2022年3月13日 四旬節第二主日礼拝
【黙祷】皆さんおはようございます。それでは礼拝に先立ち、しばらく黙祷の時といたしましょう。
只今より、2022年3月13日、四旬節第二主日の礼拝を始めます。
【讃美歌】 2番 起立
1
いざやともに こえうちあげて
くしきみわざ ほめうたわまし
つくりましし あめつちみな
かみによりて よろこびあり
2
母のむねに ありしときより
わがふむみち さきわいたもう
いまものちも あだをふせぎ
世のわざわい のぞきたまわん
3
まよいを去り やすきをあたえ
つねにめぐみ なぐさめたもう
父なるかみ み子 みたまに
代々(よよ)みいつと みさかえあれ
アーメン
【聖書交読】詩編27編(旧約p857)
(司会)9節 あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。
(会衆)10節 あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。
(司会)11節 主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
(会衆)12節 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。
(司会)13節 あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。
(会衆)14節 「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
(司会)15節 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。
(全員)16節 生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」
【祈祷】 (一例。実際の礼拝では、司会者が自由祈祷)
天の神様。この朝をありがとうございます。
あなたの恵みの御手の中で先週一週間を過ごし、
このように主の日にまた集まって、
あなたを礼拝することができてありがとうございます。
この礼拝で永遠の神のことばを聞く方々おひとりおひとりに、
導きと祝福をお与えください。
また、礼拝で奉仕する人々を祝福してくださり、
聖霊なる神のご臨在の中で、奉仕が全うできますように。
日本においても、各地で新型コロナウイルスの変種株が急増してきましたが、
少しそのスピードも落ち着きつつあります。
蔓延防止等重点措置はまだ出されたままですが、
これ以上感染が広がらないように助けてください。
今までのつながりが分断されて、
孤独の中におられる方もあるでしょう。
このような日々、福音によって慰めと励ましがありますように。
どうか主の教会を守ってくださり、
それぞれの地での礼拝を祝福してください。
この礼拝の初めから終わりまで、あなたのみ手にゆだねます。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
【讃美歌】 501番 起立
1.
生命のみことば たえにくすし、
見えざる御神の むねをしめし、
つかえまつる みちをおしう。
生命のみことば たえなるかな、
いのちの御言葉 くすしきかな。
2.
主イエスの御言葉 いとしたわし、
普くひびきて 世のちまたに
なやむ子らを あめにまねく。
生命のみことば たえなるかな、
いのちの御言葉 くすしきかな。
3.
うれしき訪れ たえずきこえ、
ゆるしと和らぎ たまうかみの
ふかきめぐみ 世にあらわる。
生命のみことば たえなるかな、
いのちの御言葉 くすしきかな。
アーメン
【信仰告白】 使徒信条 起立
われは、天地のつくりぬし、父なる全能の神を信ず。
われは、そのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受うけ、十字架につけられ、死して葬られ、よみにくだり、
三日目によみがえり、天にのぼり、父なる全能の神の右に座したまえり。
生ける人と死にたる人とをさばかんがため、かしこより再び来たりたまわん。
われは聖霊を信ず。また、聖なるキリスト教会、すなわち、聖徒の交わり、
罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。
ア-メン。
【聖書朗読】ルカ13章31節~35節(新約p107)
31:ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
32:イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。
33:ルカによる福音書/ 13章 33節
だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
34:ルカによる福音書/ 13章 34節
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
35:ルカによる福音書/ 13章 35節
見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
【説教】「揺るがされず、まっすぐに」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
皆さんには何かこだわりがおありでしょうか。私は、何か色を選ぶ場合、可能であれば緑を選ぶようにしています。緑は永遠を表す色だからです。私たちは永遠の命をいただき、それを語り継ぐ者とされました。であるなら、その永遠を表す色があるのであれば、それを選ぶ、ということがあってもいいと思います。では、イエス様はどうだったのでしょうか。何かこだわりがおありだったのでしょうか。今日の聖書の箇所を一緒に見てまいりましょう。
