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  • 執筆者の写真明裕 橘内

2022年3月6日 四旬節第一主日礼拝 

更新日:2022年4月10日

2022年3月6日 四旬節第一主日礼拝 


【黙祷】皆さんおはようございます。それでは礼拝に先立ち、しばらく黙祷の時といたしましょう。


只今より、2022年3月6日、四旬節第一主日の礼拝を始めます。


【讃美歌】 6番      起立

1

われら主をたたえまし、

    きよき御名あがめばや、

    くる日ごとにほめうたわん、

    神にまし王にます

    主のみいつたぐいなし


2

世は世へとうたいつぎ、

    よろこびとおそれもて

    主のくしきわざをつげ、

    みさかえをほめたたう。


3

めぐみはかぎりなく

    主にたよる子らにあり、

    みいかりをしのびつつ、

    あわれみをたれたもう

    主を愛し、主につかえん。



アーメン



【聖書交読】詩編91編9~16節(旧約p930)

(司会)9節 あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。

(会衆)10節  あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。

(司会)11節 主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。

(会衆)12節  彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。

(司会)13節 あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。

(会衆)14節  「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。

(司会)15節 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。

(全員)16節  生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」



 

【祈祷】 (一例。実際の礼拝では、司会者が自由祈祷)

天の神様。この朝をありがとうございます。

あなたの恵みの御手の中で先週一週間を過ごし、

このように主の日にまた集まって、

あなたを礼拝することができてありがとうございます。


この礼拝で永遠の神のことばを聞く方々おひとりおひとりに、

導きと祝福をお与えください。

また、礼拝で奉仕する人々を祝福してくださり、

聖霊なる神のご臨在の中で、奉仕が全うできますように。


日本においても、各地で新型コロナウイルスの変種株が急増してきましたが、

少しそのスピードも落ち着きつつあります。

蔓延防止等重点措置はまだ出されたままですが、

これ以上感染が広がらないように助けてください。

今までのつながりが分断されて、

孤独の中におられる方もあるでしょう。

このような日々、福音によって慰めと励ましがありますように。

どうか主の教会を守ってくださり、

それぞれの地での礼拝を祝福してください。

この礼拝の初めから終わりまで、あなたのみ手にゆだねます。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



【讃美歌】  187番 起立

1.

主よいのちの ことばを

    あたえたまえ わが身に

    われはもとむ ひたすら

    主よりたまう みかてを


2.

ガリラヤにて みかてを

    わけたまいし わが主よ

    いまも生ける ことばを

    あたえたまえ ゆたかに


アーメン



【信仰告白】 使徒信条 起立

われは、天地のつくりぬし、父なる全能の神を信ず。

われは、そのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受うけ、十字架につけられ、死して葬られ、よみにくだり、

三日目によみがえり、天にのぼり、父なる全能の神の右に座したまえり。

生ける人と死にたる人とをさばかんがため、かしこより再び来たりたまわん。

われは聖霊を信ず。また、聖なるキリスト教会、すなわち、聖徒の交わり、

罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。

ア-メン。



【聖書朗読】ルカ4章1~13節(新約p107)

1:さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、

2:四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

3:そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」

4:イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

5:更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。

6:そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。

7:だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

8:イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

9:そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。

10:というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』

11:また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」

12:イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。

13:悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。




【説教】「聖霊と、そのあと、悪魔と」



私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン



誘惑について話すとき、そもそもなぜ世の中に誘惑などあるのか、もともとそんなものがなければ、誰も悩まないのに、というところにまで話が行ってしまうことがあるかもしれません。あるいは、世の中の「苦難」の問題。時々聞きますのは、先ほどの誘惑のことと同じで、そもそも苦難がこの世にあるから人間悩むのであって、もともとそんなものなければよかったのだ。なぜ神様は、この世に苦難など造られたのか、ということです。今、気になるウクライナ情勢やタリバンが復活したアフガニスタンなど、抑圧のもとで苦難を経験している人々は数多く存在します。この苦難、ということについて、今日の聖書箇所は何か語るものを持っているのでしょうか。


