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執筆者の写真明裕 橘内

2022年4月24日 復活節第二主日礼拝

【黙祷】皆さんおはようございます。それでは礼拝に先立ち、しばらく黙祷の時といたしましょう。


只今より、2022年4月24日、復活節第二主日の礼拝を始めます。


【讃美歌】 66番      起立

1 

聖なる、聖なる、聖なるかな、

三つにいまして 一つなる

神の御名をば  あさまだき

おきいでてこそ ほめまつれ。


2 

聖なる、聖なる、聖なるかな、

神のみまえに  聖徒らも、

かむりをすてて ふしおがみ、

みつかいたちも み名をほむ。

 

3 

聖なる、聖なる、聖なるかな、

罪ある目には  見えねども、

みいつくしみの 満ちたれる

神のさかえぞ  たぐいなき。  

 

4 

聖なる、聖なる、聖なるかな、

み手のわざなる ものみなは、

三つにいまして 一つなる

神の大御名   ほめ奉らん。

アーメン


交読文 詩編118編14~29節 (旧約p957) 

(司会)14節 主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。

(会衆)15節 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。

(司会)16節 主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。

(会衆)17節 死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。

(司会)18節 主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。

(会衆)19節 正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。

(司会)20節 これは主の城門/主に従う人々はここを入る。

(会衆)21節 わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。

(司会)22節 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。

(会衆)23節 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。

(司会)24節 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

(会衆)25節 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。

(司会)26節 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。

(会衆)27節 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。

(司会)28節 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。

(全員)29節 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。



【祈祷】 (一例。実際の礼拝では、司会者が自由祈祷)

天の神様。この朝をありがとうございます。

あなたの恵みの御手の中で先週一週間を過ごし、

このように主の日にまた集まって、

あなたを礼拝することができてありがとうございます。


この礼拝で永遠の神のことばを聞く方々おひとりおひとりに、

導きと祝福をお与えください。

また、礼拝で奉仕する人々を祝福してくださり、

聖霊なる神のご臨在の中で、奉仕が全うできますように。


新型コロナウイルスも感染拡大が収まってきているようで感謝です。

これからも安心安全の中で礼拝が続けられるためにも、

感染再拡大がありませんように助けてください。

また、ロシアがウクライナに軍事侵攻していくことで、

今までのつながりが分断されて、

孤独と恐怖の中におられる方もあるでしょう。

このような日々、福音によって慰めと励ましがありますように。

どうか主の教会を守ってくださり、

それぞれの地での礼拝を祝福してください。

この礼拝の初めから終わりまで、あなたのみ手にゆだねます。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



【讃美歌】  243番 起立

ああ主のひとみ まなざしよ

きよきみまえを 去りゆきし

富める若人 見つめつつ

なげくはたれぞ 主ならずや


ああ主のひとみ まなざしよ

三たびわが主を いなみたる

よわきペトロを かえりみて

ゆるすはたれぞ 主ならずや


ああ主のひとみ まなざしよ

うたがいまどう トマスにも

み傷しめして 「信ぜよ」と

宣らすはたれぞ 主ならずや


きのうもきょうも かわりなく

血しおしたたる み手をのべ

「友よ、かえれ」と まねきつつ

待てるはたれぞ 主ならずや

アーメン



【信仰告白】 使徒信条 起立

われは、天地のつくりぬし、父なる全能の神を信ず。

われは、そのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受うけ、十字架につけられ、死して葬られ、よみにくだり、

三日目によみがえり、天にのぼり、父なる全能の神の右に座したまえり。

生ける人と死にたる人とをさばかんがため、かしこより再び来たりたまわん。

われは聖霊を信ず。また、聖なるキリスト教会、すなわち、聖徒の交わり、

罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。

ア-メン。



聖書朗読 ヨハネ20章19~31節(新約p210)

19:その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20:そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

21:イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

22:そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

23:だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

24:十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

25:そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

26:さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

27:それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

28:トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

29:イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

30:このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。

31:これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


説教「イエスより命を受けるため」 橘内玲子牧師


今日、前半はイエス様の弟子ヨハネが福音書を書くに至った理由を3つのキーワードに注目して聖書を読んで参りましょう。そして、後半はどのように復活のイエス様が不安な弟子たちを派遣するに至ったかを、十字架の場面から振り返って、ご一緒に聖書を読んで参りましょう。


