【黙祷】皆さんおはようございます。それでは礼拝に先立ち、しばらく黙祷の時といたしましょう。
只今より、2022年5月15日、復活節第五主日の礼拝を始めます。
【讃美歌】 24番 起立
1
父のかみよ 夜は去りて
あらたなる朝となりぬ
われらは今みまえにいでて
御名をあがむ
2
万有の主よ み顔あおぐ
しもべらをつよくなして
あまつくにのつきぬめぐみを
えさせたまえ
3
三つにましてひとりのかみ
みすくいはとうときかな
御名のひかり照りかがやきて
世にあまねし
アーメン
交読文 詩編148編 (旧約p988)
(司会)1:ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
(会衆)2:御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。
(司会)3:日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。
(会衆)4:天の天よ/天の上にある水よ主を賛美せよ。
(司会)5:主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。
(会衆)6:主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。
(司会)7:地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ
(会衆)8:火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ
(司会)9:山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ
(会衆)10:野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ
(司会)11:地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ
(会衆)12:若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。
(司会)13:主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。
(全員)14:主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。
【祈祷】 (一例。実際の礼拝では、司会者が自由祈祷)
天の神様。この朝をありがとうございます。
あなたの恵みの御手の中で先週一週間を過ごし、
このように主の日にまた集まって、
あなたを礼拝することができてありがとうございます。
この礼拝で永遠の神のことばを聞く方々おひとりおひとりに、
導きと祝福をお与えください。
また、礼拝で奉仕する人々を祝福してくださり、
聖霊なる神のご臨在の中で、奉仕が全うできますように。
新型コロナウイルスも感染拡大が収まってきているようで感謝です。
これからも安心安全の中で礼拝が続けられるためにも、
感染再拡大がありませんように助けてください。
また、ロシアがウクライナに軍事侵攻していくことで、
今までのつながりが分断されて、
孤独と恐怖の中におられる方もあるでしょう。
このような日々、福音によって慰めと励ましがありますように。
どうか主の教会を守ってくださり、
それぞれの地での礼拝を祝福してください。
この礼拝の初めから終わりまで、あなたのみ手にゆだねます。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
【讃美歌】 151番 起立
1 よろずの民よろこべや
主イエスの隠府(よみ)にかちませば
死のちからはや失せはて
ひとのいのちのかぎりなし
2 主はさかえの御座にまし
みつかいたち妙(たえ)にうとう
「主イエス死にかちたまえば
人はとわに生くべし」と
3 明日を待たぬいのちもて
なやみたえぬ世に住めば
たえがたくかなしかるを
今は死なぬ身となりぬ
4 なみだの谷、雨はれて、
み国のみちのどかなり
いざうたえ、しらべたかく
主のみさかえ、世のさちを
アーメン
【信仰告白】 使徒信条 起立
われは、天地のつくりぬし、父なる全能の神を信ず。
われは、そのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受うけ、十字架につけられ、死して葬られ、よみにくだり、
三日目によみがえり、天にのぼり、父なる全能の神の右に座したまえり。
生ける人と死にたる人とをさばかんがため、かしこより再び来たりたまわん。
われは聖霊を信ず。また、聖なるキリスト教会、すなわち、聖徒の交わり、
罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。
ア-メン。
聖書朗読 ヨハネ13章31~35節(新約p195)
31:さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受け、神は人の子によって栄光をお受けになった。