ところで今、教会の暦は四旬節に入っております。イエス様の十字架を静かに、深く思う時期です。その時期の最初の主日にふさわしい、イエス様が荒れ野で悪魔の誘惑を受ける場面を共に開いております。これもひとつの苦難とも言えるでしょう。冒頭にお話しした、苦難、というテーマにつながるところがあるかもしれません。


今日のこの福音書の箇所を注意深く読んでいくと、荒れ野に行かれる直前には、イエス様は聖霊に満ちていたと言われています。イエス様が私たち人間と同じ姿になるべく洗礼を受けられた時からのことです。天から突然、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響き渡ります(3章22節)。この印象深い出来事に先立って、「聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降ってきた」(同節)という出来事がありました。誰にでも明らかな形で聖霊がイエス様のもとに来られ、留まったのです。聖霊が共におられる、という目に見えない事実が、目に見えるようになった瞬間でした。


ここまでは、イエス様は聖霊と共におられたのです。しかし、次にイエス様は「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」たとあります。この引用符付きの“霊”は、従来なら「御霊」と訳されてきた言葉です。聖霊もこの引用符付きの“霊”も同じ存在です。内側に満ちておられた聖霊が、今度は外側から、イエス様を荒れ野へと追いやり、悪魔の誘惑へと向かわせる様子が描かれているとも考えられます。


どうしてまた、せっかく聖霊に満たされていたのにイエス様を荒れ野になど追いやって、と不思議にも思います。しかも、その先にはイエス様を誘惑しようと待っていたかのように、悪魔の存在がある。そこに向かわせるなど、どうしてそんな乱暴なことを、と思わなくもないのですが、これは神の霊である聖霊が、どうしてもイエス様に必要なことだと考えて、導かれたことだったのです。言ってみれば、この荒れ野の40日なしに、イエス様は救い主にはなり得ない、ぐらいの大きな意味があったということです。


それはどういうことでしょうか。先ほど、人間と同じ姿になるべくイエス様は洗礼をお受けになった、とお話ししました。そのことと関係があります。人が人を救うことはできない。どちらも五十歩百歩で、どんなにヒーロー的に、あなたのために命をささげます、といったところで、人間が誰かのために命を捨てる、ということで救いは生まれないのです。人間を超えた存在が、人間を救うことが出来る。その点で、神であるイエス様はふさわしい存在でした。


では、それで救い主としての条件は満たした、あとはどんどん人を救える、ということになるかというと、そういうわけでもないのです。もし、私たちの救い主が、「私救い主なので、人間を越えた存在だから、下々の人間たちが普段何を気にしながら生きて、何をしんどいと思いながら生活しているかなど、一切関係がない」と言い出したらどうでしょうか。もちろんそんなことはありえないのでご心配いただかなくて大丈夫ですが、救い主が、その救いの対象である人間のことをつぶさに知らずに救いの業をなすなど、考えられないわけです。私たちは機械ではありませんから、そんな役割論のような形で、「私は私、あなたはあなた、私はあなたを救うという役割を担うが、それ以上は干渉しない」ということでは納得できないわけですね。それこそ私たちは「つながり」ということを大事にしていますから、この救いにしても、イエス様と私たちの「つながり」の中で、イエス様が私たちの抱える苦労や悩み、どんなことを気にして落ち込み、何に悩んで夜眠れなくなるか、ということをわかっていていただいて、その上で救っていただくことを望むのです。


このことに関しては、言葉で百語るよりも、生きて体験していただいた方が早い。まさにそのように、イエス様は人となって、つぶさに人の生きる悩みを味わってくださいました。人間というものは、こういったことに弱いのだ、例えば今日の箇所の関連で言えば、空腹がもたらすものがこんなに深刻だとは、実際に体験してみて初めてわかるわけです。それをすべて経験しつくしたイエス様だからこそ、私たちの弱さに同情することが出来て、その尽きることのない慈しみと憐れみ、それは今朝も新しくされたのですが、それを与えて下さり、救っていて下さるのです。


