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執筆者の写真明裕 橘内

2022年8月14日 聖霊降臨後第10主日


【聖書交読】

マタイ27章50〜54節(新約68頁)

司)50:しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

会)51:そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、

司)52:墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

会)53:そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。

全)54:百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。


【聖書朗読】

ヘブライ11章29〜12章2節(新約416頁)

29:信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。

30:信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。

31:信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。

32:これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。

33:信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、

34:燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。

35:女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。

36:また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。

37:彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、

38:荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。

39:ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。

40:神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

1:こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、

2:信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。



【礼拝説教】「切り開く」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

最近は急な豪雨や地震などの災害が続いております。一昨日でしたでしょうか、午後のことですが、東の空に今まであまり見たこともないような大きさの積乱雲が出ていて、思わず恐怖を覚えたことでした。そのような、不安の多い日常生活を送っているからこそ、このようにメッセージの冒頭で、「恵みと平安があなたがたにありますように」と祈り、聞く皆さんにも語る者にしても平安をいただいてからみことばの時を始めることができるとは何と幸いなことでしょうか。

その大事な平安は、新共同訳だと「平和」と訳されていますけれども、私たちの父なる神様と主イエス様、この両者から発せられるとあります。今日はこの両者が私たちの救いにとってどんなに大事な方か、みことばから味わっていきたいと思います。これは本日の聖書交読の箇所です。御存知の通り、10時半からの礼拝は、馬渕神学生の説教です。午後の園田伝道所での説教も同じです。神学校での学びの一環として、実際に教会で説教をする、という実践的な学びです。その馬渕神学生の説教において、このマタイの福音書27章の箇所がたいへん重要な箇所として引用されているのです。そこで、今日はそのような重要な箇所はみんなであらかじめ読んでおこう、ということで交読文の箇所としたわけです。そして、第一礼拝において、そこから語らせていただくことにいたしました。

さて、この箇所は、イエス様の長く続いた受難の中でも、本当に最後の最後、イエス様が息を引き取られるご様子を描き出した箇所です。マタイは実際この光景を目にしていたのでしょうか。それとも、そのようなことができたのはヨハネぐらいで、あとはイエス様のもとを離れていったとも言われますので、誰かから、たとえばヨハネあたりから伝え聞いて書き残したのでしょうか。いずれにしても、どちらかというと淡々とした、事実をそのまま伝える、といった筆の運びのようにも思われます。

ここで、イエス様が私たちのために、大声で叫ぶことさえ厭うことなく、大声で叫んで息を引き取られたことを知ります。しかしそこには、「あなたたちのためにここまでしてあげたのだ」と言わんばかりの、恩着せがましい気持ちは見られません。ここではただ事実だけ述べている、それがマタイであり、だからこそ私たちも、率直に「そこまでしていただいて・・・」と言わんばかりに、この出来事をそのまま受け止め、そして感謝することができるのです。

次もマタイは淡々と「事実」ということで書き記していきますが、ここだけは、ちょっとにわかには信じがたい気持ちもないわけではありません。私が20歳ぐらいの頃、ちょうどイエス様を信じるかどうか、という頃に、他の部分は信じるも何も、問題なくどのみことばも違和感なくスッと心に入ってきていたのですが、さすがにこの御言葉だけは、ちょっとどのように向き合ったら良いか難しい箇所であったように覚えています。それだけ超自然的過ぎるというか、ここだけ急に「いかにも宗教」といった感じの内容に思えたからです。

ここで描かれているのは、イエス様が十字架で亡くなられた当初に起こった不思議なことです。第一に、神殿の垂れ幕が真二つに裂けました。第二に岩が裂け、その余波で墓が開いて先に地上での歩みを遂げられた聖徒、すなわち信仰者たちが「多く」よみがえった、というのです。その出来事の確かさは、そのよみがえった聖徒たちが「多くの」人々に目撃されている、というところで証明されています。これは確かな事実であると言わんばかりの書き方です。

この、一見するとイエス様の復活と関係があるのかどうかわかりにくい出来事が、ローマの兵士を含め、イエス様の十字架の周りにいた人々の心を動かしました。彼らは、「本当に、この人は神の子だった」という、心に迫る、大事な信仰の告白をしているのですが、そのような言葉が出てきた理由は、「地震やいろいろの出来事を見て」のことであったと記されています。すなわち、彼らにとっては、イエス様の十字架の様子や神殿の幕が破れるだけでなく、この地震、そしていにしえの聖徒たちの復活がなければならなかったのです。その出来事があったからこそ、彼らはイエス様を神様の子であると受け止めることができたのです。

イエス様はここで亡くなっていかれていますので、神殿の幕を裂いたのも、地震を起こして聖徒たちをよみがえらせたのも、ここでは父である神様であられます。そのように、父である神様は私たちの救いに直接関わってこられます。そして、繰り返しになりますが、イエス様を神の子と信じる信仰を与えてくださいます。

しかし、ここで父なる神様もイエス様も、それほど前面には出てきておられません。「父なる神様は神殿の垂れ幕を裂き・・・」とマタイに書かせても、「父なる神様がこの時、聖徒たちをよみがえらせ・・・」としてもおかしくないところ、それでもマタイが、「誰がそれを行ったか、それほど強調されていない」書き方をすることをお許しになり、あくまで出来事の全面、表側ではなく、裏側にいようとなさる。そこに、謙遜な神様の姿を見るように思います。

私たちに、何にも代えがたい平和を与えてくださる神様は、意外にもご自分のことを主張したりすることはなく、私たちを無理に信じさせることもなさらない、たいへん紳士的な方であることが本日のみことばから見えてきます。ご自分のことよりも、私たちのことをわかろう、となさる思いが見えてきます。それさえわかれば、私たちも安心して、この御方と、この御方がお遣わしになった救い主であるイエス様を信じることができます。少なくとも、父なる神様とイエス様を知ろうと思うようになります。そしてそれがすなわち、永遠の命であると、ヨハネの福音書では告げています(ヨハネ17章3節)。この世の何にも代えがたい平和だけでなく、永遠の命まで与えられている。この暑い夏にあって、力も失いがちなところ、これは私たちを勇気づける良い知らせです。

お祈りしましょう。

天のお父様。

あなたの御名を賛美します。

あなたがイエス様を救い主としてお遣わしくださり、

この方によって和解を実現してくださったこと、

感謝します。

そのように、今私たちとあなたの間には平和があり、

その平和を享受して、歩めますこと感謝します。

何かと勇気を失いがちなこの世の歩みでありますが、

平和のみならず永遠の命まで頂いていることに感謝し、

喜んで人生の逆風の中を進んでいくことができますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン

【報告】

・本日8月のお誕生のお祝いをします。

・本日の礼拝説教は、御影、園田ともに馬渕神学生です。

・夏期献金の時となりました。感謝してお捧げしましょう。





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