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執筆者の写真明裕 橘内

2022年6月12日 三位一体主日礼拝

 【交読文】ローマ5章1~5節 (新約p279)

司)1:このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

会)2:このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

司)3:そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、

会)4:忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

全)5:希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。


【聖書朗読】ヨハネ16章12~15節(新約p200)

12:言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。

13:しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。

14:その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

15:父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」


【礼拝説教】「真理の霊によって全てが変わる」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


最近は、「悪口はなぜ悪いのか」ということも、学問の世界で取り上げられているようです。カトリックの大学である南山大学の准教授、和泉先生は、ご自身の『悪い言語学入門』という著書の中で、その「悪いということ」のメカニズムを丁寧に解き明かしているとのこと。確かに今、うそやデマ、ヘイトスピーチなどが世の中を席巻し、戦争や痛ましい事故、病気のような、悪いと言うよりはマイナスの影響力を持つ言葉が巷に溢れているとも言える中で、ちょっとした言葉で「つながり」が途絶える、といったことがあったら、もったいないですね。


私たちの神様と救い主イエス様との関係は、そのようなことではびくともしないほどしっかりとしたつながりのはずです。先週聖霊降臨祭、ペンテコステにおいて、聖霊が信じる者ひとりひとりに来て下さったことをともに祝いました。ここにめでたく三位一体の神様の姿が明らかにされましたので、それを記念して今日、三位一体主日として、讃美歌も「三位一体」というジャンルの所から選び、お祝いをしているところです。


さて、この「三位一体」という教えは、2世紀の有名な神学者であるテルトゥリアヌスが打ち出した考え方ですが、根拠はもちろん聖書に記されております。今日の聖書の箇所などはその典型的な例であるとも言えるでしょう。真理の霊が来て人々を真理へと招き、イエス様はこの方、真理の霊によって栄光を受ける。そしてイエス様は父なる神様の持っておられるものすべてを「わたしのもの」と主張できる。このようにまとめることのできる今日の聖書箇所には、確かに三者と思われる存在が見られます。


この難しい三位一体の教えに関して、4世紀から5世紀にかけての神学者、アウグスティヌスは、「愛する者としての父なる神、愛される者である子なるキリスト、その両者を行き交う愛そのものとしての聖霊」という、愛を中心に据えた理解の仕方をしていました。そうすると、これは実質的に、三者のことではなく、父と御子の二者の関係を指すことになります。


人間関係においても、信頼に基づく関係において、例えば仕事を発注する側とされる側、そしてその2者を結ぶ信頼、という形でも説明できる構図です。本日の聖書箇所でも、イエス様が弟子たちに教えているのは、イエス様と父なる神様の愛に基づく堅固なつながりであり、それはどんな否定的な、悪意に満ちたマイナスな言葉が語られようと、そのつながりが断たれるようなことはなく、真理の霊はその関係性、しっかりとしたつながり、というところに光を投じ、両者を栄光ある存在として際立たせる働きをしていると受け取ることもできます。三位一体と言いつつも、大事なのは父なる神と御子の二者なのです。


旧約を読んでいると、この実際は二者プラス1という三位一体理解のためのモデルケースが多いように思います。そのほんの一例ですが、神と王、これで二者、そして、その間にある愛・信頼、これでプラス1、こういったケースなどを挙げることが出来ます。具体的な箇所を提示するのは省きますが、神様とダビデ王の親しい関係、これは、長年の敵であるペリシテ人と戦うべきか否か、ダビデが神様に何度もお伺いを立てている様子からもよくわかります。そして両者の間をつなぐ愛と信頼、といった感じです。


誤解のないよう申し上げておきますが、決して三位一体を否定しているのではありません。より理解しやすいように、と願い、三位一体を整理してお伝えしているのです。例えば、この「父と御子と聖霊」という三位一体を、この順番ではなくて、御子イエス様からスタートさせて「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の親しき交わりが・・・」と分かりやすく表現したパウロも、同じことをしている、とも言えるでしょう。これはコリントの信徒への手紙二の13章13節のみことばで、毎週の祝祷に採用されています。彼にとっては、その「父、子、聖霊」という順番よりも、その三者がおられること自体への感謝、そして何よりも、自分の命を投げ出して下さったイエス様への感動と献身、こういったことのほうが、大きく上回っていたのです。それぞれの役割に基づいた三位一体理解、と言うことも出来るかもしれません。


そもそも、この「父、御子、聖霊」の三者について、物事を理論的に整理しようとする傾向がある西洋世界で、それぞれ均等に、均質に存在なさる、ということで「三位一体」と言われるようになったのではないか、と考えたりもします。しかし聖書の文化は西洋とは異なり、むしろ大きく言えば東洋です。そこには不均衡あり、多少のバランスの悪さもあったのではないでしょうか。すなわち、均等に3分の1的に3者=三位というより、2者+1的なイメージが強かったのではないか、と思うのです。均等、あるいは均質と思うから、聖霊理解、ひいては三位一体理解が難しくなるのです。何も最初から均等とは言われていない。比較的リアルな存在者としての二者、すなわち「父と子」、そして場合によっては神様の大いなる力と同じように受け止められる場合すらある一者、すなわち聖霊、この箇所では「真理の霊」、という構図です。これは、「数よりも、また質よりも重要なものがそこにある」ということです。3という数に拘らなくても、また、均質、あるいは等質、というところに神様を無理にあてはめなくても、そのままでこの三者の力は発揮されているのです。


