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執筆者の写真明裕 橘内

2022年4月10日 受難主日礼拝説教 橘内玲子師

2022年4月10日 受難主日礼拝


【聖書朗読】イザヤ50章4~9節(旧約p1145)

4:主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。

5:主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。

6:打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

7:主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。

8:わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。

9:見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。


【 本日の説教 】 橘内玲子

本日は聖書日課では受難主日、イエス様がどのように苦しみにあわれたのか、その足跡を共にたどって参りましょう。そして、

最後に私たちも苦しみの時にどのように対処するのかをイザヤ書から読み解きたいと思います。


本日の説教題は「共に立ってくださる方」ですが、イエス様は孤独にお一人で数々の苦しみを受けられました。イエス様には「共に立ってくださる方」、つまり、味方になってくれる方はいなかったかのように描かれています。だれも味方になってくれなかったので、十字架まで、十字架の死まで突き進むしかなかったかのように思えます。しかし、イザヤ書50章を通して、イエス様のお心の内を垣間見ることができます。


まず新約聖書ルカによる福音書22章4節をお開きください。聖書日課では「主の受難」として、ルカによる福音書22章14節から23章56節となっていますが、7ページにも及びますので、抜粋をして、数箇所を実際に読んでみたいと思います。イエス様の受難、苦しみは、まず、第一に弟子の裏切りから始まったと言えるでしょう。


ルカによる福音書22章4節 【ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。】 


こともあろうに、今までイエス様を否定し続けていた祭司長たちにイスカリオテと呼ばれるユダは会いに行き、イエス様をどのように逮捕するのか、打ち合わせの相談を持ち掛けました。どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。


ルカによる福音書22章3節【しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。】


「サタンが入った」というのは、恐ろしい言葉です。十二人の弟子たちには徐々に「不満」が膨れ上がっていきました。そのような不満のあるところに、サタンが入ったのです。ルカによる福音書22章24節【また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。】と、書かれていますが、この「だれがいちばん偉いだろうか」という議論はどの福音書でも、何度も書かれています。イスカリオテと呼ばれるユダは会計係を任せられていましたので、十二人の中でも信頼が厚かったと言えるでしょう。しかし、ペトロが、またヨハネが頭角を現してきました。忠実に仕えていたのに、急にペトロやヨハネが自分よりも偉くなってしまっている、イスカリオテと呼ばれるユダは挽回しなくてはいけないというあせりがあったのでしょうか。なんと、自分を敬ってくれないイエス様に憎しみを増していくことになってしまいました。不満や憎しみのあるところを足がかりとして、サタンが入って来るということに警戒をしなくてはならないと、注意していきましょう。


そして、一番弟子であるかと思われていたペトロですが、22章 34節【イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」】皆様ご存じのように、イエス様の言われた通りとなってしまいました。イエス様は逮捕されて大祭司の家に連れ行かれるのですが、ペトロはイエス様のことが気になり、見つからないように遠く離れて、逮捕されているイエス様について行きました。しかし、ある人がペトロに対して「あなたはイエス様と一緒にいましたね」と言われると、「いやそうではない、知らない」と三度も繰り返しました。そして、イエス様のように逮捕されてしまわないように、周りの人々から逃げ去り、その後「激しく泣いた」と22章62節に書かれています。恐ろしさや悔しさなど言葉にできない感情がこみ上げてきたのでしょう。


第二に、祭司長たち、律法学者たちも、イエス様の味方にはなってくれませんでした。同じ民族、同じユダヤの人々の中で、宗教的指導者である祭司長たち、また、旧約聖書の研究者であった律法学者たちもイエス様の味方、共に立ってくださる方ではありませんでした。イエス様を殺そうとまで考えていました。


22章66節から、「最高法院で裁判を受ける」ことが描かれています。「イエス様が自らをメシアである、神の子である」と言わせて、神への冒涜の罪と定めたかったのです。しかし、祭司長たちや律法学者たちは、自分のたちの手は汚したくないので、23章1節にあるように【イエスをピラトのもとに連れて】行きました。少し戻りますが、22章2節には【祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。】民衆の中にはイエス様に助けられた人々もいたことでしょう。また、時期としては過越祭であり、人々はエルサレムに集まっていた時期ですから、民衆が騒ぎを起こすことを恐れてイエス様を殺すタイミングを探っていました。