その背後には、この聖霊との交わりから、一転して悪魔の誘惑のもとに入る、というある意味で危険なプロセスがありました。もう一度2,3節を振り返ってみましょう。


2:四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

3:そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」


イエス様の時代に至るまでの何千年、いや、それ以上とも言われる長きにわたって、人間をいざなうことをある種生業としてきた悪魔です。さすがタイミングをわきまえています。人間がいかに空腹に弱いか、それをつぶさに経験してちょうど空腹を覚えられたイエス様に悪魔は巧みに近づきます。そして、ただ「石をパンに」と提案するだけでなく、「神の子なら」という、プライドを刺激するような言葉も用いて、空腹なのだから、神としての不思議な力を用いて、その辺の石でも何でも、パンに変えてしまったらいい、と言い放ちます。


ここでイエス様が、ありえませんけれども、この誘いに乗ってしまったらどうだったのでしょうか。私たちの救いは、微妙に違ってしまったかもしれません。石をパンに変えるとは、言ってみれば「現実を変えること」です。空腹になった。しかも周りには何も食べ物がないではないか。では、その現実を変えて、食べ物を出現させよう、ということです。ここに決定的に欠けているのは、「忍耐」です。もしこのような状態で救いが成し遂げられたとすれば、そこにはいつも「現実を変えてしまう」という要素が含まれていたことでしょう。都合が悪くなると、現実を変えてご破算にする。いわゆるリセットする、というようなことです。しかし、現実にはそんなわけにはいきません。変えられない現実の中でどう折り合いをつけていこうかともがきながら、私たちは生きるわけです。私たちが必要としている救いは、そのような中でもがく私たちを後押しするようなものではないでしょうか。そのような、思い通りになかなかならない現実下でも、生きていてよかった、とふと思える瞬間がある、そのようなものだと思います。現実がころころ変わるなら、何の苦労もありません。そして私たちは、そのようなことは恵みでも何でもなく、私たちのためにならない、ということを知っています。私たちは、この思う通りにならない、言ってみれば石がパンに変わらない、という世界の中に置かれて、その中を生きよ、と言われているのです。その点では、この時イエス様がパンを石に変えなくてよかったのです。私たちは、パンはパン、石は石として見て、パンがあればそれが与えられたことに感謝し、石しかなかったら祈る、このような歩みを続けていきます。そしてそれを完成させるのが、救いなのです。


さて、今日はイエス様が、最初は聖霊と共におられながら、あとで悪魔とのかかわりの中に置かれた様子を見てまいりました。イエス様の御生涯は、その最後に受難があっただけでなく、公の活動を始められたその時から、苦難に特徴付けられていた、ということでしょう。そのような苦しみを経て、十字架へと向かって行かれたのです。


ここに、私たちにも通じる、苦難が生み出すもの、あるいは苦難によって形作られること、そういったものが見えて参ります。苦難こそが、黙々と、従順に十字架のご最期まで従っていかれたイエス様の独特の品性を生み出しました。苦しんだからこそ、人間のことがよくわかるようになりました。結局その苦しみのまま、十字架にまで行かれたのだから、その苦しみはマイナスだったのか。恐らくイエス様はそのようには思われなかったと思います。そもそも価値判断として、何がプラスで何がマイナスか、ということすら、お考えにならなかったのではないでしょうか。プラス・マイナスなど、ある人にとってプラスのことが、別の人にはマイナスであったり、あやふやなものです。そのような不確かな価値観の上ではなく、堅固な岩の上にイエス様は立たれて、堂々と苦難をも受け入れ、それを通してますます私たち人間のことを知り、私たちとのつながりを深め、そうやって私たちを救っていかれるイエス様です。そのイエス様のお姿を見る時に、私たちは苦しみを厭わないのです。それを通して、私たちも神様によって建て上げられていくからです。誤解を恐れずに言えば、苦難を通して得るものがある、ということに気付くのです。ですからこそ、現在苦しみの中にあるウクライナであるとか、そのような地域の人々にも、是非苦難をマイナスと捉えずに、この時にしか得ることのできない何かがある、苦難がただの苦難で終わることはないから、とおこがましくはありますが声をかけたい思いです。十字架に向かうまで、その全生涯が苦難に満ちていたイエス様は、あなたを見ていて下さいます。


