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執筆者の写真明裕 橘内

2022年7月17日 聖霊降臨後第六主日

聖書交読  詩編15編 (旧約p845)

司) 1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。

会)2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり

司) 3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。

会)4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。

全)5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。


聖書朗読 ルカ10章38~42節(127)


38:一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

39:彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

40:マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

41:ルカによる福音書/ 10章 41節

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。

42:ルカによる福音書/ 10章 42節

しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


説教 「たいせつなことはひとつ」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


「真実はいつもひとつ」というのが、人気漫画の「名探偵コナン」の決め台詞です。今日の説教の題は「たいせつなことはひとつ」で、真似したわけではないのですが、似ているような気もします。名探偵コナンの方が、どんなに謎が多くても犯人は必ずいるのだとか、なぞは最後には必ず解けるのだとか、そのようなことを指しているとすれば、説教題の方は、イエス様が「必要なことはただ一つだけである」とおっしゃった言葉に基づいています。「たいせつなことはたくさんあるわけではない」ということです。


復習しますと、先週は「善きサマリア人」のたとえを共に読みまして、彼のように隣人に仕える存在に変えていただいているのだ、と大いに御言葉から希望をいただきました。その箇所に続くのが、今日のマリアとマルタのエピソードです。


ちなみに、先に本日の聖書日課の関連についてお話しておきたいと思います。少しだけ、週報にも掲載しております。本日の聖書日課は旧約の箇所が創世記18章からで、イサクの誕生が告げられる箇所です。アブラハムの所に3人の男性が現われました。当時は旅人をもてなすというのが古代中近東の習わしということで、アブラハムとサラは、結構走り回りながらあわただしそうに準備していきます。このあわただしさと本日の福音書の箇所で起こったことは状況が似ているかもしれません。使徒書ですが、本日はコロサイの信徒への手紙1章21節からで、「私たちが聞いた福音の希望」について語られ、じっくり御言葉に聞き入っていたマリアの姿を思い起こします。このように、本日の聖書日課の3つの箇所は関連しております。


では今日も、福音書を中心に見てまいりましょう。イエス様はある村に入られました。ご存じのようにベタニアのことです。マルタとマリアが出てくるエピソードですが、現在この村の名前は彼女たちの兄弟の名前を採って「ラザロの場所」と呼ばれているそうです。マルタとマリアの兄弟のラザロは病のゆえに亡くなりましたが、イエス様が死の病の床から彼を救い出してよみがえらせ、また兄弟との、また村の人々との交わりの中に返してくださいました。彼の復活はそれだけで多くのことを語ったので、のちの人は村の名前の中にラザロの名前を残したのかもしれません。


特徴ある名前をいただいているとその意味を知りたくなりますが、私たちの団体の名前の「ディコンリー」に「奉仕」という意味が含まれています。今日の箇所では、マルタがせわしなく立ち働いていた「もてなし」が、「奉仕」とも訳される言葉です。しかし、マルタのその「奉仕」をしている姿勢ははなはだ疑問で、それをしていない姉妹のマリアに「手伝ってくれるようにおっしゃってください」とイエス様にお願いする始末。本人に直接言ったらいいのではないでしょうか。しばしば「忙しいとは心を亡くすことだ」と言われますが、やや歪んだ「忙しさ」は、単にその人の心のことに影響を及ぼすだけでなく、ごく親しい関係にも影を落とし、そのつながりを分断してしまうのです。


通常であれば強みとなる「近さ」ということですが、悲しくもつながりが断ち切られてしまっているところでは、却ってその近さが「仇」となる。近くにいることで、無視されていたり、避けられていることに気付いてしまう。離れていたら気付かないかもしれないのに。マリアはこのマルタからの軽い悪意に、傷ついたでしょうか。現代、多くの人が「傷ついた」と訴えます。人から傷つけられた。人生に傷つけられた。例えば、同じような環境で育ってきたはずなのに、大学で分かれ分かれになって、そのあと10年ぶりぐらいに再会したら暮らしぶりがだいぶ違っていて、不公平感に思わず「傷ついた」と嘆いてしまう。今ここにいるのに、なぜお姉さんはわたしがいないかのように、「イエス様、あの子に言っておいてください」などと言われないといけないのか。傷つくわ。そのようにマリアは言ったのでしょうか。言ったかもしれませんが、言っていないかもしれません。少なくとも、今日の福音書の箇所では、特に何もマリアの反応については書かrていません。これがもし、何かを伝達しようとしているとすれば、それはマリヤの強さです。敢えてルカは、マリアが何も言わなかったことを強調したのです。御言葉に即した生活を送ってきたマリア。それは彼女の内面を強め、そう簡単にねを上げて「傷ついた」などとは言わないように、彼女に忍耐を与えて沈黙を保てるように変えていてくださったのです。ましてここではイエス様が大切なお話を姉妹のマルタにしているシーンです。マリアはそれを尊重することを選んだのです。


