【交読文】詩編112編(旧約p953)
司)1:ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人は。
会)2:彼の子孫はこの地で勇士となり/祝福されたまっすぐな人々の世代となる。
司)3:彼の家には多くの富があり/彼の善い業は永遠に堪える。
会)4:まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。
司)5:憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
会)6:主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。
司)7:彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。
会)8:彼の心は堅固で恐れることなく/ついに彼は敵を支配する。
司)9:貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。
全)10:神に逆らう者はそれを見て憤り/歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。
【聖書朗読】ヘブライ13章1〜8節(新約p418)
1:兄弟としていつも愛し合いなさい。
2:旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
3:自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。
4:結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
5:金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
6:だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」
7:あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
8:イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
礼拝説教 「いつまでも変わらない」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
8月も最後の日曜となりました。聖霊降臨後の信仰の成長を図る季節を、暑い夏を耐え忍びながら過ごしています。本日は福音書から離れ、さらなる成長の鍵を求めて、使徒書であるヘブライ書の方を開いております。
使徒書とは言いながら、実際その著者は誰なのか、はっきりはしておりません。それでも、多くの人々が、この書簡がパウロの筆によるものだと確信し、とある古い英語訳の聖書では堂々と、パウロによるヘブライ人への手紙、と題しておりました。ちなみに私たちルーテル教会の基を築いたルターですが、彼はアポロという新約聖書に出てくる熱心な伝道者がこの書の著者であると考えていたようです。
この書がパウロによるものであると考えられていたのにはもちろん理由があり、そのひとつは、他のパウロの書簡と構造が似ていることが挙げられます。ローマの信徒への手紙をはじめとして、パウロはまず福音を論理的に解き、その書簡の終盤になってから、具体的な実践についての勧めを書き記す、ということをしてきました。テモテやテトスに個人的に宛てて書いた書簡を除いては、ほとんどそのような形式で手紙を書いています。それはこのヘブライ人への手紙にも当てはまり、福音を律法との対比において論理的に語り、11章からのあの壮大な信仰に関する論述、信仰者列伝とも呼べるような部分を経て、この13章で、日常生活における具体的な指示、勧めに入っております。このような構造は、パウロの書簡によく似ております。
このような、ヘブライ書の著者は誰なのか、という話題はこのぐらいにしておいて、実際に本日の聖書の箇所を辿ってまいりましょう。ヘブライ書の13章1節からのひとくだりです。
1節から7節まで、「兄弟としていつも愛し合いなさい」というたいへん重要な教えに始まり、7節の「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい」まで、「勧め」というと当たりは良いですが、実際は命令形で、この書簡の筆者はヘブライ人たちに実に具体的な指示を出しております。このヘブライ人とは、今で言う旧約聖書の伝統を知っていた人々、と考えていただければ、現段階ではそれで十分かと思います。その証拠に、著者は6節において、今で言う旧約聖書の詩編118編から、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」という言葉を引用してきています。
この部分全体の特徴としては、お勧め、あるいはストレートに言って命令の前かあとに、そのように命じる理由が書かれていることが挙げられます。1節にあります「兄弟としていつも愛し合いなさい」に関しては、この部分全体のまとめ、あるいはタイトルとなるようなみことばですが、続く2節の「旅人をもてなすことを忘れてはなりません」という教えと合わせ、「そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」と書かれており、「それとは気づかぬうちに天使をおもてなししていることもありえるのだから、兄弟同士愛し合い、また旅人をもてなすのだ」と理由づけされています。これは創世記のアブラハムが実際に体験したエピソードに基づいています。
そのほか、3節においては、単に上から「牢に捕らわれている人たちを思いやりなさい」と命じられているのではなく、「自分も一緒に捕らえられているぐらいの気持ちになることが大事だから」と述べられ、「虐待されている人たちのことも思いやりなさい」という命令に関しては、「自分も体を持って生きているのだから」と、そのように思いやるべき理由が示されています。
ここには、神様が闇雲に人間に命令ばかりする存在ではないことをわかってもらおうとする著者の努力と配慮を見ることができます。著者としては、受け取り手のヘブライ人たちが、「命令ばかりで束縛に感じる」という反応にならないように、また、「これらの命令さえ守っていればそれでいいんでしょ」と開き直ることのないように、と願っていたのです。ちなみに、このヘブライ人への手紙はもともと説教であったとも言われ、そうするならばこのヘブライ人たちは「聞き手」であった、ということになります。これらの命令を「聞いた」ヘブライ人たちが、「そういう理由なら、大事な命令だから、心を込めて守っていこう」と思えるように、と著者は言葉を選びながら、この書簡を書いていったのです。