ヨハネによる福音書を書くに至った理由が210ページ、31節にはっきりとか書かれています。

31節 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 

キーワードとして、「神の子」「メシア」「命を受ける」という三つの言葉に注目したいと思います。


長年、聖書に親しんでおられる方々には「イエス様は神の子である」「イエス様はメシアである」「イエス様の十字架を通して信じる者は命を受けること」は慣れ親しんだ言葉に聞こえるかと思います。しかし、ヨハネによる福音書が書かれた時代においては、イエスという人物が単にユダヤ人たちや民衆を騒がせてしまったので死刑になってしまったというような出来事、すでに終わってしまった事件と思っていた人々も多い中で、ヨハネは命をかけてまでも、「イエス様は神の子である」「イエス様はメシアである」「イエス様の十字架を通して信じる者は命を受けること」を書かなければならないと思ったのです。ヨハネは自らのことを「イエス様に愛された弟子」と表現しています。「イエス様に愛された弟子」として、マタイやマルコやルカよりも、間近にイエス様と接し、時間を共にしてきた者として、ヨハネの視点から見た福音書を書き留めておかなければならないと思ったのでしょう。ヨハネによる福音書はマタイやマルコやルカよりも、後の時代書かれたと言われていますが、他の福音書があるとしても、やはり、復活されたイエス様とも間近で接した者として書き残そうと思ったと考えられます。


ヨハネの生涯において、特別な三つの出来事をイエス様の間近で体験しました。この特別な三つの体験を通して、ヨハネによる福音書を書くに至ったかを読み解きたいと思います。十二人の弟子たちの中で、ペトロとヨハネ、そしてヨハネの兄ヤコブは、特別な場面でイエス様に選ばれていた3人でした。


イエス様が特別にペトロとヤコブとヨハネだけを伴ってなされた三つの出来事によって、このヨハネによる福音書を書くに至った理由を推測することができます。

第一として会堂長ヤイロの娘の復活です(70ページ、マルコによる福音書5章 35節~41節)

35節 会堂長のお嬢さんは亡くなりましたと、イエスの耳に入った時、 37節 ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。と書かれています。5章 40節イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて行かれました。 41節 そして、子供の手を取って、「起きなさい」といわれました。 42節少女はすぐに起き上がって、歩きだした。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。

亡くなったはずの会堂長ヤイロの娘の命が復活するということを、ヨハネは目撃したのでした。人々が驚きのあまり我を忘れてしまう出来事を目撃し、イエス様は「命を与えることのできるお方」であるということを知り、驚きました。


また、第二にイエス様のお姿が変わられた出来事です。78ページ、マルコによる福音書/ 9章 2節~4節

イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。すると、7節では、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と言われています。ここでヨハネは旧約聖書を代表する人物であるエリヤとモーセと語り合う場面であり、雲の中から声と言えば神様からの声と考えられましたので、「イエス様は神様の子どもである」と考えられる会話を、ヨハネは自分の耳で聞いたのです。「イエス様は神の子であること」を実感したのでした。 


そして、第三に、ゲツセマネの祈り 92ページ、マルコによる福音書/ 14章 32節~33節

一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた。

イエス様が十字架を目前にされ、死ぬばかりに悲しいと言われ、深い苦しみ中で祈られた時も、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われました。人を救うためには厳しい苦しい現場に入って来てもらわないと救出する、救うことはなしえません。ゲツセマネでの祈りにおいて、深い苦しみの中で、主なる神様と祈られるお姿を目撃したからこそ、イエス様は、苦しい場面から救い出して下さるお方、「救い主」メシアであると確信しました。  


以上の3つの出来事で語られているように、ヨハネは、亡くなっていた会堂長ヤイロの娘の「命」を復活させたイエス様を間近で目撃したからこそ、イエス様は「命を与えることのできるお方」であるということを知りました。ですから、ヨハネによる福音書を読む人々に同じようにイエス様から「命を受ける」体験をして欲しいと願ったのでしょう。


そして、イエス様が神の子であるという神様からの語りかけをヨハネはその耳で聞いたからこそ、イエス様は「神の子」であることは信じるに値することであると確信しました。


ゲツセマネの祈りにおいて、深い苦しみの中で、主なる神様と祈られるお姿を目撃したからこそ、イエス様は、「救い主」であると確信しました。  


このように、イエス様が特別にペトロとヤコブとヨハネだけを伴ってなされた三つの特別な出来事によって、ヨハネが福音書を書くに至ったと推測することができます。


210ページ、ヨハネによる福音書20章31節の「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」この一文に至る三つの特別な出来事を心に留めて頂けましたら、幸いです。


