【聖書交読】 イザヤ7章10~16節(旧約p1071)
司)10:主は更にアハズに向かって言われた。
会)11:「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
司)12:しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
会)13:イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
司)14:それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
会)15:災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。
全)16:その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。
【聖書朗読】 マタイ1章18~25節(新約p1)
18:イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19:夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
20:このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
21:マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22:このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23:「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
24:ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
25:男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
「何からの救いか」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
いよいよ待降節も第四の主日を迎えました。来週はいよいよクリスマス礼拝です。その前に今週土曜日にはクリスマスイブ燭火礼拝も行われます。コロナ禍においてもこのように礼拝の時が守られていることに感謝します。最近は福音書の箇所を1節ずつ丹念に追っておりますが、今日もそのようにして、じっくりと御言葉に触れていきたいと思います。
今日の福音書の箇所は、マタイによる福音書におけるキリスト誕生の記事で、マリアへのお告げからイエス様の命名までがカバーされています。
まず18節を振り返ってみましょう。
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。
ここで福音書記者のマタイは、ミクロの視点での、イエス様がお生まれになった、という出来事だけでなく、繰り返しになりますが、そのお誕生がマリアに告げられた時のことからお生まれになった方がイエスと名付けられるまでを、マクロ的に、あるいは全体的にイエス・キリストの誕生の次第として受け取っています。突如として現れる「母マリア」という表現は、人物紹介としては関係性の中で言われているのであって、具体的に彼女の年齢を知らせるものではありません。それが気になる場合、「ヨセフと婚約していた」というところから、年齢の推定ができる、ということになります。この当時、大雑把に言って2000年以上前のパレスチナ地方、あるいは地中海世界において、女性は何歳頃から結婚という関係性の中に入っていったのか。一説によれば、12歳からそうだった、と言われます。敬虔な女性が一人祈っているところにイエス様誕生のお告げがあった、と想像することが多いかもしれませんが、この年齢だと小学6年生あるいは中学1年生ぐらいからになるわけで、女の子、少女、と言った方がふさわしいでしょう。ちなみに男性は13歳頃から結婚しだしたと言われますが、ヨセフはそれよりも年齢が上だったというのが定説です。若い、いや、幼いとも言える男女の希望がないがしろにされていたわけではないものの、たいていは両親の意向で、律法の規定などを考慮しながら、結婚相手は決められていたと言われています。他民族との結婚は禁じられていましたからマリアとヨセフはもちろんユダヤ人同士であり、しかも、マタイによる福音書とルカによる福音書にある系図から、ふたりともダビデの子孫であることが明らかです。そのようなふたりのもとに、イエス様はダビデ直系の子孫として、来られたのです。ふたりのもとに生まれた、と言わなかったのは、「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と言われているからです。天地創造の神様は、マリアのうちに、その天地創造の力によって、イエス様を身ごもるようになさったのです。
