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執筆者の写真明裕 橘内

2022年9月11日 聖霊降臨後第14主日礼拝

更新日:2022年9月19日

【聖書交読】出エジプト32章7〜14節(旧約p147)

司)7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、

会)8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」

司)9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。

会)10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」

司)11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。

会)12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。

司)13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」

全)14:出エジプト記/ 32章 14節

主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。



【聖書朗読】ルカ15章1〜10節(新約p138)

1:徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

2:すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

3:そこで、イエスは次のたとえを話された。

4:「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

5:そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

6:家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

7:言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

8:「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

9:そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

10:言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」



「見つけていただく喜び」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日の福音書の箇所のテーマは一言で「喜び」と言えると思います。ではどのような喜びなのか、一緒にその内容を追ってまいりましょう。


ここに記されているイエス様のたとえは、イエス様が十字架を目指してエルサレムへ向かっていく旅の途上で語られたと言われています。ある意味でこの福音書の心臓部であると書いてあるものもあります。ですから、ここで言われる喜びは単なる喜びではなく、十字架に結びつくものであり、この福音書において中心的な、重要なものであると考えられます。


さて、本日登場する徴税人や当時「罪人」と呼ばれていた人々ですが、今の日本とは比べ物にならないほど宗教というものが日常生活の中に深く深く浸透している社会の中で、受け入れられず、非難されるべき人々と思われていました。徴税人は公務員のようなもので、尊敬されてもおかしくないところ、当時税金は納税者に還元されるなどといったことは全く考えられていなかったらしく、ただ税を取る側にだけ利益があるようなもので、それだけでもおもしろくないところ、このときはその税を受け取る側がローマという異国でありましたので、徴税人は売国奴のように思われて、嫌われていたのです。罪人とは、徴税人以外で、当時の社会において問題ありと思われていた人々で、遊女であるとか、職業柄安息日を守ることのできない人々などを含んでいました。彼らは、喜んでイエス様のもとにお話を聞こうとして近寄ってきます。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とイエス様を拒絶するファリサイ派の人々や律法学者たちとは対象的な姿です。


イエス様のお話は、まずは迷ったものの羊飼いに見つけてもらった羊についてですが、まさに徴税人や「罪人」たちは、自分たちがイエス様に見つけていただいた存在だと自認していたのではないでしょうか。この部分のテーマは、「見つけられる」ということであり、またそれによって大きな喜びが起こることです。彼らは、地上の生活では日常的に周囲の人々から敵意を向けられたりする中で不幸を身にしみて感じていましたが、その存在意義が失われていくような中でイエス様に見出されることを通して、このお話の中の「喜び」というものに共鳴し、自分たちもその喜びの中に身を置いていたのではないでしょうか。自分たちを信仰深いと思い、あらゆる汚れから自らを分離させようとしていたファリサイ派の人々が、その喜びを享受できなかったというのが返す返すも残念です。


このファリサイ派の人々の姿は、単純に言えば、本来招かれていたとは思えない異邦人たちが続々と救われて神の国に入っていくのを見て「なぜあのような人々が」と苦々しく思うユダヤ人たちを指す、とも言われます。この箇所に続いて有名な放蕩息子のたとえが出てまいりますが、ここで父親の財産を使い果たす放蕩息子は先に救われていく異邦人たち、彼を避難する兄がもともと神の国に招かれていたはずのユダヤ人を指す、と言われますので、このファリサイ派の人々の姿はその兄の姿と共通している、ということになります。彼らは、徴税人や罪人たちがイエス様と同じ食事の席についているのを見て、彼らがイエス様に招かれたのだということに気づきました。そして、本来なら自分たちが招かれるはずなのに、なぜこんな罪人たちが招かれているのか、と腹を立てたのです。そもそも、自分たちが招かれるべきだと考えたところに、間違いがありました。自分を常に高いところに置こうとすると、周りの人々を下に見るだけで、何も良いものは生まれてこないのです。


自分たちもイエス様に見つけていただかないといけない、失われゆく存在であることになかなか気づかないファリサイ派の人々のことを思ってか、イエス様は更に銀貨を引き合いに出して、見出される喜びを語るたとえを話されます。ここでも、羊と羊飼いの出てくるたとえ同様、銀貨は所有者に熱心に探し求められ、見つかれば大きな喜びが沸き起こります。そして、共通なのは、「一緒に喜んでください」という呼びかけがあることです。ここで語られる喜びの特徴は、この「ともに喜ぶ」ということです。イエス様の喜びは、閉ざされていません。それはいつも開放されていて、イエス様は私たちにも、「さあ、一緒に喜ぼう」と声をかけてくださるのです。