それでは、後半となりましたが、今日の聖書の箇所を最初からご一緒に読んでいきたいのですが、せっかくですので、今日はヨハネに注目をして、十字架の場面からのつながりを大切に読んでいきたいと思いますので、

207ページ、ヨハネによる福音書/ 19章 25節~27節

イエスの十字架のそばには、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、その弟子には「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った、と書かれています。

十字架のそばにいたこの弟子こそヨハネです。イエス様の愛する弟子であり、イエス様の母マリアを託され、家に引き取った弟子こそ、ヨハネなのです。どうしてそう言えるかと言いますと、「イエス様の愛する弟子」とは、特別な三つの出来事をイエス様の間近で体験した三人の一人と考えられます。イエス様の生きておられる頃には間近で共に行動し、また、イエス様の復活の後には大胆にイエス様を語り告げました。それがヨハネなのです。使徒言行録3章1節に「ペトロとヨハネが、祈りの時に神殿に上って行った。」と書かれています。また、4章ではペトロとヨハネが大胆にイエス様のことを民衆に語っています。イエス様の愛された弟子である、ヨハネだからからこそ、ペトロと共に大胆にイエス様を語ることができたと考えられます。


さて、イエス様が逮捕されて十字架に向かって行かれる時に、一番弟子と思われていたペトロがイエス様を三度も知らないと言って、逃げ去ったという出来事が有名ですので、すべての弟子が散り散りバラバラに逃げ去って行ったように思ってしまいますが、聖書をよく読んでみますと、弟子の中でもヨハネは十字架の近くにいたのでした。イエス様が十字架におかかりになった頃には、夫のヨセフは亡くなっていたと言われていますので、母マリアのことがイエス様はたいへん心配だったことでしょう。息子としての責任も果たさなければならないと考えていたことでしょう。民衆を騒がせて死刑になった息子の母として生きていかなければならないということは、いかに過酷な人生が待っているか、誰でも想像することができます。だからこそ、弟子の中でも、誰にでもお願いできることではありません。イエス様が愛されていた弟子、ヨハネだからこそ、大切なお母さんを信頼して任せることができたのでしょう。

では、ヨハネはどうしてペトロのように注目されない、目立たないのでしょうか。様々な理由が考えられますが、一つには「ヨハネ」とはっきりと名前で記されていないからでしょう。イエス様が弟子たちの足を洗われた後、イスカリオテとユダが裏切るという予告されるヨハネによる福音書13章23節に「イエスの愛しておられた者」という書き方になっています。それまでは「ヨハネ」と記していましたが、ユダの裏切り、そして十字架へと進んでいくに至っては、「イエスの愛しておられた者」という、イエス様との関係性で表現しました。「ヨハネ」という名前を使わなくても、当時の読者はよくわかっていたのでしょう。しかし、残念ながら、現代に生きる私たちは「イエスの愛しておられた者」は誰であるかと思ってしまいます。「ヨハネ」とはっきりと名前で書いて欲しいところです。


そして、復活の朝にもヨハネの行動を見ることができます。

209ページ、ヨハネによる福音書/ 20章 1節~2節

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。」

マグダラのマリアはイエス様のご遺体が無くなっている、たいへんな出来事が起こった時に、ペトロとヨハネに知らせています。弟子の中で中心的だったからでしょう。


20章3節では、イエス様のご遺体が無くなっていると聞いて、ペトロとヨハネは一緒に走ってお墓に向かいます。ヨハネの方が先に墓に着きました。しかしペトロは行動力がありますから、先に墓の中に入り、ご遺体はなく、ご遺体をまいていた亜麻布だけとなっていることを先に確認しました。次にヨハネも墓の中に入り見ました。しかし、イエス様が復活されたことを二人はまだ理解していませんでした。その後、ペトロとヨハネは家に帰って行きました。


