し、それについていけなければからだを持て余すような毎日で、朝の目覚めとともにすっきりと起き上がるどころか、また今日も一日耐えなければならないのか、とうんざりしてしまうこともないとは言えません。しかしそのような、ままならない中で、私たちの気分に関係なく、主の慈しみと憐れみは毎日のように更新され、新鮮で画期的なものとなっているのです。それは、私たちの日々の洗礼と同じことで、悔い改めによって私たちの古い人が滅び去るとともに、新しい人が日々よみがえって、主に似た姿へと変えられていくのです。
〇主の深い真実
どうしてそこまでのことが起こるのか。それは、主の真実に関係がある。23節後半で、「あなたの真実はそれほど深い」と言われています。主が真実な方であるからこそ、私たちにそこまでしてくださるのです。ここで言われている「真実」は、私たちが唱える「アーメン」に関係があることばです。そのまま当てはめれば、「主はアーメンなる方」なのです。主のなさることにはすべてアーメン、と言うのであり、主のおっしゃることにもまた、私たちはただひたすら、アーメンというのです。主はそのような方なのです。だから、主の慈しみと憐れみは尽きることなく、毎日のように新鮮で、画期的なのです。画期的と言えば、私たちが救われる、ということ自体、画期的なことです。罪あるものであるにも関わらず、ただひとえにイエス様の身代わりの十字架のゆえにすっかり赦されるとは、人間の発想では思いつくものではありません。私たちを救い、そればかりか日毎に新しくしてくださるのは、主の真実のおかげなのです。そして、その真実は「深い」と言われる。これは、元の言葉で言えば「多い」であるとか「偉大である」ということでもあります。新改訳では、「あなたの真実は力強い」と訳されています。この「主の真実が深い」ということは、御言葉の深みを思わせます。私たちは御言葉に親しむことによって、ますます御言葉の深みに近づくことができるのです。その意味では、まだまだ一緒に深みを目指さして行ける御影ルーテル教会なのです。
〇主こそ私の受ける分
最後の24節の「主こそわたしの受ける分」に関しては、新改訳も同様の訳になっています。「受ける分」とは理解しにくいですが、「受け取る分前」と考えてみてはどうでしょうか。かつてイスラエルが約束の地に入り、部族ごとに土地の配分をした際に、レビ人たちには配分がありませんでした。礼拝において奉仕するレビ人にとっては、主ご自身が受け取る分け前だったのです。主から何かをいただく、というだけに留まらず、主ご自身をいただく、ということは実に重要なことですね。主から恵みをいただきながら、それを重視せずに主から離れてしまうよりは、何かを得たという実感はないにしても、主ご自身を分前としてしっかり頂いていることのほうが尊いのです。これは、主が私の側におられる、私の味方である、ということに似ています。何かをもらってはいないかもしれない。しかし、主はいつも、私の方にいてくださるのです。
だからこそ、再び「主を待ち望む」と言えるのです。今日の聖書の箇所の中でこの「待ち望む」が出てくるのは2回目です。これだけ短い箇所の中で2回使われているのですから、大事な言葉なのだし、強調されていると見て間違いありません。単に待つだけでもなければ、ただ望むだけでもない。この言葉には、その両方が含まれています。希望を持ちながら、待つのです。もちろん、それは21節の「待ち望む」という言葉も同じです。私たちを取り巻く環境は、あまり希望が持てないかもしれない。しかし、そもそも待ち望むとは、希望が見いだせないような状況の中で、何の兆しも見ることなく、信じて待つことなのです。その点では、先月聖歌隊が賛美した、「見ゆるところによらずして」の通りです。最終的には、信仰によって疑わずに歩む、ということに尽きるのです。教会はひたすら、それを目指していくのです。
見えることで言えば、献堂50周年とは言え、単純に喜ぶことばかりではないかもしれません。この50年で、様々な変化を経験しました。集まる人々はコロナで加速度的に減少し、それはまだ完全にはもとに戻ってはいない状況です。しかし、私たちは希望を失いません。再び心を励まし、主を待ち望む御影ルーテル教会であるのです。私たちは何の兆しも見えなくとも、ひたすら主の訪れを待つのです。圧倒的な主の訪れが起こり、この礼拝堂が人で溢れ、罪の赦しの恵みに満たされ解放され、それぞれが心から喜び笑い、そして心を一つに、思いを一つに、そして声を一つにして高らかに主を賛美し、大胆に証ししながら勝利の人生を送る、そのような日は必ずやってくると信じます。ただ、月並みな言い方ではあるが、夜明け前が一番暗いのです。私たちはまだまだ主の深い真実によって、御言葉の深みに向かっていけます。尽きることのない慈しみと憐れみを受けて、もっともっと、画期的な主のみわざを見ていくことができるのです。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。
今朝も御言葉をありがとうございます。
今年の御言葉を通して語ってくださり、感謝します。
あなたは恵み深く、私たちの苦難の日々にも現れてくださり、それをもって、私たちは再び心を励まし、あなたを待ち望むことができます。
しかもあなたの慈しみと憐れみは決して尽きることなく、
それは朝ごとに私たちのために新しくされていること、感謝します。
私たちの置かれている環境は今不安定なものが多く、
その中で困難や生きづらさを感じることがありますが、
あなたの変わらない慈しみと憐れみがあるとき、
何とかその中で、何の兆しがなくとも、
進んでいけるような思いがします。
あなたを待ち望みます。
どうか、私たちの教会を訪れてください。
私たちをその臨在で包み、私たちを信仰の深みへと導き、困難に耐えていけるように助けてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日昼食後、予算総会となります。お祈りください。

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