【聖書交読】 詩編16編 (旧約p845)
司)1:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
会)2:主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
司)3:この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
会)4:「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
司)5:主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
会)6:測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
司)7:わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
会)8:わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
司)9:わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
会)10:あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
全)11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
【聖書朗読】 ルカ9章51~56節(新約p124)
51:イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
52:そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
53:しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
54:弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
55:イエスは振り向いて二人を戒められた。
56:そして、一行は別の村に行った。
説教 「弟子であること」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
教会の暦も聖霊降臨後の緑の季節に入り、信仰の成長を図る時となりました。私たちがイエス様の弟子となっていくことは、信仰の成長において実に重要なことであり、その弟子の姿をいずれの意味でも聖書の言葉を通して見ることが出来るのは幸いなことです。
いずれの意味でも、と言いますのは、今日の弟子の姿はやや反面教師的であるからです。登場するのはヤコブとヨハネです。
天に上げられる時期、すなわち十字架から昇天、天に帰られるまでの一連の救いの出来事を前に、決然とエルサレムに向かわれるイエス様。しかし、その途上にはサマリア人の村がありました。
歴史的経緯からユダヤ人と敵対するサマリア人。その背景には、かつてイスラエルが北と南の両国に分かれていた頃のことが関係しています。二つの国の命運は分かれ、北王国イスラエルは紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされてしまいます。その際アッシリアはこのサマリアを含むイスラエルへの入植を進め、当地の人々の血を薄めようとしたのです。結託してアッシリアに反逆を起こさないように、という政策だったのですが、それが、ユダヤ人には気に入りませんでした。この場合のユダヤ人は南王国出身の人、ということになります。こちら南王国は紀元前586年まで存続するのですが、その頃の古代中近東の覇者、バビロンに滅ぼされます。バビロンは、ユダヤの主だった人々をそのままバビロンに捕え移しました。そのため、それだけでは他民族との混血は起こりにくかったと考えられます。ユダヤ人には純血主義的な思想が生まれ、入植民との混血によって純粋性を失ってしまったイスラエルを何かと批判するようになったのです。それに対してサマリア人は反発する。お互い敵であるかのように憎悪し合ってきたサマリア人とユダヤ人。またさらにそこに、「本当の礼拝の場所はどこか。エルサレムなのかどうなのか」といった論争まで加わるようになり、複雑な関係だったのです。
案の定、イエス様はそこで歓迎されませんでした。すると、この弟子二人は何と、「天から火を降らせてこのような人々は焼き滅ぼしてしまいましょう」といったような恐ろしいことを言い出すのです。イエス様を思うあまりの言葉であろうとは思いますが、さすがにこれは行き過ぎていて、「イエスは振り向いて二人を戒められた」(55節)とあります。
この場面には、旧約聖書の列王記下の1章にあるエリヤのエピソードが反映されていると言われます。エリヤが、主なる神様に敵対する王の勢力を天からの火で焼き尽くした、という故事のことです。またこれも何とも強烈なエピソードですが、主なる神様がその時、そのようなことを必要とされた、そのようなことが起きないと守られない人がいた、と理解しておきたいと思います。そのような、エリヤの時代の、時間限定、場所限定で起こったことを、いつでも再現可能なことである、と認識して、ヤコブとヨハネの兄弟はそのことを起こしましょう、と言ったことにもなります。
