【聖書交読】 創世記15章1~6節 (旧約p19)
司)1:これらのことの後、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
会)2:アブラムは言った。「主なる神よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに。家の跡継ぎはダマスコのエリエゼルです。」
司)3:アブラムは続けて言った。「あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。ですから家の僕が跡を継ぐのです。」
会)4:すると、主の言葉が彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ。」
司)5:主はアブラムを外に連れ出して言われた。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
全員)6:アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
【聖書朗読】 ルカ12章32~40節(新約p132)
32:小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
33:自分の財産を売って施しなさい。古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
34:あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
35:「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。
36:主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
37:主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。
38:主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
39:このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人がいつやって来るかを知っていたら、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。
40:あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
【説教】 「たとえ小さくとも」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
昨日兵庫県では新型コロナウイルスの感染者が過去最多を記録しました。そのような情勢に鑑み、本日は聖餐式を延期いたします。さあ、感染者も減り、もとに戻っていこう、という路線でしばらく来ましたので、また後戻りするようで、気が重いこともあるでしょう。もしかして、このように状況に合わせて臨機応変に変える、というのは、男性にはやや苦手なのかもしれません。何とも言えませんが、とにかく用心するに越したことはありません。以前の緊急事態宣言が出されているときなどのように、礼拝までお休みにするようなことは考えておりませんが、リスクとなるようなものはなるべく避けて、皆さんとともに感染防止に努めていきたいと思います。
それにしても、このコロナ禍において、人間の弱さ、脆さを感じずにはいられません。もちろんそこにはウイルスに感染してしまうとか、最後には世を去らなければならないであるとか、そのような肉体の面での弱さも含まれるのですが、今共に考えたいのはもっと人間の内面の、心の奥深くにある弱さの問題です。「本当に大丈夫なのだろうか」「これから一体どうなっていくのだろうか」とすぐ不安になってしまう。信じ続ければいいところ、つい弱音を吐いてしまう。そのような中で、本日の交読文である聖書日課の旧約の部分に触れますと、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15章6節)と高らかに宣言されており、なんだか眩しいぐらいです。
私たちはそのように、どこかしら弱さを抱えながら、教会に集まっております。その私たちに、主であるイエス様は何と、「小さな群れよ、恐れるな」と声をかけられるのです。
少し前を振り返ってみると、先々週は「主の祈りを祈りましょう」というテーマで福音書を味わいました。主の祈りを忠実に祈る私たちに、父なる神様は聖霊を与えてくださいます。同じ神様は、たとえ私たちが小さな群れに過ぎなかったとしても、喜んで神の国をくださいます。これは過分の恵みです。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」という今年の御言葉にある通り、神様はその無尽蔵の慈しみと憐れみによって、私たちが望む以上の恵み、すなわち神の国を与え下さるのです。
ここで私たちは、自分たちの意識はどうあれ、所詮私たちが小さな群れに過ぎない、ということに気づかされます。認めたくなかったり、そうであってはならないという思い込みをずっと抱えたままでいることもあるでしょう。しかし、神様の恵みはいつも私たちの想像を越えていて、「小さい」ということについネガティブな評価をしがちな私たちに、「それでいいのだ、あなたたちには神の国を与えよう」と言って下さるのです。
実際は、私たちは現実に今足を付けているところ、足で踏んでいるところを神の国として受け取って歩み続けるのですが、そこでは日照りが続いたかと思えば大雨に雷鳴がとどろいたり、得体のしれない感染症が流行ったり、人と人との間のつながりが希薄になって、ひどい場合は戦争になったりする世界です。どこに神の国の兆しが見えるか、といぶかしく思うこともありますが、私たちの主がそこに立ち、十字架にまでかかられたこの世界ですから、ここで私たちは神様とのつながりを深め、その中で神の国の恵みを味わっていくことができると信じます。御国が来るように祈る私たちのもとには、確かに神の国が来るのです。
最後に、この神の国の性質について少し触れて終わりたいと思います。国、というとどんなイメージでしょうか。年代によっても様々かと思いますが、だいたいは、現在自分が置かれている場所の政治体系、あるいは国家形態を思い浮かべられるのではないでしょうか。私たちだったら、民主主義的な国、ということになるでしょう。それに対し、この箇所で使われている、「国」と訳されている言葉は、実際は細かく申し上げると「王国」と訳されるべき言葉で、そこでは「統治」「支配」という意味合いが強いのです。私たちの国には現在強烈な独裁者のような存在がおりませんので、多数決で平和裏に物事を決め、穏やかに暮らしております。しかし、絶対的なことが言えないので、仕方なく多数決で、一番多いのが答えなのではないか、と答えを探っている、という面もないとは言えません。そこに、神の国、すなわち神の王国がやってくるのです。そこで期待できることは、そこに王がいて、その支配のもとで、私たちは確かな道を教えられ、みんなが言っているから多分そうだろう、という、多数決が持ちがちな不安定さから脱して、私たちの王がこう言っておられる、それに従っていこう、という確かさの中に生きることができるようになるのです。
そのことを示すのが、今朝の福音書の後半の部分です。そこでは、主人が帰ってくるのがいつかわからなくとも、主人を信頼して、忠実に仕え続ける信仰者の姿が暗に示されています。こういった御言葉でした。
「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」(ルカ12章38節)
これで、前半の神の国が与えられる話と、後半の忠実に主に仕える話がつながります。私たちは、イエス様を王としていただく王国にて、イエス様に忠実に仕えて、やがてイエス様から、「よくやった、忠実な良いしもべだ」(マタイ25章)とのお褒めの言葉をいただくのです。
そこまでたどり着くには、またこれからも色々な紆余曲折がこの地上においてあるでしょうが、私たちはそれでも勇気を失いません。それは、小さな群れであっても神の国をいただける、という期待感、そして安心感があるからです。そして、そこにはイエス様という王がおられる。イエス様は信頼できるお方です。私たちの希望が失望に終わることはありません(ローマ5章5節)。小さい群れであることに不安を覚えたり、それを恥ずかしいと思う必要もありません。むしろ、小さい群れであるからこそ、主は慈しんでくださり、神の国、神の王国という、想像以上の恵みの賜物をくださるのです。今週も私たちのまわりには変わらずコロナウイルスがあり、尋常ではない暑さも続いていくのですが、その中で変わらず主の祈りを祈り、御国が来ますように、と願いながら、この難局を乗り切ってまいりましょう。
お祈りいたします。
天の父なる神様。
あなたが私たちの祈りを聞いて聖霊を与えてくださる方であり、
また、私たちが小さな群れに過ぎなくとも、
神の国を喜んで与えてくださる方であることを、
もう一度覚えて感謝いたします。
そのあなたが私たちのために救い主、
御子イエス様を送ってくださり、
今朝も変わらず、その救いの中に入れられていること、
ありがとうございます。
私たちが歩む道は平坦ではなく、
周囲にも困難が待ち受けていますが、
あなたは私たちに神の王国を与え、
その王の支配の中に、
私たちを守り、支えてくださいます。
王であるイエス様に従って、
死に至るまで忠実に歩むことができますように。
【報告】
・先週は神学校デーでした。
・夏期献金の時期になっております。
・感染が急拡大しておりますので、本日の聖餐式は延期といたします。
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