四旬節には日曜日は含まれないのですが、教会に集まるのが日曜だけ、ということが多い場合は、どうしても日曜にイエス様の受難に関する聖書の箇所を読む事になります。今日は、ご自分を預言者に見立て、その「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえない」(33節)とするイエス様ご自身の言葉が、受難について物語っています。重ねて、イエス様はエルサレムを、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者」(34節)と評しています。
エルサレムという地名は、諸説あるものの、「平和の町」という意味でも理解されてきました。でも、預言者、そしてそこにはイエス様も加えられていくのですが、そのような人々を亡き者にしていくような町の、どこが「平和」なのでしょうか。いつからエルサレムはこうなってしまったのでしょうか。
しかし、イエス様は嘆きません。そして、「ここを去ったほうがいいですよ」などというまやかしの言葉にも耳を貸しません。イエス様は決然と、揺るがされずにまっすぐに、エルサレム、そしてそこで遂げられようとしている十字架に向かっていかれるのです。その覚悟は、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」という、冒頭にご紹介したみことばによく表れています。
そうすると、冒頭に触れましたイエス様のこだわり、ということですけれども、もしかするとこのエルサレムに向かっていくこと、このことが関係しているように思うのです。イエス様のこだわり。それはエルサレムである。十字架に向かって、揺るがされずにまっすぐに進んでいく姿は、ある意味でエルサレムにこだわっていたイエス様の姿の表われ、ということにもなろうかと思います。
では、どうしてエルサレムだったか、ということです。どうでしょうか。今日たびだび触れていますが、33節の「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」というイエス様のみことばが、すべてを語っているように思います。
このみことばを、少し詳しく読んでいきたいと思います。ここにはいくつかの大事な要素が含まれているかと思いますが、それはまず、「預言者」という言葉で、これは話した通り、イエス様がご自身を預言者に見立てておられたことがうかがわれる言葉です。続いて「エルサレム」。そして、「死ぬ」ということです。ひとつずつ詳しく見ていきましょう。
イエス様がご自分のことを話されるとき、しばしば使われたのは「人の子」ということばでした。受難というテーマであれば、例えば「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカによる福音書9章 22節)という受難の予告の言葉がよく知られています。ここではその「人の子」ではなくて、イエス様はご自分のことを表すのに「預言者」ということばを使っておられます。
イエス様のお働きを分類して、イエス様には3つの職務があり、それは王であり祭司、そして預言者であった、と言われることがあります。この預言者の姿勢というのは、神の民と相対峙して、しっかり向き合う姿に表れています。祭司は、逆なのです。民と同じ方向を見て、とりなしをし、神様の前に憐れみを願うのです。イエス様と言えば、この祭司の姿なのではないか、と思うのですが、この預言者としての姿も忘れないでおきたいものです。ここで決然と、行き先はエルサレム、と心に定め、何にも揺るがされずにエルサレムに向かわれる姿は、まさに民に対峙する姿で、ご自分の御目的のためには、民と少し距離を置いてでも、ご自分の向かっておられる場所に急がれる。それは、同じ33節の冒頭、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」という言葉によく表れています。イエス様は、私たちと、緊張感のある、よい距離感を保たれる方です。それは、ご自分の思われるときに、思うがままに動かれるためです。人間のところに深く入っていって、そこに埋没するようになっていってしまっては、こうはできません。ドライと言うことでしょうか。そうではないのです。深い愛に突き動かされていたからこそ、十字架にまでかかってくださったのです。私たちとのよい距離感を保っておられる、ということだけです。だからこそ、毎日のように、自分の道を進んでいくことができるのです。
続いて「エルサレム」ですが、これが、イエス様のこだわり、ということでした。イエス様はどうしてもこのエルサレムに行きたい。そして、そこで十字架にかかろうとなさるのです。「平和の町」と呼ばれていたことも、大いに関係あるでしょう。これは、このぐらいで留めておきたいと思います。
そして、肝心のイエス様が「死ぬ」とおっしゃっておられることですが、これは何か別のことはなかったのでしょうか。モーセはかつて、契約の象徴として、民にいけにえの動物の血を振りかけました。イエス様も同じように、何か別のものを使って私たちを清めることはできなかったのでしょうか。この問い自体、自分たち人間のことをよくわかっていない、と叱責されそうです。そのような、言ってみれば代用品のようなもので済むなら、イエス様はわざわざ十字架にまでかかることはありませんでした。そのようなものでは救いには不十分だ、御子ご自身の血が流されることが必要だ、ということになって、十字架に向かって行かれたイエス様。なぜ死ぬ、というところにまで行きつかなければならなかったのか。それは、ご自分を神様の前にいけにえと同じようにみておられたからでした。ちょっとどこかを切って、そこから流れ出る血で何とかしよう、というわけにはいかなかったのです。ご自分を一回限りの、永遠のささげものとして、イエス様はおささげになられました。それが、救いへとつながったのです。