この開放性に対して、ファリサイ派の人々の考え方は閉鎖的です。「私たちだけが」と考えるのです。そのようなところには自由がなく、喜びも感じられません。自分たちだけが、もっと良い目を見るはずだ。祝福されているのは、私たちだけのはずだ。そのように思い込んでいるところに、裏切られたような苦々しい思いや、腹立たしい思いが生まれてくるのです。ですから、ファリサイ派の人々と言えば、信仰熱心であり、きよくあろうとして世から自らを分離させようとしても、その心の中にはいつも満たされない思いがあり、喜びがなかった、と言うことができると思います。


イエス様は本当は、誰一人としてそのような不幸の中にいてほしくなかったのです。「自分だけが」「私たちだけが」という狭い世界から解放されて、どんな人とも一緒になって喜びを享受するような広々とした世界へ、私たち人間を招こうとしておられました。そして究極的には十字架によってしかそのことは実現しないと思われたイエス様は、その道を開くために、十字架へと向かっていかれたのです。


ご自分は苦しい思いをなさっても、私たちのことを考えて十字架に黙々とかかってくださったイエス様。そのおかげで、神様と私たちの繋がりは回復し、イエス様に招かれて神の国での祝宴にあずかるまでにしていただきました。この喜びはまさに見つけていただく喜びで、私たちが自分で手を伸ばしてそれを得た、と言うよりは、一方的に神様の方から与えてくださった喜びであることがわかります。そこで私たちの姿勢はあくまで受け身です。受け身というと消極的に聞こえるかもしれませんが、ことイエス様から与えられる恵みに関しては、この受け身であることがとても重要になります。


この受け身であることは、イエス様に対して心を開いている、という姿勢にも繋がります。また、イエス様はこのようなたとえに際して「聞く耳を持つ者は聞きなさい」とおっしゃることがありますが、イエス様に心を開くとは、まさにイエス様のことばに聞く耳を持つ、ということでもあります。そこには勿論身を低くすることも含まれているので、自分たちこそ本来は神の国にふさわしい、と胸を張るファリサイ派の人々がイエス様に対して聞く耳を持っていなかったことは容易に想像できます。


ここまで来ると、今日の聖書の箇所に置いて、喜ぶ人々は自分たちがイエス様に見出された存在だ、ということを知っており、イエス様からの「一緒に喜ぼう」という呼びかけを知っている人々、ということになります。その人々は身を低くしてイエス様に対して心を開いており、自分たちこそ神の国にふさわしいなどと思うことなく、いつもイエス様に対して聞く耳を持っています。その姿勢はいつも受け身であって、この世的に見ればそれは何とも頼りないものかもしれませんが、実はそのような生き方のほうが幸せである、という価値観をイエス様は示しておられます。イエス様に見出された人々は、その性質として、この世の価値観に沿って生きるのではない、という生き方を学んでいます。いくらこの世が「ボーッとしていないで手を伸ばせ、そして自らの手で得よ」と迫ってきても、イエス様から与えられるのを待ち、それを得てイエス様といっしょに喜ぶことの方を選ぶのです。私たちもイエス様に見つけていただいたひとりひとりです。そのことを改めて思い、感謝いたしましょう。


お祈りいたします。


天の父なる神様。

御子イエス様を私たちのもとに送ってくださり感謝します。

そのイエス様が、熱心に私たちを探し、

失われた私たちを見つけ出してくださったこと、

ありがとうございます。

どうかいつもイエス様の恵みに対して心を開き、

その導きに敏感であり、

イエス様から与えられるものだけを受け、

身を低くして歩み、

イエス様とともに喜ぶ喜びの歩みの中にとどまらせてください。

地上で遭遇するあらゆる困難から、

あなたが私たちを遠ざけ、

守ってくださいますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン



【報告】

・来週の説教は元西日本福音ルーテル教会牧師、池上安先生です。第一礼拝の説教は橘内師で、皆さんにはそちらを配布します。


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