むしろ大事なのは、この三者の持つ「つながり」の方です。「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」とイエス様が堂々と言えるぐらいの関係だった、ということです。


ちなみに、この三位一体と言いますか、この三者については、創世記の初めから、そのイメージが描かれています。創世記の冒頭に、創造なさる神、創造の時の「光あれ」などのことばとしての御子、そして地上を動く神の霊が登場します。創世記1章、2節と3節は以下の通りです。お読みしますのでお聞きください。


地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記1章2~3節)

この中で、実質的に現実感があるのは何と言っても天地創造の神様、そしてもし言うとすれば、その言葉としての御子の二者である、と言うことも出来ます。水の上を動く神の霊は捉えにくいのです。認識しにくいのです。しかし、このところを丹念に読んでみると、順番で言うならば先に登場するのは神の霊の方なのです。


この現象は、本日の聖書の箇所における真理の霊のケースも同じなので興味深いところです。この箇所でも、現実感があるのは堅固なつながりを持つ父と御子の二者と言わざるを得ません。繰り返しになりますが、イエス様は「父のものはわたしのもの」とまでおっしゃったのです。しかし、また順番で言うと、「真理の霊が来ると」という御言葉に始まって、まず「真理の霊」について先に述べられているのです。そしてそのことを語られる御子、最後に父、という順番になっています。


ここで大事なのは、三位一体のイメージが語られるとき、霊ということで捉えにくいところがあったとしても、聖書はまず神の霊、あるいは真理の霊について触れている、ということです。その点では、神の霊、あるいは真理の霊がこの2ケースとも新たな世界を切り開いている、と言っても過言ではないでしょう。まさに「真理の霊によってすべてが変わる」ということです。


本日の交読文を振り返ってみますと、そこにも実は三位一体のイメージが込められていました。その前に一言付け加えますと、神との平和、そして神の愛がこの私の心に注がれているということ、どれをとっても、「眠れない晩にこそ読みたい慰めがそこにある」と言えそうです。


さて、ここに記されている三位一体像はどのようなものでしょうか。私たちは、主イエス・キリストによって神との間に平和を得た、とパウロは言います。ここに、三位一体のうち、基本の二者が現われます。そして、プラス1としての、神の愛を心に注ぐ聖霊が登場します。この方が神様の愛を私たちの心に注いでくださるからこそ、私たちは変えられ、新しい歩みを始めることが出来るのです。


今日はこのように、三位一体主日に合わせ、三位一体についてその恵みを味わってきました。

真理の霊である聖霊は謙遜なので、その存在をご自分から強く主張なさいません。それが理解の難しさにもつながるのですが、大事なのは、父なる神様と御子イエス様に目を留めることです。その点では、三位一体と言うより、父と御子の二者と聖霊、と表現したほうが近いかもしれません。しかし、聖霊は神の霊、また真理の霊として、重要な位置におられるのも確かなのです。天地創造において、また本日の聖書箇所のイエス様の言葉の中で、真理の霊である聖霊は常に先立って新しい地平を開き、それによって全てを変えて来られました。すべて理解できなくても、三位一体の姿であられる神様のその「ありよう」に感謝し、この神様により頼んでまいりましょう。


お祈りします。

父、子、聖霊の偉大なる神様。

あなたは私たちに恵みを与え、

まことの信仰をもって、

栄光ある三位一体の神様をあがめることができるようにしてくださいました。

いつも真理の霊が新しい世界を切り開き、

すべてを変え、

すべてを新しくしてくださいますことを感謝します。

私たちがどんなに苦境に立たされているときでも、困難の中にあっても、この真理の霊である聖霊によって、神様の愛が私たちの心に注がれていること、

ありがとうございます。

神様が三位一体であられることは、

私たちには理解が難しいことですが、

父なる神様とイエス様との間にしっかりとしたつながりがあり、

この両者の間を行き交いながら、

真理の霊が私たちに働き、

全ての真理を悟るようにしてくださることに信頼して、力強く歩めますように。

どうかこの信仰に堅く立って生き、

すべての災いに打ち勝つことができますように、

父と聖霊とともに一体であって代々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン


【報告】

・来週は父の日です。恒例の音楽発表会が、ついに父の日に帰ってきます。その日は、礼拝後久しぶりに昼食会をして、必要な参加者のリハーサルを行い、1時から発表会を始めます。

・来週午後3時半から神戸ルーテル神学校で卒業式があり、私たちの教団では、Y.N神学生が卒業なさいます。おめでとうございます。

・あまりにも長引くウクライナ情勢。「地には平和」のみことばが実現しますように。

・皆様が感染から守られ、平安の内をあゆまれますように


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