一緒になる前に、すなわち結婚する前に、ということですが、これは婚約状態のうちに、ということです。当時は婚約も非常に大事にされてほぼ結婚と同じように見なされていたところがありました。ですから、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と19節にありますのは、冷たいのでも何でもなく、当時としては当然の成り行きでもありました。それを表ざたにしないように望んだだけでもヨセフは冷静であったと言えましょう。そのようにできた理由を、マタイは「夫ヨセフは正しい人であった」と述べています。この場合の「正しい」は倫理道徳的な性質であるよりは「律法を守っている」という状態を指しています。律法を視野に入れながら息子たちの結婚を考える両親のもとで、律法を守りながら自分たちの結婚関係を考えていこうとしていたのがヨセフであったのです。ここでマタイが注意深く「夫ヨセフ」と表現していることに注目しましょう。「母マリア」という表現に合わせれば「父ヨセフ」になるところ、マタイは「夫ヨセフ」としている。ここでマタイはイエス様の父を永遠の神様であると表明しているのです。
それはそうと、イエス様の誕生の物語は、ひとりの男性の葛藤の中で進んでいることになります。これは、世の葛藤に悩む人々への慰めでもあります。ヨセフが葛藤の中にいたからこそ、主の天使の声が必要でした。20節には、「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである』」という記述が見られます。迷うヨセフを放ってはおかれず、用いるなら夢であってもお用いになって、ヨセフに具体的な指示が与えられます。それが、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」でした。ここでは、マリアは「妻マリア」になっています。このように、この箇所ではマリアにしてもヨセフにしても、関係性というものが大事にされています。そして、いいなずけは正式に妻となるのです。罪ある女性ではない。このマリアは妻である。そのように宣言されているかのようです。この「迎え入れる」ということばは、単純に言えば「取る」「受け取る」といった意味なのですが、傍らに招き入れる、といった意味合いもあります。ここにも関係性が表れていて、親しく迎え入れることを想定していることが見て取れます。そして、これは聖書の一つの原則とも言えると思うのですが、命令の後にはその理由が続きます。単に権威的に命令だけして終わり、ということはありません。妻マリアを迎え入れなさい、と命じるなら、ヨセフはじめ人々が納得するだけの理由を示されるのが神様です。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」という天使の言葉は、神様からの大事な伝言であり、不思議な宗教感覚でも善意からでもなく、この神様からの理由づけによって人は納得して、行動へ移るのです。ヨセフはその通りにし、周囲の人も納得したわけです。人から説得されるわけでも、自然界の理から何かを悟るわけでもなく、神様の御言葉によって人は納得する。このことを大事にしたいものです。
21節にも主の天使の言葉が続いています。聖書の文章が章や節に分けられたのは書かれてからずっと後なので、その分け方が絶対なのではありません。このように記されています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。この天使のお告げには、マリアが産む子の性別、そしてその名前についての情報があります。親戚であってイエス様の道備えのような働きをした洗礼者ヨハネも、その名前が天使によって告げられた人物でした。「イエス」はユダヤ人の間で「イエシュア」あるいは「ヨシュア」と呼ばれる名前をギリシア語風に発音した名前で、「主は救い」という意味です。そこに私たちは特別な意味を見出しますが、当時としては特に珍しいというわけでもない名前であって、ご存知の通り旧約聖書にはヨシュアが登場します。預言者ホセアもほぼ同じ意味の名前ですし、北王国イスラエルの最後の王の名前もホセアでした。大事なことは、このイエス様が何をしてくださるか、ということです。そこで注目したいのが、「この子は自分の民を罪から救うからである」と言われている部分です。イエス様が「主は救い」という意味の名前を持っているから素晴らしいのではなく、この方が私たち人間を救ってくださるからこそ、私たちは賞賛し、信じるのです。しかも、ここでは「何からの救いか」ということまで、明確になっています。そもそも、「救い」には、「何から」ということが密接にかかわっているはずです。たとえば、私が幼少期の頃、冬の福島の冷たい川に落ちた時のことを一例として考えてみましょう。ちなみにこれは実際にあった話です。川面にふわふわと漂う綿毛のような物に気を取られ、うかつに手を出して摺上川という川に落ちてしまった私。その時、私の父は冷たい川に入って、「川から」私を救い出してくれました。