第三に総督ピラトも味方になってはくれませんでした。毎週、使徒信条で名前があげられるポンテオ・ピラトですが、ローマからユダヤに総督として派遣されていたピラトです。 祭司長たちはイエス様を総督ピラトの所に連れて行き、当時ユダヤを支配していたローマ帝国、その支配に反逆する者としてイエス様を処罰して欲しかったのですが、23章 04節【ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。】それでも、祭司長たちはあきらめませんでした。「イエスという人物は民衆を扇動している」と主張しました。ピラトは「何の罪も見だせないから、処分はなし」とは言えず、ガリラヤを支配していたヘロデ王ところにイエス様を送りました。


このヘロデ王とはイエス様が生まれた時に支配してヘロデ大王の息子にあたるヘロデ・アンティパスです。このヘロデ王はガリラヤ地方を支配していました。ヘロデ家は生粋のユダヤ人ではなく、エドム人でしたので、「ユダヤ人の王」であると期待されていたイエス様がどのような人物であるかたいへん興味がありました。ルカによる福音書23章8節~9節【彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。】イエス様の行われた数々の奇跡のうわさを聞いていたのでしょう。マジックショーでも見るような興味を抱いたのでしょう。しかし、イエス様は何もお答えにならなかったので、イエスという人物は「ユダヤ人の王」として、自分に取って代わることもない、奇跡も行えない、大したことのない人物と興味もなくなってしまい、部下の兵士たちと一緒にイエス様をあざけり、侮辱しました。


毎週、使徒信条に登場するポンテオ・ピラトですが、ピラトはイエス様を一旦は釈放しようとしました。ルカによる福音書23章3節から16節をご覧ください。【ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」】このように、ピラトはイエス様を釈放しようとしますが、人々は「十字架につけろ」と叫び続けます。「十字架につけろ」という表現は、ローマの方法で処刑にしてほしいという意味と受け取れます。祭司長たちが行った最高法院では、石打ちの刑で罰するので、ユダヤの人々の範疇を超えるもっと残虐な「十字架で」と考えられます。また、祭司長たちはイエス様と関わりたくなかったのです。ローマの支配者が殺したのだと、祭司長たちは言い逃れをしたかったのでしょう。


このように、イエス様は弟子たちから、祭司長たちから、ピラトからと関わりたくないと思われ、排除されていきました。このようにイエス様は深い苦しみを受けられました。イエス様は排除されただけでなく、大祭司の下役たちに、また、ローマ兵からも、唾を吐きかけれ、こぶしで殴られました。この大祭司の下役は、神殿の警護にあたり、大祭司の指示通りに行動していました。マタイ26章67節【そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら】からかいました。ここに、【顔に唾をかけられる】ことは最大の侮辱行為でした。あらゆる時代のすべての人類の罪の身代わりとなられるために、イエス様は屈辱を受けられただけではなく、肉体的にもたいへん苦痛を受けられれました。このような屈辱的な扱いを受けられ、体には傷を受けられ、イエス様はどのように感じておられたのでしょう。


イエス様の心の内を表しているではと考えられるところが、本日の聖書の箇所にありました。やっと本日の聖書の箇所にたどり着きました。


イザヤ書50章6節【打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、あざけりと唾を受けた】


【ひげを抜かれ、顔に唾をかけられる】ことは最大の侮辱行為でした。このような仕打ちを受けたとすれば、普通の人間ならば、たいへん傷つき、立ち直れなくなりますが、次の7節に意外な言葉が続きます。


【主なる神が助けてくださるから/わたしはそれをあざけりとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。】


「主なる神が助けてくださるから」 力強い言葉です。 50章 09節にも繰り返されています。


【見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。】


弟子たちであっても、同じユダヤの人の祭司長たちも、そして、釈放していいのではないかと言ってくれたピラトからでさえ、結局、助けとはならなかったのです。しかし、主なる神様が助けてくださるので、あざけりとも屈辱ともならない。そして、祭司長(宗教上の指導者)やピラトやヘロデ王(政治的な指導者)であっても、イエス様を罪に定めることはできないと、イエス様は考えいたのではないでしょうか。


