【聖書交読】申命記30章15〜20節(旧約p329)
司)15:見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
会)16:わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
司)17:もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、
会)18:わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。
司)19:わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
全)20:あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
【聖書朗読】ルカ14章25〜33節(新約p137)
25:大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
26:「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27:自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
28:あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
29:そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
30:『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
31:また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
32:もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
33:だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
「弟子を弟子とするのは」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
9月に入りました。また新たな気持ちでみことばに向かっていきたいと思います。本日は聖書日課の福音書の箇所を開いております。
この箇所を読むと、その特徴と言えば、「わたしの弟子ではありえない」というイエス様のことばが何度も出てくることが挙げられます。26,27節に連続して現れ、また本日の聖書箇所の最後となる33節にも見られます。イエス様の当時、私たちのように書かれているものを目で追うのではなく、直接イエス様の言葉を耳で聞いていた人々には、その繰り返しが良いアクセントになっていたのではないでしょうか。
イエス様の当時、弟子と言えばすぐ思い浮かべるのは12弟子で、よく知られているところでは、弟子の筆頭のようなペトロとその兄弟アンデレ、そしてヤコブとヨハネの兄弟などが挙げられます。彼らは、むしろイエス様の方からお招きになり、弟子にしていただいた存在です。そのような人々に、とある条件下ではあなたがたは弟子ではありえない、とお話なさるとは考えにくい。そうすると、今日の一連のイエス様のことばは、12弟子とは異なる人々に向けて語られたものと考えるほうがふさわしいことになります。
事実、25節には「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」とあり、イエス様はこの群衆に向けて、この「とある条件下ではあなたがたは弟子ではありえない」というお話をしておられるようです。そうすると、12弟子以外に、イエス様の弟子と呼ばれ得る人々がいた、ということがわかります。その場合、12弟子とそのような弟子との違いは何か、ということになります。みんな同じ「イエス様の弟子」ということなのか。これは、今日開いているマタイによる福音書とルカによる福音書では若干の違いがあり、ルカの方では、12弟子以外にもイエス様に近い弟子集団がいたようで、ルカの10章では、それが72人いた、という記録があります。実際こちらは明確に「弟子」と呼ばれているわけではないのですが、それに類する存在でしょう。そういったややこしいところがあるのですが、今朝はそのような、12人であるとか72人といった、数字付きの弟子たちと、広く群衆に向けて「弟子」と言われる場合と、違いがある、と想定したいと思います。特に12人の弟子たちの方は、12使徒、あるいは単に使徒とも呼ばれますので、区別しておかなければならないように思います。使徒と言いますのは、ある特定の目的のために使わされた、派遣された人々、という意味です。そのような人々と、群衆も場合によっては弟子であり得る、といった場合の弟子とは、異なる面があるように思います。しかも、この当時イエス様の言葉を聞いた群衆たちがイエス様の弟子になりうるとしたら、聖書のみことばを通してイエス様に触れている私たちもまた、弟子であり得る、と考えます。その場合の、何が私たちを弟子とするのか、その「弟子を弟子とするのは何か」というのが、今日の話題となるわけです。
そのような視点で本日の聖書箇所を辿ってまいりますと、いくつかの条件とも思えるようなものに行き当たるわけですが、それは26,27節、そして33節に出てまいります。
26:「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27:自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
この2節によるならば、まず26節ですと、「イエス様のもとに来て、なおかつ父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」というのがある意味で弟子の条件のようであり、また27節ですと、「自分の十字架を背負ってついて来る者」というのが、弟子の姿であるように見えます。
33節は、改めて確認しますと
33:だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
