【聖書交読】イザヤ11章1〜10節(旧約1078頁)
司)1:エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
会)2:その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
司)3:彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。
会)4:弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
司)5:正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
会)6:狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
司)7:牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
会)8:乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
司)9:わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
全)10:その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
【聖書朗読】マタイ3章1〜12節(新約3頁)
1:そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
2:「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3:これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
4:ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
5:そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
6:罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7:ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
8:悔い改めにふさわしい実を結べ。
9:『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
10:斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
11:わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
12:そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
「道を備え、まっすぐに」
サッカーのワールドカップが開催されていますが、日本の歴史的勝利の余韻に浸っている頃かもしれません。そのような中ですが、本日の福音書を詳しく辿ってまいりましょう。1、2節です。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」。洗礼者ヨハネの登場の場面です。ここでは、「洗礼者ヨハネが現れて」と言われて、その登場が特別であったことが示されています。「公の場所に出現した」という意味の言葉が使われています。ただ「来た」のではなく「現れた」と言われるところに、彼がメシアと間違われても仕方がなかった理由が隠されているのかもしれません。しかも彼は意味深く、荒れ野に現れました。教えを広めるにはどう考えても効率の悪い場所です。しかし、それには理由がありました。3節に目を移しましょう。
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
このようにマタイはヨハネがどのような存在なのか、紹介しています。その時に、その当時の聖書、今で言う旧約聖書を思い起こし、そのイザヤ書という預言書の部分から、「荒れ野で叫ぶ者の声がする」という文言を引き出してきました。ヨハネは実にこの御言葉に沿って、荒れ野で活動をはじめた、という理解です。荒れ野で叫ぶ者は、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫びました。この人物が、道を整え、まっすぐにする役割をする存在であるかのように思うことがありますが、彼自身がそれをすることもあるでしょうけれども、それに加え、そのようにするように周囲に告げる存在でもあるように描かれています。それに沿って現れたヨハネですから、ヨハネ自身が道を備え、まっすぐにすることももちろんですが、同時にそれを大事なこととして周囲に伝え広める役割を果たそうとしたと考えられます。その時用いた言葉が2節の言葉でした。改めて読んでみますと、
「悔い改めよ。天の国は近づいた」
であって、これは外に向かっての、他者への呼びかけになっています。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という声が他者への呼びかけであったことと共通しています。自分自身メシアのために道備えするための存在であったのと同時に、同じように周囲にも道備えを勧める存在であったのです。