振り返れば、マリアは主であるイエス様の足もとに座って御言葉に聞き入っていましたが、これはラビの教えを親しく聴くときの姿勢だったと言われています。そこまでしてしっかりと真剣にイエス様のお話を聞くには、マリアにはそれが必要であった、という理由があったと思います。イエス様はマリアに、何の話をしていたのでしょうか。例えば山上の垂訓のような、ほかの大勢の人も聴いたらよいようなことを、マリアにだけこっそり優先的にお教えになられたとは考えられません。では何か。それを知る手掛かりは、先ほど少しご紹介した箇所、日課の旧約聖書の箇所である創世記の18章にあるように思うのです。


創世記18章では、アブラハムが3人の人々をもてなすことが書いてありますが、そこで出た話題は、アブラハムの世継ぎ、イサクが生まれる予告でした。実はこの3人は神様で、イサクが生まれることはこれで確かになりました。サラは少し疑ったのですが、それは無理もないこと、それほど強く責められてはいません。このとき疑っても、赤ちゃんが生まれるまではまだ数か月あり、それまでに実感を深めていけばいいのです。というわけで、本日の日課の旧約聖書の箇所は、イサクの誕生の約束の箇所であり、サラからすれば、ある意味での受胎告知でもあったのです。長いこと子を持つことのなかったサラでしたが、女性としての運命が大きく変わった瞬間でした。


このことから類推して、イエス様にはこのマリアにもかなり個人的な、女性としての身の上に大きくかかわるお話をなさっておられたのではないでしょうか。これで、マリアがマルタを「あなたも一緒にイエス様のお話を聞きましょう」と誘わなかった理由がわかります。そうする必要がなかったのです。それは、マリアに対する個人的な話だったからです。だから、忙しくしているマルタにはちょっと気が引けるけど、手伝いよりも、弟子のようにみことばを聞くことを優先させたのです。そして、イエス様はあくまでマリアにお話をなさっていたので、マルタに「あなたは聞いていないではないか」と責めることをなさらなかったのです。そして、マリアにとって今みことばを聞くことが必要なのだ、ということを、イエス様も自信をもって、マルタに伝えることが出来たのです。マルタももてなしをやめて一緒に聞くべきだった、ということでしたら、おそらくそうおっしゃっておられたでしょう。「マルタよ、あなたも聴くべきだった」など、はっきりわかるようにおっしゃったでしょう。でも、イエス様はこの時マリアにそれが必要だった、という言い方をなさいました。それが、「取り上げてはならない」という言い方に結びついています。


マルタにとって、御言葉を聞くよりもおもてなし、これが奉仕、という言葉なのですけれども、それをすることが悪かったのではありません。それをしていてよかったのです。それが、マルタの賜物であり、彼女を生かすひとつのこと、唯一のことだったのです。イエス様はそれを認めておられました。主のお働きの中には、そのような部分を担う人々が必要なのです。マルタのような人も必要なのです。


ですからお分かりのように、問題点は「多くのことに思い悩み、心を乱している」ということでした。この場合のマルタであれば、マリアが思うように動いてくれない、ということをイライラと考えることでした。奉仕に集中していれば、それでよかったのです。イエス様から個人的なことについて話を聞いているマリアを見て、にこにことしながら「あの子はあのようにしているのがいちばん似合っているわね」と言ってそれを喜び、自分は自分で「私の役割は奉仕」と言って、それに打ち込めばよかったのです。ところがマルタに限らず人間は時に、余計なことを考えて集中できなくなってしまう。なんで私だけ、であるとか、いつまで一人で、であるとか、考えてしまうのです。それについてだけ、イエス様は「そうする必要はない」とおっしゃるのです。