というイエス様の言葉ですが、ここからは、「自分の持ち物を一切捨てる者」、それこそがイエス様の弟子である、と言われているようにも聞こえてきます。
これらはすべて、イエス様の弟子となるための条件なのでしょうか。確かに条件と言ってしまったほうが、わかりやすいのかもしれません。修行が好きな傾向のある日本人には、そのぐらい言って、それを果たした暁には免状を出すなり何なりしたほうが、「キリスト道」のようにやや非宗教化することも可能ですし、ふさわしいのかもしれません。
しかし、そうであっても、私たちはそのようにはしないのです。いくら日本人に合っているとしても、そうはしません。私たちのうち誰が、先程の弟子の条件のように見える3つ、「イエス様のもとに来て、なおかつ父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」「自分の十字架を背負ってついて来る者」「自分の持ち物を一切捨てる者」、これらをすべて完全に体現しているでしょうか。洗礼を受け、クリスチャンを自認する者たちの中でもそうなのですから、これらを弟子の条件とするなら、クリスチャンであっても誰もイエス様の弟子ではない、ということになってしまいます。
確かにイエス様が、このような場合でないと弟子ではありえない、とおっしゃっているわけですが、そうなると私たちは、イエス様の真意、すなわち、そのような言葉を使いながらも、本当は何をおっしゃりたかったのか、ということを探るしかない、ということになります。それらが条件でないなら、何だったのか、そして、弟子を弟子とするのは、本当は何なのか、ということです。
繰り返しになりますが、確認しますと、今日開いております福音書の箇所の中でイエス様が示しておられる弟子の姿は、
第一「イエス様のもとに来て、なおかつ父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」
第二「自分の十字架を背負ってついて来る者」
第三「自分の持ち物を一切捨てる者」
以上3つです。ここで、わざわざ「福音書の中で」と言いましたのには理由があります。そうなのです。これは、福音書、すなわち「良い知らせの書」に書かれている言葉なのです。それなのに、これら3つの弟子像は、表面上はとても良い知らせには聞こえてきません。むしろ、私たちにとっては重荷に感じるものなのではないでしょうか。なぜ、幸せを求めてクリスチャンになって、家族を憎まなければならないのですか。家族全員で教会に来ている、という人はどうなるのでしょうか。十字架と言うとマイナスの響きがあり、それがいくら「自分の十字架」というものであれ、それを担って歩むクリスチャン生活というのは、どうも重荷を背負ったものとしかイメージできないのではないでしょうか。いくらなんでも、自分の持ち物をすべて捨て去るなど過度な要求なのではないでしょうか。良い思い出を持つ、私たちの心を喜ばせるようなものもあるわけです。それに、ここまで爛熟してきた社会に生きる私たちには、恐らくイエス様の時代のシンプルな生き方をしていた人々と比べて、余りにも多くの持ち物があるように思えてなりません。いくらリサイクル業が盛んで、遺品整理業者も身近にある社会であると言っても、果たして自分の持ち物すべてを処分することなどできるのでしょうか。これらを守るべきもの、あるいは弟子となる条件、ということで読むなら、「不可能」ということばが私たちの内に浮かんでくるだけで、何も生み出さないことにもなりかねません。
ですからこそ、これらのことばが福音書に出てくる言葉である、ということをもう一度思い起こす必要があると思うのです。家族、そして自らの命をも憎む、十字架を背負う、一切捨てる、これらすべてがマイナスの響きを持つ中で、これらは福音書の言葉である、ということはどういう意味を持つのか。もちろん、福音書は様々な言葉によって構成され、そこには悪魔の誘惑の言葉もあれば、イエス様の叱責の言葉もある。それら全体で福音なのであって、個々の言葉は細かく分析した上で、それぞれこれは福音、これはそうではない、と区別していくのだ、と言われれば、それはそうかもしれません。しかし、それはやや、文章化された福音書を繰り返し繰り返し読み、それによって解釈していくことで初めて生まれてくるもののようにも思えます。この言葉を直接イエス様から受け取って、それを耳で聞き取った人々は、初めて耳にすることばを、そのように分析的に聞くことができたのでしょうか。果たして、どのように聞いたのでしょうか。その人々の中で、イエス様の真意を理解し、これは大事だ、後世にまで残すべきである、と強く感じた人が少なからずいたことで、これらの弟子に関することばが福音書として残ったわけです。単に重荷を負わせる言葉として人々の心に残ったとしたら、このように後世にまで伝わることはなかったのではないでしょうか。確かに、これらのことばを条件として受け止めてしまって、それを重荷と思ってイエス様に失望し、離れていった人々も多かったことでしょう。しかし、そこから何か別のことを聞き取って、その重要性を感じた人々もいたはずです。伝統的な典礼においては、この箇所であっても、朗読のあとには司式者が「主イエス・キリストの福音」と宣言し、会衆が「主に栄光がありますように」と応答する、ということがなされていました。その通り、これらのことばは福音なのです。
ではこれらのことばを最初に聞いた人々が聞き取ったのは何なのか。思い起こしたいことは、聞き手の中には今で言う旧約聖書、律法の知識と伝統を持つ人が多かった、ということです。そして、その律法をただ重荷として感じるだけではなく、律法をその本来の意味としての「教え」と捉え、そこから何かを学び取ろうとした人々も多かったはずです。律法と訳される「トーラー」という言葉には、「教え」という意味もあるのです。そして、その律法の教えの中には、それを守って祝福を受け、命を享受して幸せになることを教える側面がありました。人間の罪深さと弱さによって完全には実現しなかったものの、本来律法には、人間を幸せにするという働きがあったのです。