この「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉が、少しあとにイエス様が宣教を開始なさったときの言葉と同じであることから、ヨハネには先見の明があり、優れた存在であったことがわかります。メシアではないものの、重要な人物であることには変わりありません。悔い改めることで、ヨハネは具体的に、マラキ書にある「子の心を父に向けさせる」(マラキ3章24節)ということを念頭に置いていたのではないでしょうか。反省ではなく、立ち帰って父なる神様のもとに帰ることが大事だったのです。それは今も変わりません。
続いて4節ですが、これはヨハネの出で立ちを描写した部分です。「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」という情報を伝達しています。それだけでなく、ここから何か彼の内面的なこと、その人となりを知ることはできないでしょうか。単純なことではありますが、彼は人の目を気にするような人物ではありませんでした。そうであればとてもこのような格好はしなかったことでしょう。彼は常に、自分を神様の前に置きました。そのようにして、自分も主のための道備えをし、周囲の人々にもそのように勧めたのです。もちろん、このような出で立ちがいにしえの預言者、エリヤと共通であったことは言わずもがなです。
このような、見方によれば奇抜な衣装をした人物のところに、人など集まるのでしょうか。ところがどうでしょう。5,6節に目を移すと、「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあります。大勢の人々が集まったのです。今、あの手この手で集客を図る人々には、不思議でならないでしょう。むしろ人々のつまずきになりそうな装いで、これだけ人を集めることができる。その秘訣は、何と言ってもその神様に向かって真っ直ぐな姿だったのではないでしょうか。色々ごちゃごちゃといじくるより、シンプルに、ストレートに神様に向かっていく姿のほうが、案外人々に訴えかけるものがある場合があります。果てには、「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た」(7節)というのですから、驚きです。
しかし、驚くのは私たちだけで、ヨハネの反応は異なります。せっかく彼らが集まってきてくれているのに、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」などと言うのです。時代が時代だったら、このような呼びかけ自体、問題となった可能性もあります。彼らにはまたストレートに、「神の怒り」という言葉を用いて言葉をかけています。
今、この「神の怒り」ということに関して正面切って語られることはどのぐらいあるでしょうか。神の愛については言葉数多く語るけれども、こと「神の怒り」となると、沈黙してしまう。そのようなことを言うものではない、下手するとパワハラだ何だと言われかねない、そんな反応が現代的、というものなのでしょうか。一頃は、このようなことが声高に語られることもあったのです。ジョナサン・エドワーズ(1703年10月5日 - 1758年3月22日)というアメリカの説教者は、『怒れる神の御手の中にある罪人』という題の有名な説教を残しました。聞いた人々は、「罪の意識から会衆は泣き叫び、気絶し、激しい痙攣を起こした」と記録されている、とまで言われています。今なぜここまで出来ないか。人の顔色を見て、気を遣っているのか。はたまた、「そもそも地獄などあるのか」と懐疑的になっているのか。それだけでなく、人々を何とかその滅びから救い出さなければならない、という切迫感も薄れている、という現実もあるのでしょう。主の救いの恵みに与ってそこで魂の安らぎをいただき、束縛から解放されるのであれば、それによって回復された感受性豊かな魂をもって失われゆく人々の魂を憂い、ますます救いを願って熱く心を燃やして伝道に励む、という、ひと時代昔のことのように思われても、なさなければならないことがあるのではないでしょうか。
ヨハネもたいへん熱心です。その熱心な心から、8節のような、「悔い改めにふさわしい実を結べ」といった厳しいことばも出てくるのです。彼はこう続けます。
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる(9節)。
自分の生まれなど関係ない、ということですが、これは特にユダヤ人に向けて語られていることです。私たちは選ばれた神の民だ、だから特別なのだ、と思っていたユダヤ人の何と多かったことか。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(10節)。この切迫感たるや、冷静に朗読することが難しいほどです。もしジョナサン・エドワーズがこの御言葉を読んだら・・・などということを考えます。とても冷静には読めなかったのではないでしょうか。
その反面、これが「自分たちに向けられている」と気づいたからこそ、ユダヤ人たちの中には反感も生まれていきます。それは単にヨハネに向けての反感と言うだけでなく、よりによって神の民であるはずの私たちにまで裁きの矛先を容赦なく向けてくる神様への反感にもつながっていったのではないでしょうか。人はあろうことか神にまで苛立ち、反感を募らせる存在である。それは、聖書の人物であればヨナしかり、またキリスト教の歴史の中ではルターしかり。ルターは、「神は福音においてご自分の義を示された」と読んだときに、神は人々を慰めるはずの福音においてさえ、人をさばく義を振りかざすのか」と反感を持ち、それはほぼ神を恨むのに近い感情であったとまで告白しています。このような負の感情はどんどんユダヤ人たちの胸の中に沈殿していき、やがてはイエス様の十字架において、その敵意と憎しみは頂点に達することになります。