お祈りしましょう。

慈しみと憐れみに富んでおられる神様、

あなたの御名を賛美します。

救い主イエス様を送ってくださって、

感謝いたします。

その苦難ゆえに、

私たち人間のことを深く知って下さいました。

そのような私たちのことをわかって下さる救い主がおられること、

感謝いたします。

世界中に、戦争や貧困などで苦しむ人々がいますので、

どうか地に平和を与えて下さり、

助けてくださいますように。

また、その人々が、

苦難がただの苦難で終わることはないと、

希望を持つことが出来るようにしてください。

今日から始まりますこの一週間、

私にとってプラスと思えること、またマイナスと思えること、

様々な事柄に直面するであろう私たちに、

人生の揺るがぬ土台を与えてくださいまして、

落ち着いて主を信じる信仰をお与えください。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン



【讃美歌】  291番 起立

1 主にまかせよ、汝(な)が身を、

主はよろこび たすけまさん。

しのびて 春を待て、

雪はとけて 花は咲かん。

あらしにも やみにも

ただまかせよ、汝が身を。


2主にまかせよ、汝(な)が身を、

主はよろこび たすけまさん。

なやみは つよくとも

みめぐみには 勝つを得じ。

まことなる 主の手に

ただまかせよ、汝が身を。

アーメン



【献金】 ご家庭で礼拝なさる方も、できる限り、それぞれ工夫して、ささげものをする時を持ちましょう。

(献金箱の代わりになるようなものを用意し、そこに献金し、教会に来れるようになった時、

それを持参する、など)

 

献金の感謝のお祈り (一例 実際の礼拝では、奉仕者が自由祈祷)

 憐れみ深い神よ。

   あなたは、私たちに恵みと愛のしるしとして、

   私たちの思いを越えた多くの賜物を日ごとに備えてくださいます。

   私たちは私たち自身と賜わったすべてのものを喜びと感謝をもってささげます。

   私たちのためにご自身をささげられた主イエス・キリストのゆえに、

   私たちのささげるすべてを受けいれてください。

   あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められる

   み子、主イエス・キリストによって祈ります。

    アーメン



【主の祈り】


天にまします、われらの父よ。

ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ。

御国(みくに)を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもならせたまえ。

われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日もあたえたまえ。

われらに罪をおかすものをわれらがゆるすごとく、

われらの罪をもゆるしたまえ。

われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン




【頌栄】 546番    起立

聖なるかな、せいなるかな、

せいなるかな、主なるかみ、

むかしいまし、いまいまし、

とわにいます主をたたえん

アーメン


【祝祷】

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。

   父と子と聖霊のみ名によって。アーメン


【後奏】  

 



【報告】

・本日役員任命式が礼拝の中で行われます。

・ウクライナ情勢に主の働きかけがあり、「地には平和」とのみことばが実現しますように。

・けがや病で入院中の方々がおられます。お祈りいたしましょう。


皆様が感染から守られ、平安の内に毎日を送られますように


















2022年2月20日 顕現後第七主日礼拝 


【黙祷】皆さんおはようございます。それでは礼拝に先立ち、しばらく黙祷の時といたしましょう。


只今より、2022年2月20日、顕現後第七主日の礼拝を始めます。


【讃美歌】 67番      起立

1

よろずのもの とわにしらす


み父よ、


  いまめぐみを くだしたまえ、


み名をほむる われらに。


2

人となりし すくいのみ子、      


主イエスよ、


 利(と)きつるぎの みことばもて  


しめしたまえ まことを。


3

いともつよき なぐさめぬし     


みたまよ、   


  わがこころを おさめたまえ、   


今よりのち  はなれで。


4

三つにまして ひとりにます      


みかみよ、   


  み名のさかえ ほめたたえて、  


 とこしなえに したがわん。


アーメン




【聖書交読】詩編37編1~11節(旧約p868) 

(司会)1節 【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。

(会衆)2節  彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。

(司会)3節 主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。

(会衆)4節  主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

(司会)5節 あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい

(会衆)6節  あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。

(司会)7節 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。

(会衆)8節  怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。

(司会)9節 悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。

(会衆)10節  しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。

(全員)11節  貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。


 

【祈祷】 (一例。実際の礼拝では、司会者が自由祈祷)

