聖書交読 詩編138編 (旧約p978)
司)1:【ダビデの詩。】わたしは心を尽くして感謝し/神の御前でほめ歌をうたいます。
会)2:聖なる神殿に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって/あなたは仰せを大いなるものとされました。
司)3:呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え/解き放ってくださいました。
会)4:地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。
司)5:主の道について彼らは歌うでしょう/主の大いなる栄光を。
会)6:主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。
司)7:わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
全)8:主はわたしのために/すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。
聖書朗読 ルカ11章1~13節(新約p127)
1:イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2:そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
3:わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4:わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
5:また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6:旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
7:すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
8:しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
9:そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10:だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12:また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
礼拝説教 「”主の祈り”を祈りましょう」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
信仰の成長を期待する聖霊降臨後の緑の季節を過ごしていますが、一直線に「成長」ということで突き進むことができるとは限りません。この夏の暑さに耐えかねて倒れ込むのと同じように、信仰の成長だ、と思って進んでいても、思ったようにはうまく行かずに、時には倒れ込んだり、壁に突き当たったりするものです。そのような不調の時には様々なサインが見られますが、いつもは毎晩寝る前に祈るけれども、なんだか最近しんどくて祈りの言葉も出てこない、などというように、「祈れない」ということがひとつの不調のサインであったりすることがあります。
それでも、「どんなに祈れない日でも、主の祈りだけは祈るとよい」と言われるほど大事なのが主の祈りです。私たちも毎週礼拝の中で祈っています。もし魂が弱りはて、祈ることすら難しい、ということになった時、「だからもう祈らない」、というのではなくて、「では代わりに主の祈りだけでも祈ろう」というところに持っていくのです。主の祈りは主の日の礼拝の時にだけ祈る、と決められているわけではありませんので、私たちのそれぞれの毎日の信仰生活の中で、それを用いていってよいのです。
その主の祈りは聖書に出てきます。今日の福音書の箇所です。「わたしにも祈りを教えてください」という弟子の要望に答えて、「祈るときには、こう言いなさい」と言って教えてくださいました。私たちの主であるイエス様が教えて下さったので、「主の祈り」と呼ばれています。実はマタイによる福音書にも同じ祈りが記されています。マタイによる福音書の6章9節からで、比べてみますと、マタイにある主の祈りの方がルカのものよりも若干長いことがわかります。
この祈りの言葉の後には、祈りについてのたとえが続いています。そのテーマは「求める」ということで、それに目が行きがちです。8節に、「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」とありますから、主の祈りのテーマもまた、しつように頼む、神様に願う、ということであるように思ってしまいます。
勿論それで間違いであるわけではないのですが、主の祈りでは罪の告白も重要な要素となっています。4節にあります、「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから」という部分です。8行あるルカの方の主の祈りですが、そのうち実に3行が、この罪の赦しに関わる部分なのです。日本語のテキストの順序でいうと、まず「赦してください」という、赦しを求める祈りがあり、その後に、「私たちも赦します」という決意の文章が来ます。「私たちも赦すから」というのが条件になって私たちが赦されるわけでもありません。まず赦され、その罪の赦しの恵みに感謝して、喜んで赦しの新しい歩みに入る、ということです。