しかし、ヨハネが、ユダヤ人が憎くてそのように言っているわけではないことは明らかです。彼は思いを吐露します。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けている」(11節)。彼らに、父なる神のもとに戻って欲しい、帰ってほしいと思うからこそ、このような厳しい言葉の1つや2つも出てくるわけです。この背景にヨハネの熱い愛があることに気づく必要があります。繰り返しになりますが、ここでの「悔い改め」は、日本人が好きな反省会でも、後悔することでもありません。父なる神様のもとに帰ること、子の心が父の方に向く、ということです。ここで、ヨハネの洗礼はとかくイエス様の洗礼と異なることが指摘されることが多いですが、やり方としては、水を用いていることではイエス様の洗礼と変わらないことに注目しておきましょう。ヨハネの洗礼が一段劣っているとか、一風変わっているとか、そのようなことは決してないのです。
最後の部分、11節の、先程の箇所の続きから終わりまで見ていくと、ここでははっきりと、ヨハネの信仰の姿勢が打ち出されています。
「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(11〜12節)。
当時客人の履物を脱がせるのは召使いの仕事でした。ヨハネが「わたしよりも優れておられる」と認める人物の履物を脱がせることは、自分がその方の召使いであることを示すはずですが、ヨハネはそれすら自分にはもったいない、と言うのです。彼の徹底的に身を低くする姿勢が見て取れます。「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」もその謙遜の一環として捉えられればよいかと思います。自らの洗礼は水による洗礼、しかし私より優れた方、すなわちメシアによる洗礼は、水どころか、聖霊と火による洗礼である、と対比させてより優れた洗礼であることを強調しているところが重要なのであって、つまるところその聖霊と火による洗礼とはどんなものなのか、ということが重要なのではありません。最後は火によるさばき、そしてそれによって残るものと残らないものの違いが明らかになる、ということが暗に示されています。
さて、このように一通り本日の福音書の箇所を見てまいりましたが、本日のテーマ「道を備え、まっすぐに」という観点ではどうでしょうか。まず大事なことは、主が来られるための「道を備え、まっすぐにする」ということです。この場合の「主」とは、もちろん救い主イエス・キリストです。同じ「主」でも、旧約聖書の「主なる神」からの転換が起こっています。もちろん、時代によってはイエス・キリストという名前が明らかになってはいなかったので、その場合はメシア、ということになります。次に、イザヤの預言の言葉をもとに、私たちが道を備え、まっすぐにする必要がある、ということでした。
この件に関して、たとえば「もう私は10年前にそれをした」であるとか、「去年した」と言うのはふさわしくありません。これは、毎年、いや、細かく言えば毎日の私たちの信仰の姿勢であるはずです。皆さんご経験があることでしょう。今だいぶ朝晩寒くなってきていますが、そんなとき熱いお風呂がいちばん、と思って入っても、最初は熱く感じるのですが、それでも、すぐ慣れて、ぬるく感じるようになるものです。だから、道を備えることは、一度やった、去年やった、ましてや10年前に行った、ではなく、いつでもしなければならないことなのです。
では具体的に、「道を備え、まっすぐに」とはどうすることなのかと言うと、それはイエス様へのアクセスを持つ、ということです。道があるとは、目標まで到達できる、ということです。たとえば、5キロ先に宝がある、ということにしましょう。5キロ先に宝があるんです、素晴らしいではないですか!と言っても、それで十分ではありません。そこに宝があることがわかったら、そこにアクセスできる、到達できる、ということが大切です。そのために、道が必要です。それを備え、できれば、曲がりくねって迂回ばかり、ではなく、真っ直ぐに通りやすくしておく、ということが大切です。更に言うと、マラキ書のことば、「子の心を父に向けさせる」にあるように、私たちがイエス様に「心を向けられるようにする」ということが大切なのであって、それを実現するのは御言葉と祈りです。ますます御言葉と祈りに進むこのアドベント第二週であるように祈ります。
では祈りましょう。
父なる神様。
私たちに主イエス・キリストを与えてくださり感謝します。
洗礼者ヨハネが現れ、子の心を父に向けさせようと、
道を備え、その道を真っ直ぐにする働きをしてきましたが、
『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』
という荒れ野での呼び声からすると、
私たちもまた、道を備え、まっすぐにするように勧められていることがわかりました。
到来するイエス様のために、道を備え、真っ直ぐにすることが出来ますように。l
心に一本しっかりと、
イエス様に至る道が出来ますように。
このアドベントの期間、
主の到来を待ち望む良き道備えが出来ますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・今年のクリスマスイブ燭火礼拝は12月24日土曜日午後4時半からです。
・クリスマス献金をおささげしましょう。今年の目標額は75万円です。
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