そのように、エルサレムにこだわられたイエス様ですが、エルサレムの中でどこ、ということにはあまりこだわっておられなかったようです。というより、あたかもそれは、人間の不当な裁判の結果に左右されることで、イエス様が決定することではなかった、とでも言わんばかりのことでした。エルサレム内であれば、彼らに引かれていく所であればどこにでも、イエス様は沈黙して、引かれていったのです。それが、皆さんよくご存じの、「ゴルゴタ」という場所でした。しばしば「エルサレム郊外にあった」と言われることのゴルゴタ、エルサレムの北の方、という説もありますが、実際どこにあったかは諸説あるようです。しかしひとつ言えることは、エルサレムの中心ではなかった、ということです。イエス様の大事な十字架です。皆がわかるように、エルサレムの広場であるとか、中心地であるとか、そのようなところで大々的に行なわれるべきだったのではないですか。いえ、やはり十字架と言えば当時の刑罰でした。そんな目立つところでは行われなかったのです。
そうすると、イエス様は、エルサレムには、そこで十字架にかかるのだ、ということで大いにこだわられましたが、その中のどこで十字架にかかるか、ということに関しては人間の側の事情に任せ、こだわらなかった、そしてエルサレムでも目立つところで十字架にかかったのではなく、比較的ひっそりと十字架にかかられた、ということになります。
せっかく、神であられる身分をお捨てになり、この世にまで来られて、それで最後はエルサレムの中心でも、ましてや世界の中心でもないようなところで刑罰としての十字架にかかられるとは。そこがまた、だからこそイエス様の受難なのだ、ということになるのですが、それでよかったのか。よかったも何も、イエス様は納得して十字架にかかっていかれたのです。
預言者を殺す町である罪を糾弾するのではなく、その罪を赦すために、十字架に向かっていかれたのがイエス様でした。私たちも、イエス様は私たちの罪を責めようとしておられるのではなく、それを処理して赦そうとしておられることを信じ、心安んじてこの四旬節を過ごしていきたいと思います。
お祈りしましょう。
私たちのために苦しみをしのばれた主イエス様。
あなたの救いの名を思い起こし、
あらためて感謝いたします。
今朝このみことばの時をありがとうございます。
私たちを救おうとして、エルサレムにこだわられたイエス様。
そのようにして私たちの救いを実現してくださり、
まことに感謝します。
私たちは身を低くしてイエス様の十字架の前に出て、
罪の赦しの恵みを頂きたいと思います。
また、この世を生きるがゆえに経験する様々な軋轢や葛藤もすべてイエス様に託し、
イエス様もそのようなことを経験されたからご存じなのだ、
ということに信頼を置いて、
イエス様にゆだねていくことができるように助けてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
【讃美歌】 121番 起立
1 まぶねのなかに うぶごえあげ
木工(たくみ)の家に 人となりて
貧しきうれい 生くるなやみ
つぶさになめし この人を見よ
2食するひまも うちわすれて
しいたげられし ひとをたずね
友なきものの 友となりて
こころくだきし この人を見よ
3.すべてのものを あたえしすえ
死のほかなにも むくいられで
十字架のうえに あげられつつ
敵をゆるしし この人を見よ
4.この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ
アーメン
【献金】 ご家庭で礼拝なさる方も、できる限り、それぞれ工夫して、ささげものをする時を持ちましょう。
(献金箱の代わりになるようなものを用意し、そこに献金し、教会に来れるようになった時、
それを持参する、など)
献金の感謝のお祈り (一例 実際の礼拝では、奉仕者が自由祈祷)
憐れみ深い神よ。
あなたは、私たちに恵みと愛のしるしとして、
私たちの思いを越えた多くの賜物を日ごとに備えてくださいます。
私たちは私たち自身と賜わったすべてのものを喜びと感謝をもってささげます。
私たちのためにご自身をささげられた主イエス・キリストのゆえに、
私たちのささげるすべてを受けいれてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められる
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
【主の祈り】
天にまします、われらの父よ。
ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもならせたまえ。
われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日もあたえたまえ。
われらに罪をおかすものをわれらがゆるすごとく、
われらの罪をもゆるしたまえ。
われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン
【頌栄】 543番 起立
この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ
アーメン
【祝祷】
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。
父と子と聖霊のみ名によって。アーメン
【後奏】
【報告】
・先週礼拝後、役員会がありました。
・ウクライナ情勢に主の働きかけがあり、「地には平和」とのみことばが実現しますように。
・けがや病で入院中の方々がおられます。お祈りいたしましょう。
皆様が感染から守られ、平安の内に毎日を送られますように
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