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執筆者の写真明裕 橘内

2022年4月17日 復活祭 礼拝説教

2022年4月17日 復活祭 礼拝説教「復活の朝」


【聖書朗読】

1:そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。

2:見ると、石が墓のわきに転がしてあり、

3:中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

4:そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

5:婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。

6:あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

7:人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

8:そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。

9:そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

10:それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、

11:使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。

12:しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

(ルカによる福音書24章1節~



イースターおめでとうございます。

コロナ禍でありながら、こうして無事イースター礼拝を迎えることが出来、感謝です。


復活の朝の出来事の初めには、イエス様のお墓を訪れる女性たちの手に、「準備しておいた香料」がありました。十字架にかかられたイエス様を大事に想い、イエス様のためにしっかりと準備する信仰が見られたのです。非常に大切な信仰です。


ただ、お墓に行ってわかったことは、石がすでに墓のわきに転がされていることであり、中に入ってもイエス様のご遺体がない、ということでした。それを見た時に、どう理解したらよいのか、戸惑ったのではないでしょうか。ご遺体が盗まれたのだろうか。それとも・・・。でもそのとき、よもやイエス様が復活しておられるとは思わなかったのではないでしょうか。お墓を訪れた女性たちは、途方に暮れて立っていたのです。


私たちも似たところがあります。地上での歩みがあくまで仮住まいのようなものなので、不便を強いられることもあれば不自由に思うこともある。そのことはうすうすわかっているはずでも、あまりにも思い通りにならないと、途方に暮れて立ちすくむ私たち。結局私たちは、自分ひとりで立っているように思っていても、実は現実の荒波の前でただ立ち尽くすのみの存在に過ぎません。自分の外側から、「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか」と親しく諭されてはじめて、「イエスの言葉を思い出した」(6節)と言われるぐらいです。そのような、戸惑ったり、途方にくれたりすることの多い私たちであることをわかったうえで、イエス様は身代わりのために十字架にかかられたのでした。


生きておられる方

ここでひとつ大事なことは、天使の言葉によって、イエス様の定義がなされていることです。それは、「生きておられる方」という定義です。イエス様が死からよみがえられたのはもちろん大きな神様の御業です。しかし、イエス様のご性質からすると、それは言ってしまえば「当たり前」のことでもありました。それは、「生きておられる方」と呼ばれる限り、そこには死の入り込む隙間がないからです。罪の赦しを実現するため、たとえ1回は死に敗れ、その苦しみを味わわれたとしても、もとが何しろ「生きておられる方」と呼ばれる方なので、そのご性質上、イエス様に死者の世界は似つかわしくありません。命溢れて生きておられるイエス様と死とは本当は相いれないもの。イエス様は努力してやっと復活を勝ち取ったのではなく、ご自身のご性質に沿った形で、命の世界へと戻るべくして戻ってこられたのです。


驚きながら家に帰った

加えてもう一つ大事なことが、ここには記されています。それは、ペトロがお墓を見に行った後、「この出来事に驚きながら家に帰った」ことです。確かにイエス様をそのお墓にお収めしたはずなのに、ご遺体がない。それはなぜなのか。これが復活ということなのか。いろいろと思いめぐらしていたことでしょう。


私たちが信仰の面で何かに驚きながら家に帰ったのはいつごろまでだったでしょうか。次第に慣れてくるというのか、特に何に驚くということもなく、割と起伏の乏しい信仰生活を送っていく、ということになることが多いように思います。それはそれでまた落ち着いた信仰ということでいいのかもしれません。しかし、それではイエス様に対する期待感が足りないようにも思われます。イエス様の御業に驚く心は、新鮮な心です。その新鮮な心を生み出すのは、イエス様に期待を寄せる思いです。このお方はその命によって死をも打ち破るほどの方なのですから、大いに期待したいものです。


最後に、今日のまとめをしておきましょう。このイエス様は、朝の光が差し込んでもなお人生の暗闇の中にとどまってしまうような私たちを明るく照らす光となるために、よみがえられました。この復活の朝――まさにそのときこそ、人生を明るく照らし出す本当の朝日が昇った時だったのです。


お祈りいたしましょう。

復活のイエス様。その命の豊かさ、力強さをたたえます。

私たちの罪の赦しのために十字架にかかられ、

私たちを正しいと認めるために復活されたイエス様。

あなたの園贖いの御業に改めて感謝します。

みことばを聞くとき、聖霊が働かれ、

イエス様の御業に思いをはせることができるようになり、

そのなさられたことに驚いて家路につく、

このような信仰生活になったら幸いです。

それが、なぜか、この世のことで思い煩い、

イエス様のなさることに感動して、

それに驚いて家路につくどころか、

急に平安を失ったり、

疑ったり、あるいは自分の弱さばかりしか見えなくなったり、

そのようなことが起こります。

そのような私たちでしかないのに、

大切に思っていただき、その十字架と復活の御業によって確かに救っていて下さること、あらためて感謝です。

このイエス様の復活されたイースターの礼拝の朝、

私たちがもう一度心新たにされ、

その慈しみと憐れみの深さに気付かされ、

心動かされてあなたについていくことが出来るように助けてください。

日常生活のさまざまな困難の中で、

具体的な助けをいつも与えてください。

イエス様のお名前によってお祈りいたします。

アーメン


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