天の神様。この朝をありがとうございます。

あなたの恵みの御手の中で先週一週間を過ごし、

このように主の日にまた集まって、

あなたを礼拝することができてありがとうございます。


神様、

あなたは、愛がなければどのような行いも益がなく、

愛は平和とすべてのよいもののきずなであり、

愛のない人は主の前では死者に等しい、と教えてくださいました。

どうか聖霊を送ってくださり、

この最もすぐれた賜物を私たちの心の中に注いでください。


この礼拝で永遠の神のことばを聞く方々おひとりおひとりに、

導きと祝福をお与えください。

また、礼拝で奉仕する人々を祝福してくださり、

聖霊なる神のご臨在の中で、奉仕が全うできますように。


日本においても、各地で新型コロナウイルスの変種株が急増してきましたが、

少しそのスピードも落ち着きつつあります。

蔓延防止等重点措置はまだ出されたままですが、

これ以上感染が広がらないように助けてください。

今までのつながりが分断されて、

孤独の中におられる方もあるでしょう。

このような日々、福音によって慰めと励ましがありますように。

どうか主の教会を守ってくださり、

それぞれの地での礼拝を祝福してください。

この礼拝の初めから終わりまで、あなたのみ手にゆだねます。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



【讃美歌】  187番 起立

1.

主よいのちの ことばを

    あたえたまえ わが身に

    われはもとむ ひたすら

    主よりたまう みかてを


2.

ガリラヤにて みかてを

    わけたまいし わが主よ

    いまも生ける ことばを

    あたえたまえ ゆたかに


アーメン



【信仰告白】 使徒信条 起立

われは、天地のつくりぬし、父なる全能の神を信ず。

われは、そのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受うけ、十字架につけられ、死して葬られ、よみにくだり、

三日目によみがえり、天にのぼり、父なる全能の神の右に座したまえり。

生ける人と死にたる人とをさばかんがため、かしこより再び来たりたまわん。

われは聖霊を信ず。また、聖なるキリスト教会、すなわち、聖徒の交わり、

罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。

ア-メン。



【聖書朗読】ルカ6章27~38節 (新約p113)

27:「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

28:悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

29:あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。

30:求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

31:人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

32:自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。

33:また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。

34:返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。

35:しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

36:あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

37:「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。

38:与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」



【説教】「誰を愛する」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


先週は、朝起きたらあまりののどの痛みで声が出せず、講壇に立ってみことばを語ることができませんでした。ご心配おかけしましたが、発熱もなく、普通の咽頭炎ということで、今日はここに立たせていただいております。お祈りくださった皆さん、ありがとうございました。


さて、イエス様の言葉を聞いている弟子たちにイエス様が語られるのは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27節)という印象深い教えです。これは、同じく御言葉に聞いている私たちへの教えでもあり、本日の説教における「誰を愛する」という問いかけへの答えは、「敵を愛する」ということになります。今まで多くの信仰者たちが、このみことばに向き合い、その意味を深く考え、行動に移そうとしてきました。

しかし、この重大な課題に取り組む上で、「敵を愛する」ことが「ほかのことをしない言い訳」にならないように注意しなければなりません。私たちは今、敵を愛する、という、実に高尚な、なおかつ難しい課題に取り組んでいるのだ。だから、他のことがおろそかになっても仕方がない。このように考えることはイエス様の御心とは異なります。「敵を愛せよ」とおっしゃった方は同時に「隣人を愛しなさい」ともおっしゃる方です。私たちは「敵」という、やや特別な対象について考える前に、十分に私たちの周りの隣人を愛している必要があるのです。

続いて考えておきたいのは、「敵」とは誰か、ということです。ひとつ考えられるのは、イエス様のみことばの中にヒントがあり、それは「わたしたちを憎む者」ということになるのですが、ごく普通に私たちが日常生活を送る中で、私たちが誰かから「憎まれる」というところまでいくことがあるでしょうか。私たちの存在が誰か他の人にとって気に障る、その程度のことなら、あるでしょう。言葉数が多くて不快な思いをさせた。期待通りに私たちが動かないので失望させた。そういった、どちらかというと静かな感情の方が多いのではないでしょうか。憎む、となると、かなり激しい感情の動きです。そこまでの心の動きを相手に起こさせることなど、滅多にないのではないでしょうか。