そして、先ほど聖書朗読をして頂きました、ヨハネによる福音書20章19節につながって行きます。

210ページ、ヨハネによる福音書/ 20章 19節

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

早朝、イエス様が復活されたことを知り、夕方まで、弟子たちは何を考えていたのでしょうか。

3つのことが示されました。

第一にユダヤ人への恐れです。ユダヤ人の祭司長たちや律法学者はローマ総督ピラトを操ってまでもイエス様を十字架刑で殺してしまったのです。(マタイ27:62~66)  

59ページ、マタイによる福音書/ 27章 62節~64節

祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」


このように、弟子たちよりも「イエス様が死者の中から復活される」ということを意識して、周到な準備をしていました。弟子たちは祭司長たち、ユダヤ人指導者たちのローマ総督ピラトまでも動かしてしまう実行力をたいへん恐れていました。イエス様が逮捕され十字架にかけられたように、弟子たちにも危険が及ぶことを恐れていました。


そして、第二に、弟子たちの間には不信感があり、一致がありませんでした。イエス様の復活の出来事を聞いて墓に向かって行ったのはペトロとヨハネだけでした。

また、160ページ、ルカによる福音書/ 24章 9節~

マグダラのマリア、ヤコブの母マリアなど、婦人たちはイエス様の遺体がないと使徒たちに話したが、

ルカによる福音書/ 24章 11節

使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。

イエス様の復活の話は、使徒たち、イエス様の十一の弟子たちにすると、たわごと、現実の話ではないと思ったとのことです。ヨハネによる福音書ではペトロとヨハネは走って墓へ行ったとのことですが、他の弟子たちの前では復活を信じていないふりをしていたのでしょうか。復活への確信がなかったので、ペトロとヨハネは「イエス様が復活されたから皆で見に行こう」とは、言えなかったのでしょう。それほど、十一人の弟子たちには一致がなかったのです。


また、イスカリオテと呼ばれるユダが裏切ってイエス様を殺す計画を祭司長たちにしました。ですから、弟子の中からまた裏切る者がでるかもしれないと、互いに様子を伺っていたのかもしれません。


そして、第三に、弟子たちはこれからどうすればいいのかがわからなくなっていました。師であり、主であったイエス様が十字架で亡くなられ、これからはどうしていけばいいのか、将来の展望、方向性を見失っていました。


このような時に、イエス様が来て弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。シャロームという言葉は現代もイスラエルでつかわれる言葉ですから、挨拶であったとも言えますが、不安があり、弟子たち同士の間にさえ平和がないような時に、イエス様は本来の意味として、あえて「あなたがたに平安があるように」と言われました。


ヨハネによる福音書/ 20章 20節

そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。


手とわき腹はイエス様が傷を受けられた部分です。当時はまだガラス窓などない時代でしたので、戸を閉めて鍵をかけていたら、暗かったと思います。ですから、傷ついた手とわき腹をお見せになり、ここに姿を現したお方がイエス様であることを示されました。傷ついた手とわき腹を見て、復活されたイエス様だと確信して、弟子たちは喜んだのです。


そして、21節

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

そして、神様がイエス様を遣わされたように、イエス様が弟子たちを遣わすと、言われました。イエス様は神様に忠実に、忠実に十字架の死まで従っていかれましたが、ユダヤ人を恐れていたような弟子たちですから、自分たちはイエス様からの使命を忠実に果たすことができるのだろうか、できないのではないかと感じたのではないでしょうか。


すると22節、そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

イエス様もこのままの弟子たちの状態では無理だと思われたことでしょう。だからこそ、「聖霊を受けなさい」と言われました。ヨハネによる福音書14章にあるように、聖霊は弁護者(助け主)であり、真理の霊です。14章26節には、弁護者、すなわち、神様がイエス様のお名前によって遣わされる聖霊がすぺてのことを教えて下さる、そして、イエス様がお話しされたことをことごとく思い起こさせくださると書かれています。弟子たちが遣わされていく先々で、語るべきことも聖霊が教え導いてくださるとのことです。これからどこへ行って何をしていいのか、わからなかった弟子たちに方向性が見えてきました。


そして、 23節、最初にしなければならないことを、最後にイエス様は語られました。

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」   

だれの罪でもですから、弟子たち同士、お互いに赦し合うことが必要であること、そして、ペトロは自分自身の罪も赦さなければ、罪が残ったままになってしまうことも示されたのではないでしょうか。罪はイエス様が十字架において身代わりになって罰を受けて下さったので、弟子たちの罪、そして自らの罪でさえに赦されていることを、まず信じなければ、前に向かって進んでいけません。過去の数々の罪が足かせとなってしまいます。まず、弟子たち同士お互いに赦し合い、自分の罪もイエス様の十字架によって赦されたこと信じ、罪が残ってしまわないようにして、まず最初の一歩を踏み出すことができるのです。