さて、ここでイザヤ書について、イエス様の苦難とイザヤ書について、お話したいと思います。イザヤ書は最も多く新約聖書に引用されているとのことです。新約聖書ではイエス様がメシアであり、長らく待たれていたダビデ王家の王であることを示すために、イザヤ書をよく引用します。イエス様の苦難と死は、主の僕として業を記したイザヤ書の言葉が成就したものとされています。本日の聖書箇所のイザヤ書50章、またイザヤ書53章も苦難のしもべについて書かれています。


2000年前にイエス様が現われて下さり、十字架の苦しみを見聞きして、当時の人々はイザヤ書で語られていた苦難のしもべがイエス様であると信じたことでしょう。それまでは苦難のしもべが何を指し示すのかも確信が持てなかったことでしょう。また、このような理不尽な苦難に耐え、主なる神様の助けに全幅の信頼を置くような人物が存在するのかも信じられなかったことでしょう。イエス様の苦しみを見聞きして、当時の人々はイザヤ書で語られていた苦難のしもべとはイエス様であると確信したことでしょう。本日受難主日に選ばれています聖書箇所がイザヤ書50章であるのは、イエス様の十字架に至るまでの数々の苦しみの状況と、またその時のイエス様のお心の内を垣間見ることのできる、たいへん興味深い聖書日課の箇所となっています。



せっかくですで、イザヤ書50章4節をご覧ください。


【主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。】


今回、急遽、私が説教を担当するなりましたが、このみことばにたいへん励まされました。「主なる神が、私に弟子としての舌をわたしに与え下さるので、また言葉を呼び覚ましてくださるので、説教ができるように、主なる神様が助け導いて下さる」と神様の導きに期待をすることができました。毎朝、わたしの耳を呼び覚まし、神様の弟子として聞き従うようにしてくださるので、礼拝の説教として皆様方に語るべき言葉を神様が与えて下さると信じて、説教の準備を進めることができました。「主なる神が助けてくださるから」大丈夫と思えたのです。「主なる神が助けてくださるから」力強い言葉です。


それでは、最後に、イザヤ書50章7節、9節に話を戻していきましょう。


【主なる神が助けてくださるから/わたしはそれをあざけりとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。】


50章9節にも繰り返されています。


【見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。】


聖書では、大切な言葉は繰り返して、語られます。そして9節では「見よ」という、注意喚起する言葉の後に再度、「主なる神が助けて下さるから」と語られています。そして、イザヤ書50章8節【わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。】主のしもべであるイエス様の正しさを認める方は近くにいてくださり、味方になり、「共に立とう」と言って下さることを知っていたので、イエス様は数々の苦しみに忍耐することがおできになったのではないでしょうか。祭司長たちや律法学者たちの最高法院においても、総督ピラトやヘロデ王の裁判においても、正しさを認めてもらえなかったイエス様でしたが、正しさを認めて下さる主なる神様が近くにいて下さり、「共に立とう」と言って下さったので、ここでは訴えてくる人たちに「わたしに向かって来るがよい」とまで、堂々に言い放っています。

では、最後となりましたが、苦しい状況ある方、苦しい立場にある時は、どのように乗り越えればいいのでしょうか。イザヤ書50章5節にヒントがあります。【主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。】まずはイエス様の数々の苦しみを思い出してみてください。そして、主なる神様に耳を傾ける、聖書の言葉に耳を傾け、逆らわず、退かず、そして、聖書の言葉を、また神様が送って下さる助けを探し求めてみて下さい。その時に、主なる神様が助けて下さり、正しさを認めて下さいます。主なる神様が味方になり、共に立ってくださいます。主なる神様が助けて下さり、正しさを認めて下さることに期待し、歩んで参りましょう。



閲覧数:24回1件のコメント

1 Comment


noboyan30
noboyan30
Apr 11, 2022

玲子牧師の説教、感謝しながら読みました。有り難う御座いました。


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