加えて、この対象は、相手の方が私たちを憎んでいるのであって、私たちが不快だと思う人々、いなければいいと思う人々のことではありません。そういった人々が私たちの「敵」というのでもないのです。そもそも、私たちはなるべく誰か他の人を不快だと思わないようにしようとしますし、ましてやその存在を否定し、こんな人などいない方がいい、などと思うことも控えようとしています。そう考えると、「敵を愛する」という実践を考える前に、もうその「敵」自体が存在しない、ということに気付くこともあり得ることになります。それはそれでいいのではないでしょうか。イエス様は、敵がいることを望んだわけではないからです。

ただ、それでもどうしても「敵」としか呼べないような存在が現われた時、私たちが「今こそ私はイエス様の御心に従って敵を愛するのだ」と高揚するのも、「敵を愛して味方にしよう」とするのも、両方とも誤りであると思います。私たちは右の手のしたことを左手が知らない、というぐらいに誇らないようにしなければなりません。これは、この部分に類似したところがあるマタイの福音書6章で、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイによる福音書 6章 3節)と、施しとの関連の中で残されているイエス様の言葉です。他の行いにも応用できるみことばだと思います。人間は簡単に誇ってしまうもので、本来なすべきことであって何も誇るべきことでないようなことでも、「こんなことをしています」とひけらかすものです。私たちが自発的にしていることならともかく、イエス様によって命じられて行なっていることを、誇ることはできません。「敵を愛してみませんか」と私たちは提案を受けたのではありません。「敵を愛しなさい」と命じられているのです。そこに、誇り高ぶりが入ってくる隙間はどこにもないのです。

しかも、大事なことは、イエス様があくまで「敵を愛しなさい」と命じておられることです。そこには、「その敵を仲間としなさい」とは言われていません。「敵を敵のまま、敵として受け入れて、愛していく」のです。

このことから、イエス様の教えは、社会を改善するための、何か世直し的な運動とは異なる、ということが明確になります。敵は敵のままなのです。敵を仲間にする世直し運動ではないのです。最初からそんなことはわかっている、と言いたいところですが、特に実践の段階において、どうしても相手を変えたくなる、という心理が働くことを通して、どこかで私たちが相手を仲間にしようとしている、ということが明らかになってしまいます。「ようやく相手との関係が出来始めた。あとは、向こうがもう少し柔軟になってくれたら・・・」など、どうしても相手に変化を要求してしまうのです。それには、相手を「敵」という異質なものとしては捉えにくい、という心理も働いているかとは思います。いずれにしても、ここには、「相手が敵だと愛しにくい」といったような、どうしても自分を中心としたコミュニケーションの方向性が見えてしまっています。これではなかなか、イエス様の願う「敵を愛する」ということには近づいていけません。

それなら、「敵を愛する」を少し言い換えて、他の表現で理解する、ということをしてみてはどうでしょうか。実際、もう少し広い範囲でとらえると、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28:悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と、28節も含めてこの「敵を愛する」ということについて言い換えがなされている、と読むこともできますし、場合によっては、それが31節まで続いている、そこまでが、「敵を愛する」ことの内容なのだ、という読み方もできると思います。敵を愛することの中には、相手のために祈ることも含められ、また、敵のために与える、ということも、具体的な敵を愛する姿として考えうることになります。あるいは、「親切にする」という言葉も出てきますので、例えば、「敵を愛するとは、敵に対して優しくすること」などが考えられます。どうでしょうか。

民話の世界のことについて、こんな話を聞きました。日本の民話には、「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました」などの表現を伴い、おじいさんとおばあさんが登場します。山にしば刈に行くおじいさん。ごく普通の日常の光景のようにとらえていましたが、年配になって、もう木を切ることができない、ほかの農作業もできないおじいさんに、その日必要な分のしば刈だけは認めていた。そのような、社会的な弱者に対する配慮であった、という説です。

