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執筆者の写真明裕 橘内

2022年7月10日 聖霊降臨後第五主日礼拝


聖書交読 申命記30章9~14節 (旧約p329)

司)9:あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。

会)10:あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。

司)11:わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。

会)12:それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。

司)13:海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。

全)14:御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。


聖書朗読 ルカ10章25~37節(新約p126)

25:すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

26:イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、

27:彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

28:イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

29:しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

30:イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

31:ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

32:同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

33:ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、

34:近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

35:そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

36:さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

37:律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


礼拝説教 「それは今の時代に当てはまりますか」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、


恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


先週私たちは、御言葉から「平和」について聴きました。「平和を願うその気持ち」というテーマで、私たちのささやかな平和を願う気持ちにも、神様は寄り添って下さる、とお話させていただいたのですが、その同じ週に、あのような恐ろしい事件が起こるとは思ってもみませんでした。皆さんご存じのように、先週金曜日、7月8日のことですが、日本の総理大臣経験者が白昼堂々銃で撃たれて亡くなられる、という前代未聞の事件のことです。ここは日本なのか、とまず目を疑いました。その日は意味もなくずっと報道関係の情報を追い続けておりましたが、心の中に広がる漠然とした不安、平和が脅かされている現実がそこにある、という言い知れない恐怖というものを感じたことでした。


そのようなことは一旦脇において、ではなく、それを抱えたままの自分が、今日のみことばに向き合うのです。不安や恐怖を感じている魂に、今日の御言葉は何を語るのか、共に御言葉に向かっていきましょう。


ちなみに今日の聖書日課は、旧約が申命記で、交読文で先ほど一緒に読みました。使徒書がコロサイの信徒への手紙1章からで、最後に少し紹介します。そして福音書が先ほどお読みいただいたルカによる福音書の10章からで、有名な「善きサマリア人」のたとえが含まれている箇所です。旧約と福音書の関係は、福音書にある『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』ということばの土台が申命記に記されている、というところにあります。申命記30章10節に、「あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである」と書かれています。


では、福音書を中心に御言葉に触れてまいりましょう。まずイエス様に対して、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」という質問がありました。それに対してイエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」というように、律法を参照するように指示します。ここで不思議に思います。律法を成就するために来られたとはいえ、神の国の福音による新しい世界を切り開かれたのがイエス様ではなかったか。それなのにここでは律法に聞くように指示しておられる。続いて、律法に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と書いてある、という答えに対して、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と命じておられます。これが、先ほど触れましたように、日課の旧約の箇所である申命記30章に基づくやりとりということになります。


いつの時代にあっても、福音に生きる信仰者は、この「実行しなさい、そうすれば~」という教えが、自分たちの時代にも当てはまるかについて一度は考えます。何の働きもない者でも、イエス様を信じる信仰によって救われる、という福音の教えと、どこか矛盾しているように思ってしまうからです。しかも、イエス様が律法を参照するようにおっしゃるとは。この「実行しなさい」という御言葉は、この時にだけ当てはまるもので、今の福音に生きる私たちには関係がないのだ、と思わず結論付けたくなります。


しかし、パウロが信仰義認について盛んに書いたには主に50年代と考えられていて、ルカによる福音書はそのあと、70年代に書かれた、とも言われます。パウロの考え方が最終的な教会の見解だ、ということなら、それにのっとって、このような実行することを強調するように読めてしまうことを書き残すでしょうか。そうすると、揺り戻しではないですけれども、改めて行いの重要性を説こうとしているのでしょうか。


もちろんここで、イエス様に質問した人々が律法の専門家であり、しかも「イエスを試そうとして言った」とありますから、そのあたりを見抜いて、イエス様は敢えて、律法による行い中心の信仰であるかのように答えた、ということも十分考えられます。