32:神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33:子たちよ、今しばらく、私はあなたがたと一緒にいる。あなたがたは私を捜すだろう。『私が行く所にあなたがたは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも同じことを言っておく。
34:あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35:互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」
礼拝説教 「栄光に見えなくとも」 橘内明裕師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
ロシアがウクライナに侵攻して、もう3か月になります。こんなに長期化するとは、誰も思っていなかったかもしれません。この戦争に関しては、世界で様々な意見が出されています。早く終息に向かうものであってほしいものです。
さて、本日の福音書の箇所を読むと、イエス様の栄光のことについて書かれているところなのですが、非常に寂しい始まり方をしています。と言いますのも、この箇所が
「さて、ユダが出て行くと、」(31節)
という、別れのシーンから描かれているからです。別れと言っても、実際は、ユダがイエス様を裏切った、ということに他ならない出来事でした。このような出来事に際して、ほかの弟子たちはあまり理解していなかったようで、少し前の所を読むと、
「『祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた』」(29節)
という程度の意見しか持ち合わせておらず、そこにユダの裏切りという重大な事態が起こっているとは夢にも思っていませんでした。
そのようにユダが離れていったあとで、イエス様はこうおっしゃいます。
「今や、人の子は栄光を受けた」(31節)。
それだけではありません。
「神も人の子によって栄光をお受けになった」
と、ご自身の父なる神様についても、同じように栄光を受けたのだ、とおっしゃるのです。あたかもユダの裏切りがあって、それがきっかけとなって、栄光を受けたと感じた、とも解釈できるような発言です。今日の聖書箇所には、そのような背景がある、ということを心にとめて、続けて読んでまいりましょう。
この箇所では、父なる神様と御子イエス様の、深いつながりを見ることが出来ます。「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる」(32節)。この密接なつながりは、あたかも両者が向かい合っているかのようです。
この両者を行きかう栄光ですが、私たちが想像する栄光とは少し異なっていたかもしれません。栄光にはもともと「意見」「評判」という意味がありまして、必ずしもきらびやかなイメージだけではないのです。ギリシア語の辞書を開いてみると、この「栄光」にあたる言葉の訳として、いちばんはじめに、「意見」という日本語が出ているのです。それと並んで「期待」という訳語が続き、更に「名声」という訳語が紹介されています。この「名声」という訳語から発展させて、「評判」と解釈することも可能ではないかと思い、先ほどそのように紹介したわけです。
父なる神様は、ご自分のことを「人の子」と呼ばれる御子イエス様を通して、高い名声を得ておられました。そのことを喜び、お返しとして、父なる神様も、ご自身によって、御子イエス様に高い評価を与えていたのです。そのようにイエス様を高く評価する神様ご自身が、イエス様に、十字架と復活による罪の赦しを提示されるのです。ちなみに、「人の子」とはご存じのようにイエス様がご自身を指してお使いになられる言葉で、ここに限らず、もうヨハネの福音書の1章から、随所で用いられています。先週ご紹介した、「わたしと父とは一つである」(30節)という言葉からわかる通り、いつもイエス様はこの「人の子」という呼び方でご自分のことを呼んでおられたわけではありません。どのように使い分けておられたのかに関しては今日は触れませんが、恐らく何か真理を隠して、むしろ人間側が自分の知恵でイエス様のことを悟らず、上からの、神様からの知恵によって悟るように、という願いもおありだったのではないかと思います。特に、人の罪を赦すことにかかわる事柄に関しては、誤解されたくなかったのだと思います。
さて、そのようにイエス様が具体的に十字架と復活に向かわれるとなると、イエス様は弟子たちと別れなければなりません。それが、「あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行くところにあなたたちは来ることができない』と言われることの意味です。これはどういうことだろう、とふと思いますし、もちろん当時の弟子たちもそのように思ったわけですが、さすがに私たちも弟子たちも、その十字架の現場に行くことは出来ません。これは、実際に十字架が立てられた場所、という意味ではありません。そのような立場、と言ったほうがいいのかもしれません。あるいは、そのような重要な役割を引き受けられる、ということでもあるでしょう。そこは私たちが越権行為を犯して入って行くことなどできないところであって、イエス様はおひとりで、そこに向かっていかれるのです。むしろ私たちは、34節で言われているように、イエス様の弟子たち同様、「互いに愛し合う」ということに徹していくのです。