そのような優しさはもちろん敵にも向けられるべきでしょう。その意味では、「敵を愛する」とは、「敵に優しくする」ということにもつながっていく、ということになります。

そこで最後に確認しておきたいのが、今日の聖書の箇所の総括です。イエス様は今日の箇所を、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という36節の御言葉によって総括しているように見えます。「敵を愛しなさい」という今日の中心的な教えも、この「憐れみ深い者となりなさい」という教えの下にあるにすぎない、という読み方になります。そうすると、ここで、今年の御言葉との関連が出てまいります。「再び心を励まし、なお待ち望む。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(哀歌3章21,22節)が今年の御言葉ですが、ここに「主の憐れみは決して尽きない」というように、「憐れみ深い者となりなさい」という教えと関連する御言葉があることがわかります。両者を関連付けて考えると、「主の憐れみは決して尽きないので、それを受けて、私たちは憐れみ深い者に変えていただける」ということになり、そのプロセスの中で、同時に敵を愛する私たちにも変えていただける、という希望を持つことができるようになります。そのように私たちを変えてくださる主の恵みに改めて感謝します。

お祈りいたしましょう。

天の父なる神様。このみことばの時をありがとうございます。

いつも御言葉から語ってくださる御愛をありがとうございます。

今日は私たちにとって古くて新しい言葉、

「敵を愛しなさい」について御言葉から味わってまいりました。

私たちがこの御言葉を特別視せず、

あなたからいただく恵みの中で、

淡々と取り組むことができますように。

しかも、あなたは憐れみ深い方であり、

その憐れみは尽きることなく、

却って朝毎に新しく私たちに慈しみも憐れみも与えてくださいますから、

その与えられた慈しみ、憐れみによって、

私たちも憐れみ深い者へと変えられ、

それによって敵を愛するものでありますように。

もちろん私たちは、敵などいない世界を望んでいます。

そのような平和な社会に、私たちを置いてください。

そして、ひとたびその平和が脅かされるようなときには、

あなたが割って入ってくださり、

平和を保ってくださるようにお願いします。

私たちの日々の具体的な日常生活においても、

あなたの守りと平安がありますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン



【讃美歌】  512番 起立

1 わが魂の したいまつる

イエス君のうるわしきよ

あしたの星か 谷のゆりか

なにになぞらえてうたわん


なやめるときの わがなぐさめ

さびしき日もわがとも

きみは谷のゆり あしたの星

うつし世にたぐいもなし


2身のわずらいも 世のうれいも

われとともにわかちつつ

いざなうものの ふかきたくみ

やぶりたもううれしさよ


ひとは棄つれど きみはすてず

みめぐみはいやまさらん

きみは谷のゆり あしたの星

うつし世にたぐいもなし

アーメン



【献金】 ご家庭で礼拝なさる方も、できる限り、それぞれ工夫して、ささげものをする時を持ちましょう。

(献金箱の代わりになるようなものを用意し、そこに献金し、教会に来れるようになった時、

それを持参する、など)

 

献金の感謝のお祈り (一例 実際の礼拝では、奉仕者が自由祈祷)

 憐れみ深い神よ。

   あなたは、私たちに恵みと愛のしるしとして、

   私たちの思いを越えた多くの賜物を日ごとに備えてくださいます。

   私たちは私たち自身と賜わったすべてのものを喜びと感謝をもってささげます。

   私たちのためにご自身をささげられた主イエス・キリストのゆえに、

   私たちのささげるすべてを受けいれてください。

   あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められる

   み子、主イエス・キリストによって祈ります。

    アーメン



【主の祈り】


天にまします、われらの父よ。

ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ。

御国(みくに)を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもならせたまえ。

われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日もあたえたまえ。

われらに罪をおかすものをわれらがゆるすごとく、

われらの罪をもゆるしたまえ。

われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン




【頌栄】 546番    起立

聖なるかな、せいなるかな、

せいなるかな、主なるかみ、

むかしいまし、いまいまし、

とわにいます主をたたえん

アーメン


【祝祷】

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。

   父と子と聖霊のみ名によって。アーメン


【後奏】  

 



【報告】

・本日礼拝後、新役員で二回目の役員会を開催します。

・けがや病で入院中の方々がおられます。お祈りいたしましょう。


皆様が感染から守られ、平安の内に毎日を送られますように



















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