【聖書交読】コロサイの信徒への手紙3章1〜11節(新約371頁)
司)1:さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
会)2:上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
司)3:あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
会)4:あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
司)5:だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
会)6:これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
司)7:あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
会)8:今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
司)9:互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
会)10:造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
全)11:そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
【聖書朗読】ルカ12章13〜21節(新約131)
13:群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
14:イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
15:そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
16:それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
17:金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
18:やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
19:こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
20:しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
21:自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
【第一礼拝 説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日は10時半からの第二礼拝は神学校日礼拝ということで、有木先生が御言葉のご奉仕をなさいます。そこで、第一礼拝では使徒書から御言葉を味わっていきたいと思います。第二礼拝では交読文の箇所となっております。本日は「上にあるものを求めなさい」と私たちの目を天に向けさせるコロサイの信徒への手紙3章1〜11節が選ばれています。
ここでパウロがそのように「上にあるものを求めなさい」と呼びかけるのは、復活が根拠となっています。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」と書かれているとおりです。私たちにはその実感がないかもしれません。しかし、私たちは、キリストに結びつく洗礼を受けていますから、気が付かなくても、感じなくても、私たちはキリストと共に一度死を経験しているのです。そして、復活したのです。ここで注意深く「復活させられた」と書かれているのは、人間の側の力ではなく、外側から、徹底的にキリストの力によって復活に至った、ということを語っています。
また、ここでは、復活したからこそ、地上の存在ではなく天に属する存在なのだ、だから上にあるものを求めるのだ、と述べられているだけではありません。もうひとつ、「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」という記述もまた、私たちが上にあるものを求めるべき理由であって、このように二重の理由が述べられているのです。
「上にあるものを求めなさい」という勧めは、2節で「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないように」との指示へと若干姿を変えていきます。続く3節にはまたその理由が述べられていて、そこには「あなたがたは死んだのであって・・・」とあり、十字架でイエス様とともに私たちも死んだ時点に戻って、そのことが改めて強調されています。
死をタブー視する日本において、これから信じようとする方々にこのような御言葉から語ることには抵抗を感じなくもありません。せめて、「あなたがたは死を経験したのであって・・・」であるとか、あるいはもっとマイルドに、「あなたがたは命を落としたのであって・・・」と訳してほしかった、と思ったりもいたします。しかし、訳し方はどうあれ、私たちが一度キリストと共に死んだことを御言葉から知らされることは非常に重要です。実は、そこがスタートなのです。この聖霊降臨後の典礼色が緑の季節は、信仰の成長を求める季節であるとしばしばお伝えしておりますが、私たちがもともと持っている命がまだ生き生きと自我を主張しているうちはまだまだ成長のタイミングではありません。私たちが壁に直面し、自分の力で生きようとするときに様々な不都合、いやそれどころか、害悪が生じることに幻滅し、自分の命を諦め、イエス様の命に支配されることを望むとき、イエス様は私たちが十字架でイエス様と共に死ぬよう導かれ、古い自分はすっかりそこで滅ぼし尽くされ、イエス様の新しい命に復活し、上を見上げるようになるのです。
このあとは倫理的な教えに発展し、貪欲な生き方から離れることが勧められますが、その点で富を貪ろうとした金持ちが登場する本日の福音書の箇所が関連する聖書の箇所として聖書日課に選ばれています。
ただ、もちろんそこはパウロのことですから、単に倫理的な教えを並べるだけでは終わりません。古い人を捨てて新しい人になることを、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に付け、日々新にされて、真の知識に達するのです」(3章9〜10節)と表現し、服を脱ぎ着するという、ごくありふれた日常生活の動作として、私たちの目の前に出してきているのです。これは、コロサイの信徒たちにとって、とてもわかりやすい表現だったと思います。
そして、この日課の箇所のクライマックスとなる11節で、「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」と、キリストにあって人々の間には区別がないということが強調されます。ここに男女の区別もないと加えてほしかったところですが、「男も女もありません」と、ガラテヤの信徒への手紙3章28節にすでに述べられています。この「人々の間に区別はない」という、私たちの今の時代にあってはもしかして当たり前のようにも聞こえるかもしれない教えですが、恐らくパウロの時代には、強烈なインパクトを持ったメッセージとして、コロサイの信徒たちを始め、多くの人々に受け取られていったものと考えられます。このメッセージがまさに福音だった、という時代です。しかし、この当時だけでなく、本当に今、区別のない世界になっているのかというと、できる人とできない人、持っている人とそうでない人、知っている人と知らない人、といったような区別が出てきています。また、男女の区別に関しては、日本の政治の現場を見ても、まだまだ女性の進出は十分でない、とも見られています。
そのような現実にあって、私たちはどのような取り扱いを神様から受けているかというと、それは少し戻って3節に記されているように思います。その後半です。「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」という部分です。これは多少わかりにくい表現とも思われますが、キリストが私たちと共にいてくださること、そして、神の内に隠されているとは、要するに神様にたいせつに守られている、ということを意味しているのではないかと思うのです。
私たちは神様によって変えていただいたけれども、まだ世界のほうが変わっていないとか、世界にも神様の力が及んでいるけれども、段階的である、といったことで、この世にあっては私たちの理想通りにいかないことも多いものです。そこに葛藤があり、軋轢が生まれやすくなるわけですが、それで私たちが弱ってしまわないように、害を受けないように、隠す、すなわち私たちを守ろうとしていてくださるのではないでしょうか。そのようにして、私たちが上を見上げて、天を目指して、そこにあるものに憧れて歩むことができるように守ってくださる神様に、感謝をささげたいと思います。
お祈りいたしましょう。
天の神様。
今朝も目覚めの時を与えてくださり、
このように御言葉の時をありがとうございます。
迷いやすい私たちが、
混迷を極める現代社会に生きております。
自ずと困難に出会うことにもなりますが、
そのような中で疲弊し、
倒れ込んでしまわないために、
あなたは私たちをあなたの内に隠し、
守っていてくださること、
感謝します。
そして、イエス様がいつも共にいてくださることにも、
心から感謝します。
移ろいやすい地上のものに心奪われてしまうことなく、
上にあるもの、天にあるものを求めていくことができますように。
服を着るようにイエス様の義の衣を身にまとい、
新しい自分に造り変えられて、
天に向かう道をまっすぐに歩んでいくことができますように、
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・本日は神戸ルーテル神学校を覚えての神学校日礼拝です。有木先生がお見えです。
・来週の聖餐式は、感染状況によっては中止の可能性があります。
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