そうなると、ここでのこの二人の弟子の誤りは、ある特殊なケースにしか当てはめることのできない神様のお働きを、ほかのケースにも当てはめることが出来る、と勘違いしたことであり、また、神様にしかできない火を降らす、という奇跡的なみわざを、限界ある人間に過ぎない自分たちにも出来ること、と思い込んでいたこと、ということになるでしょう。この辺りはさすがに、弟子の姿とは言っても学ぶわけにはいきません。
細かく見てみると、すでに同じルカの6章から「使徒」という呼び名もあったのに、この箇所ではヤコブとヨハネの二人とも「弟子」と呼ばれているのには意味があるのでしょう。使徒のしたこととはとても言えないことだったからかもしれません。
しかし、ではこの弟子二人は反面教師であるだけなのか、と言うと、いくつか重要な点もあります。そのあたりのことを最後に一緒に吟味していきましょう。
第一に、この弟子二人、ヤコブとヨハネが、イエス様のすぐ近くにいたこと、これは指摘しておきたいと思います。だからこそ、何が起きているのかがわかり、それに対処しようとしたのでした。弟子とは名ばかり、イエス様から離れたところにいた、ということではこうはいきません。この関連で、一つ興味深いことがあります。どのぐらいの距離があったかはわかりませんが、前もってサマリア人の村に人を送るイエス様ですが、この時は「先に使いの者を出された」と言われていて、弟子たちではない可能性があるのです。むしろ弟子たちはイエス様と共にいて、イエス様と一緒に先遣隊のあとから村に入り、サマリア人たちの反応をイエス様と同時に知った、イエス様と同じ体験をしている、ということなのです。弟子であること、それは単に尊敬する師匠の門下にいる、ということだけでなく、師匠、先生のそばにおり、先生と同じ体験を共有している、ということを含むのです。
先週、恒例の音楽発表会が父の日に帰ってきました。音楽のレッスンでも、何が私たちを成長させるかというと、先生と一緒に場所と時間を共通する音楽体験、これだと思います。先生がすぐそばにいてその演奏を間近で見ることが出来、その指導で「できない」が「できる」に変わる体験をし、時には一緒に演奏していただいて、音楽の喜びを体験させていただく。コロナ禍において、対面でのレッスンが難しく、オンラインでのレッスンを余儀なくされたとか、様々なことを経験しましたが、どのような手法であれ、先生がおられるおかげで、習う者は恩恵を得ているのです。
第二に、行き過ぎていたにしても、弟子たちにはイエス様を思う熱い気持ちがあったこと、これは受け取っておきたいものです。イエス様を尊敬するあまり、イエス様が間違った扱いを受けることに耐えられなかったのです。今私たちがここまでイエス様に対して熱い気持ちになることがあるでしょうか。イエス様が世に歓迎されていないことを、どれだけ耐え難いことだと受け止めているでしょうか。
今まだウクライナでは戦争が続いています。「キリストは私たちの平和」とエフェソ書で言われているのに、現実はこのようで、それを見て私たちは「現実はそう簡単にはいかないよね」と終らせていいのでしょうか。そこで平和そのものであるイエス様がないがしろにされているのです。キリスト教はわかりにくい、と言われるとき。周りの顔色を見て、一緒になって「そうですよね」と言うのか。ローマ書の5章8節でパウロが高らかに「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と感動をもって宣言した時、それは神の愛が「展示された」といった意味合いでした。誰の目にも見えるように展示された、ということです。わかる、わからないを越えて、見てわかるぐらいにしてくださった、ということなのです。そのみことばを前にしてもなお私たちは、この世と調子を合わせて、キリスト教は難しい、と言うのか。
弟子であること。それには、何をしているか、何が出来ているか、ということよりは、どれだけイエス様のことを思っているか、ということが関係している、と言えるでしょう。そのような思いは、イエス様と時を共有していることで育まれていきます。御言葉に触れて、イエス様への思いを深めていただきましょう。賛美する中で心触れられ、イエス様への熱い思いを湧き立たせていただきましょう。イエス様は、弟子として歩んだことを後悔させるようなことは決してありません。希望が失望に終わることは決してないからです。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神様。
私たちの主、イエス様を地上に送って下さり、
ありがとうございます。
そのことで、私たちがイエス様を主として、
弟子としての歩みが出来ますことを感謝します。
これからも弟子として、
イエス様の近くにいて、
イエス様への熱い思いを内に抱きながら、
過ごしていけますように。
そのような思いは自然には出てまいりません。
御言葉と、そのみことばを通して働かれる聖霊によって、
イエス様への思いは与えられ、強められます。
どうかみことばから離れずに歩ませてください。
日々の困難も、御言葉からの助けによって乗り切ることが出来ますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・先週父の日に音楽発表会が無事開催されました。地域の方も聴きに来られ、つながりづくりのための良い集会となったように思います。ご参加ありがとうございました。
・来週7月1週目も昼食会があります。2022年6月26日 聖霊降臨後第三主日礼拝
【聖書交読】 詩編16編 (旧約p845)
