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執筆者の写真明裕 橘内

2022年7月3日 聖霊降臨後第四主日礼拝

交読文 イザヤ66章10~14節 (旧約p1170)

司)10:エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。

会)11:彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り/豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。

司)12:主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。

会)13:母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。

全)14:これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。

聖書朗読 ルカ10章1~11節(新約p125)

1:その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

2:そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

3:行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。

4:財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。

5:どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。

6:ルカによる福音書/ 10章 06節

平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。

7:その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。

8:どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、

9:その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

10:しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。

11:『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。


礼拝説教 「平和を願うその気持ち」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


暑い毎日が続いております。災害級の暑さだとも言われます。それに、2月からのウクライナとロシアの戦争も、日々私たちの周りに起こる様々な出来事の中に埋没しがちになってきているかもしれませんが、まだまだ続いております。今日は平和について語るみことばを開いておりますので、かの地のことについて考えざるを得ません。


イエス様には12弟子のほかにも72人の弟子たちがいました。それは、いくら「御自分が行くつもり」(1節)であっても、地上では限界があるため一度には回り切れない町や村に遣わすためでした。そして、彼らを派遣する理由。それは、「この家に平和があるように」(5節)と告げさせるためでした。この平和のメッセージを告げさせるために、イエス様は72人もの弟子たちを派遣させたのです。併せて、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と2節にありますが、魂の収穫のために働き人を送って下さるよう収穫の主である父なる神様に願うのも、同じ平和のメッセージ、すなわち「この家に平和があるように」というメッセージを広めるためでした。


ここで言われる平和とは、羊を狼の群れに送り込むことで脅かされるものです。狼に象徴される、この世の危険な存在は、それ自体で悪なのではありません。狼同士で存在する分には、良いか悪いかは別として、それはそれで一つの在り方なのです。ただ、そこにイエス様の命が注がれた羊のような存在が入って行くときに摩擦が生じ、何らかの問題を起こしていくなら、悪としての姿を現すのです。


平和を願い、そのような悪を避けるには、誘惑となるような金銭を持たず、「途中でだれにも挨拶をするな」とのことですから、簡単に口を開かずに十分に注意をしながら目的の場所まで進んでいく必要があります。特に「途中でだれにも挨拶をしない」という5節の指示は、不愛想にも見えるので、なぜそのようにイエス様に言われるのか理解が難しい所です。同じ節の中の「この家に平和があるように」という平和のメッセージを「平和の挨拶」と捉えるなら、少しその意味が見えてまいります。大事な平和のための挨拶をするまでは、それが何よりも重要な目的なので、とにかく何が何でもそれを優先する。多少不愛想に思われても、理解されなくても、それを貫き通するのです。そして着いた先で平和のメッセージにふさわしい家があったら、平和を求めて「この家に平和があるように」との祈りをするのです。平和のメッセージは、平和を求める祈りでもあります。


主の恵みのゆえに、困難な伝道の旅の結果、「この家に平和があるように」との祈りにふさわしく、そこに平和の子がいる家があったら、その場所に平和は留まります。あちこちに行かずにひとつの家に留まり、出されるものを心許して飲み食いし、安心していやしなどのイエス様の業をなし、神の国の到来を広める姿は、まさに平和そのものです。


ここに見られる平和とは、単に漠然と「世界平和」というのではなく、具体的です。人々が和合して暮らす。安心して飲食の交わりが出来る。これは本日これから執り行われる聖餐式に象徴されているとも言えるでしょう。それに、いやしをはじめとする、イエス様の業が繰り広げられる。そして、神の国が近づいたと、神の国の到来が告げ広められる。これらのことで表されます。たいへん信仰にかかわりの深い平和、ということにもなるかと思います。


そうなると、ここで「なぜ世界が平和でなければならないか」ということが見えてきます。それは、神の国の福音を広める伝道の働きが安心してできるため、ということです。ひどく手前勝手に聞こえるかもしれませんが、そうなのです。神の国が近づいていて、人々の豊かな交わりと、イエス様のいやしの御業が実現している、この良い知らせを安心して、何の妨げなく、制限もなく自由に語り伝えることが出来る。これがある意味で究極の平和の姿であり、このために、平和がどうしても必要、ということになるのです。


逆に言えば、平和のない状態があるとすれば、それはついぞ神の国が近づいたと語られることのない世界、ということにもなります。そのような世界を味わいたいでしょうか。神の国が近づいた、すなわち神様ご自身がわたしたちのもとを訪れられる。そこでは、私たちの労苦も無駄にならずに神様に覚えられ、私たちは良い報いから漏れることなく、今の世も後の世も、神の国の栄光を身にまとい、その豊かな恵みを享受することができる。しかし、そのようなことが一切告げられない世界では、私たちはひたすらあてどなく労苦し、私たちを越えた大いなる存在に覚えられることも認められることもなく、今の命の後に輝かしい世界が待っていることなども知ることもなければ、ましてその恵みに今すでに与ることが出来ることも知らずに生きていかなければならない。このことを考えただけでもどんなに悲惨なことかがわかります。このようなことがあってはなりません。そのためには、平和な世界であって、何の妨げもなく福音が伝えられる状態である必要があるのです。


イエス様の時代に伝えられ始めた平和のメッセージは今でも有効なのに、どれだけ大事にされているでしょうか。どこにその平和を受け止め、さらに平和を作り出す平和の子がいるでしょうか。でも、どんなに小さくても、私たちの平和を求めるその気持ちに、主イエス様は寄り添ってくださいます。安心してイエス様のことを告げ広めていける世界が続きますように、祈り続けてまいりましょう。


お祈りいたします。

地には平和と願われた父なる神様、

あなたの御名を賛美します。

平和の君であるイエス様を私たちのもとに送って下さり感謝します。

「この家に平和があるように」との祈り、

そして平和のメッセージは、

最初にイエス様の口に上ってから今日に至るまで、

世界各地で宣べ伝えられています。

しかし、戦乱や言論の統制によって、

それらが自由ではない地域もあります。

イエス様の福音が広まるには、

どうしても平和が必要です。

どうか平和を与えて下さい。

また、収穫のための働き人を送って下さるよう祈るようにと言われていますが、

働き人がいないことによって、

平和のメッセージが語られなくなってしまう、

ということもあり得ます。

どうか引き続き、

この地に収穫のための働き人を送ってください。

私たちは御言葉によって平和のメッセージをいただき、

お互い和合して暮らし、

豊かな交わりをいただきながら、

神の国が今ここにある、

という豊かな恵みにあずかり続けることができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン



【報告】

・本日7月第一週目で、聖餐式が行われます。

・本日昼食会があります。

・今月31日は神学校デーで、例年通り有木先生がお越しくださいます。


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