しかし、有名な「善いサマリア人のたとえ」とも呼ばれる部分では、律法による行いか、それとも行いによらぬ信仰か、という議論を越えた、美しい愛のわざが見られるようにも思います。ここでは神様に罪を覆っていただいた人が、自由な愛の心で、誰にも強制されずに行う良いわざとして紹介されている、と受け取ることも出来ます。ここで愛のわざを見せるサマリア人は、自分にこだわっていません。自分がサマリア人であるということは、ユダヤ人と対立しなければならない、とも考えませんし、このように親切にふるまって、やりすぎだと思われないか、ということにも執着していません。


このたとえの最後にもまた、「行って、あなたも同じようにしなさい。」という、実行を促すイエス様のことばが見られます。恐らくこのエピソードを聞いて、イエス様を試そうとして質問してきた律法の専門家はそれ以上何も言えずにすごすごと退いたと思います。かと言って、イエス様が単に悪意ある人を黙らせるためにだけ、この尊いたとえを話されたとも思えないのです。世界には災害復興援助を含め、多くの「善きサマリア人」の名前を持つ団体があります。それは、このたとえの内容に感動しているからです。そして、その精神に生きよう、と思っているわけです。もっと言うなら、「行って、あなたも同じようにしなさい。」というイエス様の言葉を、私に語られた、と思っているわけです。そうすると、このみことばは当時の人にだけ関係する、私たちには当てはまらない、私たちは行いより信仰を優先させるのだ、とも一概に言えないことになります。


そこで、使徒書であるコロサイの信徒への手紙1章を開いてみたいと思います。私たちは、「贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ1章14節)と言われています。ですから、赦された者として、新しい愛の歩みを始めるのです。勿論それは、御言葉に基づく新しい歩みです。そのみことばに関しては、日課の旧約の箇所の申命記にこうあります。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記30章14節)。驚くべきことに、御言葉を行うことが出来る、と言われているのです。ここで急に不安になります。御言葉を行うことが出来ない自分だからこそ、イエス様のみとに来たのではなかったか、ということです。確かにそうです。私たちは『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』と言われた時点で、そこまでできません、と言わざるを得ない存在だったのです。


しかしもう一つ確かなことは、そのように御言葉に向き合ったときに、私たちは確かに、イエス様によってイエス様によって贖い、すなわち罪の赦しを得たのです。そうしたらもう、昔のようではありません。新しい存在として、あくまでもイエス様の力によって、御言葉を行う者にしていただき、「行って同じようにしなさい」とのイエス様の言葉に、胸を張って「はい、イエス様の力によって」とお応えして、世に出て行く存在に変えていただいたのです。一瞬にして社会を不安に陥れるようなことが起こりうる時代です。終わりの時代となり、イエス様のおっしゃるとおり、多くの人の愛が冷えていく時代です(マタイ24章12節)。だからこそ、イエス様の愛を携えて世に出て行く人々が必要なのです。幸いにも私たちはそれが出来る存在に変えていただいています。それが私たちの希望です。その希望を伝えていきましょう。感謝しつつ、イエス様の愛を、この世界で広めてまいりましょう。


お祈りします。

天におられる父なる神様、

御言葉を通して語りかけられるあなたの御名を賛美します。

今朝も私たちに御言葉をありがとうございます。

一瞬にして世界が暗闇に閉ざされるような社会です。

何が起こるかわからない、という不安とともに、

私たちは生きております。

そのような中で、イエス様のみ前に出た私たちを、

イエス様の十字架によって贖い、

私たちの罪を赦して、

イエス様の愛に根差す、

新しい存在にしてくださったこと、

心より感謝します。

私たちが世に出て行って、

善きサマリア人のように、

社会にインパクトを与える存在になれるように、

すでに私たちのうちに働きかけていて下さると信じます。

その希望を胸に、この世界に出て行くことが出来ますように。

イエス様の愛の広がりを体験できますように、

導いてください。

そのようなイエス様の愛の流れを阻害するような困難や、

内なる悩み事があったら、

主ご自身が解決を見せてくださいますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


【報告】

先週は聖餐式があり、礼拝後は昼食会、そして久しぶりに部会がありました。夏期献金の季節に入っています。


日本に、世界に平和がありますように。


また感染者が増えてきています。ワクチンの4回目の接種も徐々に始まっているようです。皆様が感染から守られますように

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