司)1:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
会)2:主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
司)3:この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
会)4:「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
司)5:主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
会)6:測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
司)7:わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
会)8:わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
司)9:わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
会)10:あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
全)11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
【聖書朗読】 ルカ9章51~56節(新約p124)
51:イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
52:そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
53:しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
54:弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
55:イエスは振り向いて二人を戒められた。
56:そして、一行は別の村に行った。
説教 「弟子であること」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
教会の暦も聖霊降臨後の緑の季節に入り、信仰の成長を図る時となりました。私たちがイエス様の弟子となっていくことは、信仰の成長において実に重要なことであり、その弟子の姿をいずれの意味でも聖書の言葉を通して見ることが出来るのは幸いなことです。
いずれの意味でも、と言いますのは、今日の弟子の姿はやや反面教師的であるからです。登場するのはヤコブとヨハネです。
天に上げられる時期、すなわち十字架から昇天、天に帰られるまでの一連の救いの出来事を前に、決然とエルサレムに向かわれるイエス様。しかし、その途上にはサマリア人の村がありました。
歴史的経緯からユダヤ人と敵対するサマリア人。その背景には、かつてイスラエルが北と南の両国に分かれていた頃のことが関係しています。二つの国の命運は分かれ、北王国イスラエルは紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされてしまいます。その際アッシリアはこのサマリアを含むイスラエルへの入植を進め、当地の人々の血を薄めようとしたのです。結託してアッシリアに反逆を起こさないように、という政策だったのですが、それが、ユダヤ人には気に入りませんでした。この場合のユダヤ人は南王国出身の人、ということになります。こちら南王国は紀元前586年まで存続するのですが、その頃の古代中近東の覇者、バビロンに滅ぼされます。バビロンは、ユダヤの主だった人々をそのままバビロンに捕え移しました。そのため、それだけでは他民族との混血は起こりにくかったと考えられます。ユダヤ人には純血主義的な思想が生まれ、入植民との混血によって純粋性を失ってしまったイスラエルを何かと批判するようになったのです。それに対してサマリア人は反発する。お互い敵であるかのように憎悪し合ってきたサマリア人とユダヤ人。またさらにそこに、「本当の礼拝の場所はどこか。エルサレムなのかどうなのか」といった論争まで加わるようになり、複雑な関係だったのです。
案の定、イエス様はそこで歓迎されませんでした。すると、この弟子二人は何と、「天から火を降らせてこのような人々は焼き滅ぼしてしまいましょう」といったような恐ろしいことを言い出すのです。イエス様を思うあまりの言葉であろうとは思いますが、さすがにこれは行き過ぎていて、「イエスは振り向いて二人を戒められた」(55節)とあります。
この場面には、旧約聖書の列王記下の1章にあるエリヤのエピソードが反映されていると言われます。エリヤが、主なる神様に敵対する王の勢力を天からの火で焼き尽くした、という故事のことです。またこれも何とも強烈なエピソードですが、主なる神様がその時、そのようなことを必要とされた、そのようなことが起きないと守られない人がいた、と理解しておきたいと思います。そのような、エリヤの時代の、時間限定、場所限定で起こったことを、いつでも再現可能なことである、と認識して、ヤコブとヨハネの兄弟はそのことを起こしましょう、と言ったことにもなります。