この小さなエピソードからわかる通り、「救う」と言うなら、それは観念的なものでは決してなく、必ず具体的に、「どこから」救うのか、ということが付いて回るのです。イエス様の場合について、主の天使は「罪から」救う、とその救いについて定義しました。これが本日の福音書の箇所の中で中心点、あるいはクライマックスとなります。ある意味で私たち人間は罪の中で、そこにおぼれ、自分では自分を引き上げられない状態にありました。だからこそ、誰かが外から私たちを「罪から」救い出す必要があったのです。その大事な役割を担う救い主の誕生が告げられた時でした。今日は少し「関係性」ということに注目してお話してきた部分がありますが、イエス様も私たちと親しい関係性の中に入って来てくださり、私たちを「罪から」救い出してくださるのです。
続く4つの節に関しては、2節ずつ見ていきたいと思います。22~23節では、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。ここには、今で言う旧約聖書のイザヤに聞くマタイの姿が表れています。読者として想定されたユダヤ人を納得させるには、それがいちばんだったのでしょう。ただ、「インマヌエル」を「神は我々と共におられる」と説明しているところは、もう少しグローバルな読者のことも視野に入れていたのかもしれません。ユダヤ人の中に脈々と受け継がれてきたメシア=救い主待望の中に、そのメシアが「生まれる」という概念があったのは、この御言葉のおかげです。だからこそ、イエス様が「誕生」なさった時に、「メシアは赤ちゃんの姿で現れるはずはない、成人の王として到来するのだ」などと言わず、それをメシアの到来として受け止めることができたのです。「インマヌエルと呼ばれる」とは言え、名前は「イエス」であることは矛盾ではなく、むしろ「インマヌエル」はメシアのご性質を表わす、と言われます。イエスという具体的な名を持つメシアが、インマヌエル、すなわち神が人と共にいる、という奇跡的な、夢のような状態を実現させる、ということです。
最後の24,25節となりました。この部分がいちばん時間の経過が長く、ここでマリアとヨセフの結婚、イエス様の誕生、そして命名まで一気に描かれています。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」。ヨセフは主の天使の命じられるとおりにマリアを妻として迎え入れ、生まれた子をイエスと名付けます。ヨセフにとってそれは主ご自身の言葉に従うことであり、その意味では、民をエジプトから導き出すことから移動式神殿である幕屋の建設に至るまで主の御言葉通りに行ったモーセと似ていました。確かにヨセフとイエス様は直接的な血のつながりはなかったものの、モーセのように主に忠実であったヨセフが、第二のモーセのように人々を罪の束縛から導き出す、すなわち救い出すイエス様の地上における父となった。そう考えると、意味深いものがあります。
このように、待降節第四主日、クリスマスを目前に控えて、イエス様のお誕生の記事を辿ってまいりました。私たちの救いは、明確に、「罪からの救い」であることが明らかになりました。誰もそこから自分の力で這い上がることは出来ません。かと言ってそれを絶望と共に告白する必要はなく、インマヌエル、すなわち、神様が私たちと共におられることをまさに体現して下さる救い主イエス様が、その罪の束縛から私たちを救い出してくださる。それはまさにあの出エジプトの大奇跡になぞらえられるようなもので、それによって、暗やみの中に座するしかなかった私たちの絶望的な状況に光が差し、私たちは罪の大河から救われて、新しい岸辺へと足を付けることができるようになりました。そこは私たちを解放して自由にする新しい世界であり、そこで私たちは強いられていやいやながら生きていくのではなく、福音の恵みに心豊かにされながら、人生の困難の中でも慰めと励ましを受けながら生きていくことができるのです。
お祈りしましょう。
私たちの天の父なる神様。
ひとり子を私たちのために世にお遣わし下さり感謝します。
そのことを祝うクリスマスが近づきました。
この一年もここまで守って来てくださり感謝します。
私たちを罪の束縛から救い出してくださってありがとうございます。
その感謝のうちに、主に従って歩むことができますように。
葛藤多きこの世の歩みの中で、
導いてくださる御声に聴き従う者でありますように。
まだ平和を脅かし、争う者の声が聞こえます。
地には平和、と言われた御言葉が実現しますように。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
【報告】
・クリスマス献金の時期となっています。一年の感謝を胸に精一杯おささげしましょう。
・今週土曜日、24日午後4時半よりクリスマスイブ燭火礼拝です。25日はクリスマス礼拝で、昼食会があります。
・お互いの健康が支えられるよう、祈り合いましょう。
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