今日の御言葉の流れからすると、イエス様の栄光とは、この十字架に他ならない、ということになりはしないでしょうか。十字架こそが栄光。そのようには見えない、むしろ弱々しくて栄光など程遠い、など様々な意見があるかもしれませんが、実はこの「十字架こそ栄光」という説は、ヨハネの福音書の大事なテーマの一つと言われているのです。さきほど、栄光とは必ずしもきらびやかなことと関係があるわけではないとお話ししました。人によっては何か改革のような運動の失敗、挫折のように見えた十字架でも、それは神様の側においては栄光であった。この逆説的な考え方は、栄光を意見、評判、という形で理解することの助けにならないでしょうか。
すべてを投げ打ってこの世に、また私たちの只中に降りてこられ、改めてすべてを捨てて、十字架にかかられたイエス様。その姿はイエス様に対する高い評価、評判となって残っていきました。具体的に言えば、十字架といえば自己犠牲の精神を表わす、という意見も多かったと思います。もし私たちが心動かされ、イエス様に対する感謝をもとに、私たちもイエス様のように自分を捨てて、自己犠牲の歩みをしたい、と願うなら、それが人間の、いわゆる人徳であったり、良い価値観につながるのではないかと思います。そしてそれは、とりもなおさず、人間の受ける栄光として、数えられるのではないでしょうか。話をウクライナとロシアのことに戻しますと、その両国の現在の姿に対する様々な意見があると申し上げましたが、実はそれは、栄光のもとの意味は「意見」だ、という見方からすると、どれも「栄光」とつながりがあるのです。特に、その中で、人間不信になり、荒廃してしまった精神性から、破壊的な行動が呼び起こされてもおかしくない中、高い人間性を保ち、例えば数限りある物資しかない中で忍耐して避難生活を送る人々、危険をも顧みずに停戦に向けて西に東にと駆け回る人々は、その姿を通して人間の持つ栄光を現している、と言うべきではないかとも思います。
しかし、それはやや眩しい。そういったかたも、おられるのではないでしょうか。そのような、人間の「善」のみが強調されるような世界は、どことなく生きにくい。むしろ、そこでは善のみを見せるべきであって、それ以外は隠していかなければならない。そのような世界だったら、息が詰まります。十字架が栄光であるという逆転現象は、人間を、「善」の側面に縛られて生きることから解放します。
十字架の持つ自己犠牲という意味合い。そのことから考えると、人間が一人独自に生きていくのではなく他者に目が開かれ、その他者と共に生きていく、ということを選択していくとき、その他者のために負っていくこととなる重荷、そういったものがあるのではないでしょうか。パウロがコリントの信徒への手紙第二の12章で、イエス様の福音のゆえに自らの身に迫る数多くの困難について述べた後で、最後に28節において、「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」と、印象的な言葉を残しています。私にとってたいへん共感できるみことばです。そのように、誰かのことを思って心配したり、教会のこれからを考えて眠れなかったり、ということは重荷であって、ややもするとマイナスのこととして捉えられがちですが、これは自分自身のことで悩んでいるのではありません。私たちが他者のために、ある意味で命を削っていることであって、言ってみればそれは自己犠牲にもつながり、その点では、たとえそのように見えなかったとしても、人間の栄光、あるいは栄誉、と言った方がいいかもしれませんが、そういったものに数えられるのではないでしょうか。
そのような私たちに与えられるのが、イエス様からの新しい掟であって、それは「互いに愛し合いなさい」というものです。ここまで来ると、このことばの意味もわかってきます。私たちが他者に対して開かれ、父なる神様と御子イエス様のつながりのように、しっかりとつながっていこうとするとき、出会いの喜びもあれば、長年一緒にいることによる疲れというのか、いろいろと不都合を忍耐する、ということも出てきます。それを愛によって覆って、つながりを保ち、却って重荷を担っていこうと決意するとき、そこに見えてくるのは何もきらびやかなものではないけれども、十字架の栄光であり、また、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を見事に守っている姿です。そのような姿が、父なる神様と御子イエス様の麗しいつながりを反映するものとして世に認識されていく。そしてそれは、ついには私たちがイエス様の弟子であることの証になる、というのが35節の言わんとするところではないでしょうか。