そうなると、ここでのこの二人の弟子の誤りは、ある特殊なケースにしか当てはめることのできない神様のお働きを、ほかのケースにも当てはめることが出来る、と勘違いしたことであり、また、神様にしかできない火を降らす、という奇跡的なみわざを、限界ある人間に過ぎない自分たちにも出来ること、と思い込んでいたこと、ということになるでしょう。この辺りはさすがに、弟子の姿とは言っても学ぶわけにはいきません。
細かく見てみると、すでに同じルカの6章から「使徒」という呼び名もあったのに、この箇所ではヤコブとヨハネの二人とも「弟子」と呼ばれているのには意味があるのでしょう。使徒のしたこととはとても言えないことだったからかもしれません。
しかし、ではこの弟子二人は反面教師であるだけなのか、と言うと、いくつか重要な点もあります。そのあたりのことを最後に一緒に吟味していきましょう。
第一に、この弟子二人、ヤコブとヨハネが、イエス様のすぐ近くにいたこと、これは指摘しておきたいと思います。だからこそ、何が起きているのかがわかり、それに対処しようとしたのでした。弟子とは名ばかり、イエス様から離れたところにいた、ということではこうはいきません。この関連で、一つ興味深いことがあります。どのぐらいの距離があったかはわかりませんが、前もってサマリア人の村に人を送るイエス様ですが、この時は「先に使いの者を出された」と言われていて、弟子たちではない可能性があるのです。むしろ弟子たちはイエス様と共にいて、イエス様と一緒に先遣隊のあとから村に入り、サマリア人たちの反応をイエス様と同時に知った、イエス様と同じ体験をしている、ということなのです。弟子であること、それは単に尊敬する師匠の門下にいる、ということだけでなく、師匠、先生のそばにおり、先生と同じ体験を共有している、ということを含むのです。
先週、恒例の音楽発表会が父の日に帰ってきました。音楽のレッスンでも、何が私たちを成長させるかというと、先生と一緒に場所と時間を共通する音楽体験、これだと思います。先生がすぐそばにいてその演奏を間近で見ることが出来、その指導で「できない」が「できる」に変わる体験をし、時には一緒に演奏していただいて、音楽の喜びを体験させていただく。コロナ禍において、対面でのレッスンが難しく、オンラインでのレッスンを余儀なくされたとか、様々なことを経験しましたが、どのような手法であれ、先生がおられるおかげで、習う者は恩恵を得ているのです。
第二に、行き過ぎていたにしても、弟子たちにはイエス様を思う熱い気持ちがあったこと、これは受け取っておきたいものです。イエス様を尊敬するあまり、イエス様が間違った扱いを受けることに耐えられなかったのです。今私たちがここまでイエス様に対して熱い気持ちになることがあるでしょうか。イエス様が世に歓迎されていないことを、どれだけ耐え難いことだと受け止めているでしょうか。
今まだウクライナでは戦争が続いています。「キリストは私たちの平和」とエフェソ書で言われているのに、現実はこのようで、それを見て私たちは「現実はそう簡単にはいかないよね」と終らせていいのでしょうか。そこで平和そのものであるイエス様がないがしろにされているのです。キリスト教はわかりにくい、と言われるとき。周りの顔色を見て、一緒になって「そうですよね」と言うのか。ローマ書の5章8節でパウロが高らかに「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と感動をもって宣言した時、それは神の愛が「展示された」といった意味合いでした。誰の目にも見えるように展示された、ということです。わかる、わからないを越えて、見てわかるぐらいにしてくださった、ということなのです。そのみことばを前にしてもなお私たちは、この世と調子を合わせて、キリスト教は難しい、と言うのか。
弟子であること。それには、何をしているか、何が出来ているか、ということよりは、どれだけイエス様のことを思っているか、ということが関係している、と言えるでしょう。そのような思いは、イエス様と時を共有していることで育まれていきます。御言葉に触れて、イエス様への思いを深めていただきましょう。賛美する中で心触れられ、イエス様への熱い思いを湧き立たせていただきましょう。イエス様は、弟子として歩んだことを後悔させるようなことは決してありません。希望が失望に終わることは決してないからです。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神様。
私たちの主、イエス様を地上に送って下さり、
ありがとうございます。
そのことで、私たちがイエス様を主として、
弟子としての歩みが出来ますことを感謝します。
これからも弟子として、
イエス様の近くにいて、
イエス様への熱い思いを内に抱きながら、
過ごしていけますように。
そのような思いは自然には出てまいりません。
御言葉と、そのみことばを通して働かれる聖霊によって、
イエス様への思いは与えられ、強められます。
どうかみことばから離れずに歩ませてください。
日々の困難も、御言葉からの助けによって乗り切ることが出来ますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・先週父の日に音楽発表会が無事開催されました。地域の方も聴きに来られ、つながりづくりのための良い集会となったように思います。ご参加ありがとうございました。
・来週7月1週目も昼食会があります。
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