ただ、ここで明らかにしておかなければならないのは、このエピソードが善きサマリア人のたとえの後におかれている、ということのわけです。あの善きサマリア人のようになって隣人に仕えるには、マリアのように主の足もとに佇んで、じっくりとその御言葉に聞き入る必要がある、このことはイエス様が伝えておきたかった事なのです。これはすでにこの時みことばを聞いていたマリアだけでなく、マルタも知っておくべきことで、誠心誠意奉仕を続けていくには、マルタの中の限りある資源ではたりない。御言葉によってイエス様につながり、その無尽蔵の愛をいただいてこそ、お仕えできる、という面はあったのではないでしょうか。


ちなみに、突然ですが、このイエス様につながることと罪の赦しについて、最後にお話ししておきたいと思います。マリアは、究極的には「私は罪の赦しのためのわざをする。それを見て自分のことと受け止めたら、あとは主に仕える女性として、多くの人を励ましてもらいたい」と言ったようなことも、最後には聞いたのではないでしょうか。御言葉を聴き、それだけではなくいずれそれを伝えていくことになるであろうマリアも、また忠実に奉仕をしていくマルタも、確実に言えることは、二人とも罪の赦しを必要としている、ということです。では、罪の赦しとは何か。それは、邪魔なものを取り除く、この一言に尽きると思います。罪があると、それがイエス様と人の間を邪魔して、うまくつながりが持てないようにしてしまうのです。マリアが虚心坦懐、しもべとなってみもとでイエス様のお話を伺おう、と思っても、マルタがどう思っているだろうかとか、病気のラザロは今後どうなっていくのだろうかとか、そういったことが気になって御言葉が聞けない。マルタにしたら、私が奉仕する役割を担うのだ、それだけでいいのだ、と思いたいのだけれども、でもなぜか「あの人も奉仕すべきではないか、私は誰かの肩代わりをしてするために生きているのか」など、余計なことを考えてしまう。そういったことがイエス様との良きつながりを邪魔して、素直にストレートにお仕えできないようにしてしまうのです。


その罪が、イエス様の十字架と復活と言った救いの業を自分のこととして受け取っていくときに、赦されていく。取り去られていく。そうすると今度は邪魔するものがなくなったのですから、ストレートにイエス様とつながってある者はみことばを聴き、ある者は奉仕するようになり、そのための愛と勇気と力は、何の邪魔するものもなくイエス様から、養分を吸い出すようにいただくことが出来るのです。このメッセージこそ、パウロがコロサイの信徒への手紙1章21節で、「私たちが聞いた福音の希望」と書いた時の福音であって、マリアがそれをイエス様の足元で福音として聞いて希望をいただいたように、私たちもそれを聞いて希望をいただくのです。


二週にわたって隣人に仕えることに触れてきましたが、その在り方は一様ではありません。みことばを聞くことを通して隣人に仕える人もあれば、奉仕によって仕える人もいます。同じ一人の人が、その場面場面で役割を変えることになるかもしれません。いずれにせよ私たちは御言葉を深く聞いて、自分の在り方を教えられ、何をすべきかを神様からうかがって、そして世に出て隣人に仕えていくのです。御言葉を深く聞くのに聖書を読む事はたいへん有益です。礼拝の場で説教という形で解き明かされる聖書の言葉を重んじることも信仰生活にとって大事です。共に御言葉に深くとどまってまいりましょう。


イエス様。

この朝もみことばをありがとうございます。

罪赦されて、あなたとの間に邪魔をするものもなくなり、よいつながりが与えられていることに感謝します。

みことばにとどまり、それを深く聞いていくことで、ますます隣人に仕えるものへと変えられていきますように。仕える者も教える者も語る者も、それぞれがイエス様につながり、そこから愛と力を受け取って、働きに出て行くことが出来ますように。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン


【報告】

・7月31日は神学校デーで有木先生の説教です。馬渕神学生が証しをなさいます。昼食会があります。神学校を支えるためのいろいろなグッズの物販がありますので、ご協力ください。


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