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執筆者の写真明裕 橘内

2022年5月29日 主の昇天主日

交読  詩編93編 (旧約p931)

司)1:主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。

会)2:御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。

司)3:主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。

会)4:大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。

全) 5:主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。


聖書朗読 ルカ24章44~53節(新約p161)

44:イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

45:そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

46:言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

47:また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

48:あなたがたはこれらのことの証人となる。

49:わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

50:イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。

51:そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

52:彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、

53:絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



礼拝説教 「寂しくはない」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


帰るところがあるというのはありがたいことです。ですが、今ウクライナとロシアの間で行われてしまっていることは、多くの「帰るところのない」人々を生み出してきています。


「帰る」と言えば、今日開いた福音書の箇所では、イエス様が天に昇って行かれた様子が描かれています。今日はこの箇所を、主が天に帰られた出来事と理解して、お話を続けていきたいと思います。


イエス様は、天にお帰りになる前に、弟子たちに大事なメッセージを残されました。このようなことばです。


「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

45:そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

46:言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

47:また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。(44~47節)


少しまとめてみますと、今で言う旧約聖書にはすでにイエス様について書かれていて、それは必ず実現すること、イエス様の十字架と復活に基づく罪の赦しを得させる悔い改めがこれから全世界に広がっていくこと、こういったことが書いてある、ということです。


ただ、あくまでこれらはイエス様が「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」(45節)下さったからこそ弟子たちに伝わっていったことでした。そうでなかったら、そのことばの真意を理解できなかったかもしれません。それでなくても、弟子たちはじめイエス様当時の人々は、十字架前のイエス様の言葉、そして十字架の後の、すなわち復活なさってからのイエス様の言葉に至るまで、しばしば理解出来ずに誤解しておりました。十字架前の言葉の誤解で言えば、苦難の予告をしても、こともあろうに「誰がいちばん偉いか」と議論するような有様でした(ルカ18章)。復活後のことで言うと、弟子たちのこれから、ということについて、好奇心からヨハネのことについて尋ねるペトロに、イエス様が「わたしの来る時まで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに間の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」とおっしゃっただけのことから、「この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった」(ヨハネ21章23節)というところまで誤解が発展してしまっています。


しかしここでわかることは、私たちが聖書のメッセージを正しく、十分に受け取るために、イエス様は私たちの心の目を開いてくださる、ということです。そのことに期待し、信頼したいと思います。


これらの大事なメッセージの後、イエス様は弟子たちを祝福しながら天に帰って行かれました。イエス様のお体が実際に上空へ向かって昇って行ったのか、「彼らを離れ、天に上げられた」(50節)としか記されていないので、はっきりとしたことはわかりません。このとき、最初弟子たちは、目の前で何が起こっているか理解できなかったかもしれません。イエス様も、天に上って行かれる理由をはっきりとお話にはなっておられません。


ですけれども、その後の弟子たちの様子から、この出来事を彼らがどう受け取ったかは想像できます。まず第一に、彼らは、イエス様にひれ伏して、礼拝しました。更に、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と言われています。


これらのことから、何がわかるでしょうか。第一に、弟子たちには、イエス様が神のご性質を持つ、ひれ伏すべき存在だということがわかったのです。イエス様は神様の前に正しい方であり、だからこそ、天に帰るようにされた。そして、その後自分の正しさを、私たちに与えて下さる方だ。そのことがわかって、第二に、彼らは感謝と喜びに包まれて賛美をしていたのです。だから、本来ならせっかくよみがえって下さったイエス様を手放したくない、と思ってもおかしくないところ、言ってみればイエス様を喜んでお見送りしているわけです。決して彼らは寂しくなかった。イエス様と離れても、祝福し続けて下さることを信じて、喜びの生活を送ったのです。


イエス様の昇天を目にした弟子たちの信仰の姿が「喜びと賛美」であったことはいくら強調してもしきれないでしょう。私たちフェローシップ・ディコンリー、「交わりと奉仕」の伝統に立つ者たちもまた、当初からこの「喜びと感謝」を、ある意味で「信仰のバロメーター」のように受け止めて、信仰の歩みの中でとても大事なこととして伝えてきたようです。