それを思うと、イエス様が示された弟子の姿、「イエス様のもとに来て、なおかつ父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」「自分の十字架を背負ってついて来る者」「自分の持ち物を一切捨てる者」、これらは、イエス様の言葉を聞く人々が、行く行くは幸せになることを願っての言葉である、ということにもなるのです。これらを聞いて心探られ、自らの足りなさを実感する、という機能は失われてはいません。やはりこれらの言葉を聞いて、人はそうできていない自分の姿を知らされ、がっかりするのです。その程度の人間だったのだ、と気づいて、落胆するのです。しかし同時に、ただ私たちをがっかりさせるためだけにこれらの言葉をイエス様は語ったわけではないはずだ、最終的には私たちの幸せのために、教えていてくださるに違いない、という思いにも至るわけです。すなわち、弟子について語るイエス様のことばには、二重の意味、あるいは二重の機能がある、ということです。聞く私たちに本当の姿を照らし出し、そこに罪の意識を起こさせる面と、心の奥底に働いて、イエス様が本来与えようとしておられる幸いに気づかせる、という面です。
少し詳しく見ていきましょう。家族や自分の命を憎むということですが、これを幸せにつながることとして今受け取るのです。これは比較の問題であって、イエス様と比べて家族と自分の命のことをどう見るか、という意味です。私たちが家族を大事にし、他の人を愛するように自分をも愛することは実に重要です。ただ、それがイエス様を愛する以上になってしまうと、不都合が出てくる、ということです。もしかして自分の欠点、というところにこだわり過ぎてしまうと、それに反比例してイエス様の現実感が失われていってしまうかもしれません。また、自分の十字架を負うことも、何か重いものを背負う時の姿勢を思い浮かべていただいて、そのように腰をかがめ、身を低くして生きるときにこそ見えてくるものがあるのではないでしょうか。そして、本当にすべて、というところまではいかなくとも、少しずつ、少しずつ自分が握ってしまっているものを手放し、そこから自由になっていく、様々なしがらみから解放されていくことで感じる自由、すがすがしさといったものがあるはずです。
そのようにして手にする自由は、私たちに喜びをもたらします。そうすると、その喜びこそが、弟子を弟子とするものだと言えないでしょうか。イエス様のことばを聞いた人々は、弟子の要件のようにも聞こえることばの中に、実はそれを通して得られる喜びを聞き取った。そして、そのように喜びを得て生きることが尊いことだと実感して、それを残そうとし、それが最終的には福音書のことばとして結実した。そういうことだったのではないでしょうか。ですから、イエス様のことばを弟子の条件として受け止め、それを規則のように守ることよりも、実はその奥にある私たちを幸せにしようとするイエス様の真意を理解し、それによって喜びを得ることが、実は弟子を本当の意味で弟子とする、ある意味での要件だった、と考えるのです。
考えてみれば、弟子として生きる、といっても、がむしゃらに規則を守る、といったことでそれが長続きするはずもありません。イエス様についていくことで心に喜びがある、という方が、ずっと長続きします。加えて、このようにイエス様の弟子についてのことばを幸せになるためのことばとして受け止めることができた人々には、もうひとつの特徴があったと思われます。それは、イエス様がなにかお語りになる時、それは必ず実現する、という信仰をいただいていた、ということです。イエス様と、それまでのファリサイ派や律法学者たちの違いは、権威ある教えをするかどうかでした。その当たりから類推すると、イエス様のことばには権威があり、それはすぐにでも実現しそうな期待を、聞く人々の心に植え付けた、と考えられます。そうであるならば、イエス様の教えを聞いた人々の中には、「イエス様のもとに来て、なおかつ父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」「自分の十字架を背負ってついて来る者」「自分の持ち物を一切捨てる者」という弟子の姿が示された時、それが実現不可能なものではなく、イエス様のみことばの力によって我が身に実現するものとして期待して、喜んで聞いた人々がいた、とも考えられるのです。それもまた、このみことばを聞いて幸いをいただく一助となったのではないでしょうか。
福書を通してイエス様の姿を追いながら、自分の人生をこの方と関連付け、なおかつ、そこに何らかの、ささやかなものでもいいから、喜びを感じながら生きるということ。このことを、これからも地道に続けていきたいものです。
お祈りしましょう。
天の神様。
近づきつつある台風の予感の中で、
また、まだまだ続くコロナ禍にあっても、
このように変わらずみことばの時を与えてくださり、
感謝します。
今朝はイエス様の弟子の姿を見てまいりました。
「イエス様のもとに来て、なおかつ父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」「自分の十字架を背負ってついて来る者」「自分の持ち物を一切捨てる者」
改めて、どれひとつとっても、自分の姿から遠いように思われるものです。
しかし、あなたはこの姿を私たちに幸せを与えようとして示されました。
あなたの御力は、このみことばを聞く者を、
瞬時にでも、ここに示されているような姿に変えてしまわれるほどのものです。
イエス様は「私は律法を成就するために来た」とおっしゃいました。
そのことば通り、みことばを成就してくださる、実現してくださる御力に、
感謝します。
どうか古く頑迷な私の心を変えてください。
あなたの思い描かれる弟子の姿に変えられることで得られる恵みを思わせてください。
それが世の常識と離れていても、私たちの想像を超えていたとしても、
あなたのみこころの通りに、
私たちを生かしてください。
今週もこの現実世界を生き抜いていく私たちに、
その全能の力をお示しになり、
お助けください。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・夏期献金が満たされるよう、お祈りください。
・9月18日は、ゲスト説教者が来られての礼拝です。
元西日本福音ルーテル教会牧師の、池上安先生が来られます。
・この感染状況から、皆さんが守られますように。
Comentarios