聖餐式の中で主の祈りを祈るのは罪の赦しを願う祈りであることも理由の一つです。聖餐の恵みにあずかるよき備えとして、罪の赦しを願うことはたいへん重要です。それは、例えば聖餐式の途中で、「皆さん、罪の赦しを求めて、しばらく黙祷しましょう」といったような実際的な行為によって実現することもないわけではありません。しかし、身を低くして、神様により頼み、「私たちはこの罪の赦しを願うことさえ、人の間で誇りとしてしまうような愚かな存在です」と告白する気持ちで、罪の告白すら神様が私の内側で働いてくださる神様のわざであると信じて心を開き、そして具体的に主の祈りを祈っていくのです。
さて、その求めることに関しては、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(9節)という有名な御言葉にあるように、熱心に求めることが教えられています。神様の国が来ることも、日用の糧が与えられることも、とにかくしつように、頼み込むようにして願うわけです。その背後には、神様の国は必ず来なければならないのだ、と言わんばかりの熱心さ、どうしても日々必要なものを霊的なものも含めて、ルターは「良い天候」もそこに加えましたが、それらが与えられなければならない、といった、いくらか切羽詰まった、熱心な求める心が必要であることは言うまでもないことです。
ではそれで何が与えられるか、というと、「思った通りのもの」とは限らないようです。この喩えから類推すると、与えられるのは「必要なもの」(8節)であり、「良い物」(13節)であると言われています。そして最終的に、13節でそれが「聖霊である」ということがわかります。このあたりのロジックはいかがでしょうか。いささか飛躍のようにも思われるのですが、大事なイエス様の教えです。
助けを求めているようなときなど、誰もが「聖霊よりも実際的に助けとなると思われるあれやこれや」を求めがちです。その中には、実際にそばにいて、悩む時にはそっと寄り添ってくれる友人なども含まれるかもしれません。ですが、考えてみましょう。実際には神の霊である聖霊が、誰にとっても必要であり、良い物であるのです。それはなぜでしょうか。それは、聖霊が、心の内を知っていてくださるからです。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」(コリントの信徒への手紙一 2:11)と言われているとおりです。まず、聖霊はその人のことをよく知っている。本人が気づかないことも、ちゃんとわかっておられます。ですから、その人に今、どんな助けが本当に必要なのか、聖霊がご存知なのです。しかも、その助けのためにどんな神様の助けが得られるか、ということに関して、この霊は神様の霊であるので、神様のこともよくご存知であるわけです。そうすると、「この人に今このような助けが必要ということは、神様のこの分野の働きがなされればいいのだ」などなど、瞬時にわかるわけです。私たちが熱心に求めたときに、究極的には聖霊が与えられる、というのは、どんなに素晴らしいことか。そのことがわかります。
もちろん、空腹のときに食べ物が与えられることは重要なことです。私たちはこれからも、今まで通り、世界の飢餓の問題が改善すること、解決することを願い続けます。また、私達自身のところに、具体的に貧困、飢え、というものがもし何らかのことでやってきた時、もちろん私たちは必死に、具体的に、「パンを与えてください」であるとか、「水をください。もう3日も飲んでません」など、そのような祈りを熱心に、それこそしつように祈っていくでしょう。それとともに、私のことを完全に知っておられ、本当の意味で今の自分に何が必要かわかっておられる聖霊が賜物として与えられることも、たいへん重要なことです。むしろ、私たちが願っている具体的なものが与えられずに、聖霊が与えられた、ということでいいのです。それは、思った通りのものが与えられなかった、という残念な体験ではなく、私の想像を遥かに超えた大きな恵みが与えられた奇跡の瞬間なのです。
神様は、パウロによると、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」(エフェソの信徒への手紙/ 3章 20節)と言われています。主の祈りを祈り、聖霊が与えられる時に、想像以上の恵みが与えられるという希望があります。今週も主の祈りを祈って、私たちにとって必要な聖霊をいただき、神様の良い物に満たされ、この暑い毎日を乗り切ってまいりましょう。
お祈りいたします。
天の神様。
あなたの御国が来ることを、
今朝もともに待ち望んでいます。
あなたの平和の支配が、私たちの世界にありますように。
その世界で、私たちがいつもあなたとその義を第一に求めていくことができますように。
私たちには、救い主イエス様が与えられただけでなく、
その主が教えてくださった、貴重な「主の祈り」が与えられていること、
心から感謝します。
今週もこの主の祈りを祈り、
御国を求め、罪の赦しの恵みを実感し、
あふれるばかりの、私たちの想像を超えた恵みに期待し、感謝して、
この困難多き世界で歩みを続けることができますように。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
【報告】
・全国的にまた感染が増えてきていますので、お気をつけてお過ごしください。
・来週は神学校デーで、有木先生がご来会です
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