弟子たちが絶えず神殿の境内にいた、ということも、興味深いことです。新しい時代の幕開けを告げ、古い律法を成就し、御国の福音を語られたイエス様は、ヨハネの福音書において祭儀を重要視する方でしたし、ご自身神殿に身を置くこともありました。先日礼拝で取り上げたヨハネの福音書においては、10章に、私たちは神殿の境内でソロモンの回廊を歩くイエス様の姿を発見します。それでも、どうしてもイメージとしては、神殿を大事にするファリサイ派や律法学者と対決するイエス様、というものがあって、イエス様を信じる道と神殿はどこか相いれないものがあるように思ってしまう面もあると思うのです。そのような中で、イエス様を言ってみればお見送りした弟子たちは、喜びの延長線上にエルサレムに戻ってきて、ごく自然に神殿に向かい、その境内に留まっています。イエス様を信じる道の人々の中で急進的な人々は、そのような姿に辟易したかもしれません。そんなことをしているから、いつまでもキリスト教はユダヤ教から独立しきれないのだ。私たちまでユダヤ教的だと誤解されてしまうではないか。そんな声が一度ならず二度、三度とささやかれたかもしれません。


しかし、そのようなことは弟子たちにとって大きな問題ではありませんでした。どう言われようと、どう誤解されようと、イエス様の父なる神様の住まいとも目される神殿に身を置くことは、祝福の基である、ぐらいの割り切りがあったのではないでしょうか。イエス様はある意味でこの父なる神様に呼び戻されたて天へと帰られたわけですから、その神殿に身を置けば、天に帰られたイエス様にもどこかでつながることが出来る、そのような思いもあったかもしれません。


この「つながり」ということも、イエス様の昇天を語る上で、重要なキーワードです。それは、例えば誰と誰との間のつながりでしょうか。それはもちろん、父なる神様と御子イエス様とのつながりです。イエス様の昇天という確かな出来事によって、十字架後も、父なる神様と御子イエス様は良いつながりを持っておられることが明らかとなりました。これは、新約聖書を持っており、物事の終わりを知っている私たちには言わずもがなのことなのですけれども、イエス様の当時の人々にはそうではありませんでした。何しろ、直接見聞きしたわけではないとしても、あのイエス様が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架で叫ばれたらしい、という情報は、弟子たちを含め多くの人々にセンセーショナルな響きを持って伝えられ、驚きをもって受け止められたと考えられます。中には、それでもう父なる神様とイエス様の親しい関係には終止符を打たれたのだ、そのように早合点した人々もいたことでしょう。そのようになってしまった、そのきっかけを作ったのは私だ、と自分の罪を振り返って思い悩む人もいたかもしれない。イエス様を裏切ったことであれだけ泣いたペトロの心境はどうだったのでしょうか。似たような思いだったでしょうか。


そのような人々には、実は十字架後も、父なる神様とイエス様の関係は良好で、しっかりとした、よいつながりが変わらなく続いている、というのは、単に良い知らせであっただけでなく、彼らの心の重荷を取り除く、自由と解放の神のみことばにほかならなったのです。イエス様は、今は決して御父に見捨てられることはない。その枠組みは、人間の側にも当てはめられる、と人々は容易に想像できたのではないでしょうか。すなわち、私たちもイエス様同様、決して見捨てられることはない、という恵みです。主の昇天に際し、そのような安心感の中に生きていくことが出来る幸いを確認し、弟子たちがイエス様との別れを寂しいと思うことなく、むしろ喜んで賛美していたことを思い出し、私たちも喜んで生きる、そのような生活へと進むことが出来れば幸いです。


お祈りいたしましょう。

天の父なる神様、

今朝もこのようにみことばの時をありがとうございます。

すべての救いのみわざを終えられ、

イエス様が天に帰られたことを振り返りました。

私たちも、イエス様の御業が正しかったことに誇りを持ち、

天に凱旋されたイエス様に感謝と賛美をささげる者でありますように。

そのように、御子イエスと父なる神様が今も良い関係を保っておられること、

これは驚くべきことです。私たちの中には、

喜びにあふれているものもあれば、不安に見舞われているものもありますが、

天においてすばらしいつながりがイエス様と父なる神様の間で持たれているように、

父なる神様は同じく良いつながりを私たちとも持って下さるので、

それに安心し、歩みを続けることが出来ますように。


イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン



【報告】

・6月から祈祷会再開です。 土曜日4時の予定。

・今日は主の昇天を記念する主の昇天主日でした。

・来週は聖霊降臨祭、ペンテコステです。


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