そのように、具体的な指示があって、ある意味でその裏付けとなるような旧約聖書からの引用による重みも加えながら、いよいよ8節の、本日の聖書箇所におけるクライマックスに至ります。ここは具体的な指示や命令ではなく、これまでの箇所の動機づけともなるようなみことばです。改めて読んでみましょう。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。
これは、旧約聖書のマラキ書にある「まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない」(3章7節)とのみことばを彷彿とさせるような一文です。主なる神様は決して変わることなく、そのおかげでヤコブの子ら、すなわちイスラエル民族にも終りが来ることなく、ある意味で永続する、とのマラキ書のみことばが、イエス・キリストが決して変わることのない存在である、という命題にまで昇華されていっています。だから、勇気を失わず、諦めず、私の勧める具体的な教えを守って生きていくのだ、というこの書の著者の気概が溢れているようなことばです。
同時に、ここでは、旧約聖書で「主」と呼ばれ、ご自身を示してこられた神様こそが、今私たちに救い主、また人生全体の主であるイエス・キリストとして示されている、という著者のダイナミックな信仰が見られます。このあと何世紀にも渡って、実はキリスト教会の歴史は、その名前を頂いているキリストが実際どういった方なのか、ということで何度も集まっては論議する、ということの繰り返しの歴史となりました。その中では、キリストは半分神で半分人間なのだ、という意見すら出されたのです。この長く続く議論の争点は、詰まるところ、イエス・キリストとは、あの旧約聖書で示されてきた主なる神様と同一なのかどうか、というところであって、その点では、もうすでにみことばが、このヘブライ書13章において、同一である、という見解を出していたのです。悲しくも人間側がそれを十分に受け止めることができず、議論が長引いた、ということなのでしょう。
今で言う旧約聖書において絶対的な神として支持されてきた主なる神様が、今やイエス・キリストとして姿を現された、あるいはご自身を明らかにされたということは、そのまま受け取ったなら信仰生活においてたいへん大きな力、励ましになったはずです。いにしえの信仰者達においてそうであるなら、私たちにおいても同じであるはずです。確かに私たちには彼らのような旧約聖書の伝統はないかもしれない。しかし、今私たちは印刷された日本語の聖書を手にして、旧約聖書も、彼らの知らなかった新約聖書まで手にして、神様の言葉に十分に触れることが可能になっています。それを通して、私たちが変えられ、力づけられ、生き方の方向づけがなされて堂々と自分の人生を生きていくということは、大いに有り得ることなのです。
昨日も今日も未来永劫変わることのないイエス様のことを考える上で重要なのは、その十字架です。十字架で罪が赦されるという恵みは、もうあれから2000年近くたってもう薄まった、効力がない、そもそも時代と地域が異なるから私たちには適用されない、といったことは決してなく、変わらずに私たちを罪と死の束縛から解放し、永遠の命に至らせるものです。様々な命令が与えられ、しかもそれが日常生活のために重要なものであっても、それを守り切ることができないというのが私たちの実情でしょう。でも、その私たちを赦してくださる、というのが、十字架の大きな恵みです。イエス・キリストが永遠の存在だから、私たちも罪赦され、永遠に生きるのです。このスケールの大きさを、今日は自分の枠をぐっと広げて想像し、受け取っていきましょう。
最後になりますが、今日の話題の「変わらない」ということですけれども、これで私たちは何を感じるでしょうか。安心感を覚えるのではないでしょうか。卑近な例ですが、私の体験ですと、小さい頃、日曜の朝と言えば、必ずラジオから音楽が流れていました。NHKラジオの『音楽の泉』という、様々なジャンルのクラシック音楽を紹介する番組です。今も日曜の朝、ラジオからは同じ『音楽の泉』が、番組の担当者は変わっても、紹介される曲は変わっても、流れてきます。何だかホッとします。安心感があります。また、なぜか、「私のことをわかってもらえている」という思いにもなります。「この番組が、変わらずずっと続いていてほしい」という私の願いがかなえられている、とどこかで感じているのでしょうか。皆さんはいかがでしょうか。同じような体験をしたことがある方もおられるのではないでしょうか。
このひとつのラジオ番組でさえ、人が安心感を覚えたり、わかってもらえている、という感覚になる。そうであるならば、まして私たちが信じるイエス・キリストが変わることのない存在だ、という事実は、どれだけ私たちに安心感を与えることでしょうか。あなたにとって、イエス・キリストは昨日も今日も、そして永遠に、変わることのないお方です。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神様。
あなたの尊いお名前を賛美します。
コロナ禍ではありますが、
このように御言葉の時を備えてくださり、
感謝します。
私たちの日常生活のために、
あなたが御言葉を通して具体的な指針を与えていてくださること、
しかも、ただ命じるのではなく、
その理由も示していてくださることをありがたく思います。
そして、信仰の創始者であり完成者であるイエス様が、
その命令を守り切ることのできない私たちをも憐れんで赦していてくださること、
感謝いたします。
まだまだ厳しい気候が続きますが、
その中で様々な生きづらさを感じることがあったとしても、
いつもイエス様が共にいてくださり、
いつも変わることなく、私たちを守ってくださいますようお願いします。
先週私たちに日々恵みを与えてくださったイエス様は今週も変わらず、
恵みを与え続けてくださることを信じて感謝します。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
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