「互いに愛し合うならばそれによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。
このようにイエス様はおっしゃいました。私たちは光栄なことに、イエス様のお役に立つことが出来るのです。私たちが自己犠牲の思いを持ち、互いに重荷を担い、互いに愛し合う時に、イエス様の弟子であることが世に対して明らかになっていく。そうすれば、自ずとイエス様の栄光につながっていく、ということです。このように互いに愛し合っている群れがある。さあ、それは誰をあがめているのか、誰を大事にしているグループなのか、と問われ、イエス様です、ということになれば、イエス様の評判が高くなる、というわけです。
互いに愛し合うことで、栄光を与え合う父なる神と御子の間柄の中に私たちも加えられ、私たちを通して、イエス様が栄光を受けることになります。このことに貢献できるとは、何と幸いなのでしょう。生きて生き恥をさらすような人生にすぎないように思われることもあるし、栄光などとは程遠い、影の連続のような人生でも、それでも何か生み出すものがあり、それが巡り巡っては、イエス様の栄光につながる、と考えれば、この人生も悪くない、生きていてよかった、と思えるのではないでしょうか。そのような人生の幸いへと、いつもイエス様は私たちを招いておられます。
お祈りしましょう。
天の父なる神様、
今朝も変わらず、
このみことばの時をありがとうございます。
あなたと御子イエス様の深いつながりの中に、
私も加えて下さること、感謝いたします。
十字架ですら、イエス様にとっては栄光で、
あなたはそれによって、
イエス様の救い主としての名声を高めてくださいました。
だからこそ、私たち日本に住む者たちにも、
イエス様の福音が届き、
信じて救われていることを感謝します。
そのように、一見すると栄光とは思えないものが、
栄光であることがある。
私たちの人生でも、
暗く、つらい悩みの日が、
却って私たちにとっての栄光になることがあると知りました。
そのことを希望として胸に抱いて、
今週の歩みを始めることが出来ますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【讃美歌】 294番 起立
1) みめぐみゆたけき 主の手にひかれて
この世の旅路を あゆむぞうれしき
(おりかえし)
たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ
みあとをゆくこそ こよなきさちなれ
2) さびしき野べにも にぎわう里にも
主ともにいまして われをぞみちびく
3) けわしき山路も おぐらき谷間も
主の手にすがりて やすけく過ぎまし
4) 世の旅はてなば 死のかわなみをも
恐れず超えゆかん みたすけたのみて
アーメン
【献金】 ご家庭で礼拝なさる方も、できる限り、それぞれ工夫して、ささげものをする時を持ちましょう。
(献金箱の代わりになるようなものを用意し、そこに献金し、教会に来れるようになった時、
それを持参する、など)
献金の感謝のお祈り (一例 実際の礼拝では、奉仕者が自由祈祷)
憐れみ深い神よ。
あなたは、私たちに恵みと愛のしるしとして、
私たちの思いを越えた多くの賜物を日ごとに備えてくださいます。
私たちは私たち自身と賜わったすべてのものを喜びと感謝をもってささげます。
私たちのためにご自身をささげられた主イエス・キリストのゆえに、
私たちのささげるすべてを受けいれてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められる
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
【主の祈り】
天にまします、われらの父よ。
ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもならせたまえ。
われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日もあたえたまえ。
われらに罪をおかすものをわれらがゆるすごとく、
われらの罪をもゆるしたまえ。
われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン
【頌栄】 546番 起立
聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 主なる神 昔いまし 今いまし 永久にいます 主をたたえん アーメン
【祝祷】
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。
父と子と聖霊のみ名によって。アーメン
【後奏】
【報告】
・・長引くウクライナ情勢ですが、そこに主の働きかけがあり、「地には平和」とのみことばが実現しますように。
・主の癒しと支えが必要な方々に主の尽きない憐れみと慈しみがありますよう、続けてお祈りいたしましょう。
皆様が感染から守られ、平安の内に毎日を送られますように
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