そして、聖霊を受けて、語るべきことを聖霊に教えて頂きながら、イエス様が遣わされる所へ向かっていく、弟子たちの信仰の回復に、大切なことを、これからどのように歩むべきか、恐れていた弟子たちにイエス様は語ってくださいました。


最後に、210ページ、20章 24節~のトマスの物語から学び、終わりとしたいと思います。

トマスは、イエスが来られたとき、弟子たちと一緒にいませんでした。弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

26節、八日の後、イエスが来て真ん中に立ち、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」イエス様はトマスの「わたしは決して信じない」というのを聞いておられたようですね。


29節イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

私たちの信仰生活において、また、祈りの課題に対して、すぐに結果を見るということがかなわないこともあります。ある人は結果を見ることができ、またある人は見れないこともあるでしょう。トマスは他の弟子たちがイエス様を見たことは信じられない、トマス自身が見なければ決して信じないと言いました。そのようなトマスにイエス様は「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。祈りの課題に対しても、たとえ私が結果を見ることができなくても、信仰の仲間が結果を見ることができたことを喜ぶ者とならせて頂きたいものです。


私たちは復活されたイエス様をこの目で見ることはできません。イエス様の弟子たちの言葉、聖書の言葉を通して、イエス様を見ることができます。私たちはイエス様を見ないのに聖書の言葉を読んで信じている幸いな者であることに、感謝しつつ、歩んで参りましょう。


お祈りします。


ご在天の父なる神様。

あなたの御名を賛美します。

今日も私たちに御言葉を与えて下さり感謝します。

あなたの憐れみ深さを覚えます。

どうか弟子たちを導かれたのと同じように、

私たちのことも導いてください。

見ないで信じる幸いを思い、

なお御言葉に寄りすがって歩む者でありますように。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン



【讃美歌】  511番 起立

1) みゆるしあらずば ほろぶべきこの身

   わが主よ、あわれみ すくいたまえ


   (おりかえし) イエスきみよ、このままに

           我をこのままに、救い給え


2) つみのみつもりて いさおはなけれど

   なお主の血により すくいたまえ


3) みめぐみうくべき 身にしあらねども

   ただ御名のために すくいたまえ


4) みわざを世になす ちからあるものと

   わが身もこころも ならせたまえ


【献金】 ご家庭で礼拝なさる方も、できる限り、それぞれ工夫して、ささげものをする時を持ちましょう。

(献金箱の代わりになるようなものを用意し、そこに献金し、教会に来れるようになった時、

それを持参する、など)

 

献金の感謝のお祈り (一例 実際の礼拝では、奉仕者が自由祈祷)

 憐れみ深い神よ。

   あなたは、私たちに恵みと愛のしるしとして、

   私たちの思いを越えた多くの賜物を日ごとに備えてくださいます。

   私たちは私たち自身と賜わったすべてのものを喜びと感謝をもってささげます。

   私たちのためにご自身をささげられた主イエス・キリストのゆえに、

   私たちのささげるすべてを受けいれてください。

   あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められる

   み子、主イエス・キリストによって祈ります。

    アーメン



【主の祈り】


天にまします、われらの父よ。

ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ。

御国(みくに)を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもならせたまえ。

われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日もあたえたまえ。

われらに罪をおかすものをわれらがゆるすごとく、

われらの罪をもゆるしたまえ。

われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン




【頌栄】 541番    起立

父、み子、みたまの. おおみかみに、

ときわにたえせず. みさかえあれ. みさかえあれ。

アーメン


【祝祷】

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。

   父と子と聖霊のみ名によって。アーメン


【後奏】  

 



【報告】

・先週がイースター礼拝でした。イースター献金を精一杯おささげしましょう。現段階で目標額の9割近くまで満たされてきています。感謝です。

・ウクライナ情勢に主の働きかけがあり、「地には平和」とのみことばが実現しますように。

・主の癒しと支えが必要な方々に主の尽きない憐れみと慈しみがありますよう、続けてお祈りいたしましょう。


皆様が感染から守られ、平安の内に毎日を送られますように





















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