【聖書交読】イザヤ2章1~5節(旧約1063頁)
司)1:アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
会)2:終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
司)3:多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
会)4:主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
全)5:ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
【聖書朗読】マタイ24章36~44節(新約48頁)
36:「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
37:人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
38:洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
39:そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
40:そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
41:二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
42:だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
43:このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
44:だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
【礼拝説教】「備える」
皆さんようこそこの待降節第一主日の礼拝にお越しくださいました。待降節はアドベントとも言いますね。アドベントは「到来」という意味です。いよいよクリスマスが近づいたのでその準備をしましょう、ということもありますが、もうひとつ、イエス様の二度目の到来を待ち望む期間でもあります。そのことを、「再臨」と言ったりもします。再び臨む、という意味です。そのほかに、教会の暦では、このアドベントから新しい一年となります。とても大事な時期です。
その第一の日曜日に、後の時代のことを告げるイエス様の言葉をご一緒に開いています。テーマは、「備える」ということです。何のために、どう備える、ということなのでしょうか。もう一度、聖書の言葉に目を留めていきたいと思います。
38節、「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」。イエス様は旧約聖書にあるノアの時代のことを引用しています。これは、備えができていない、準備ができていない状態です。人々は、食べたり飲んだり、この時は楽しく過ごしていたのかもしれませんが、そのあと洪水が来て、箱舟に入ったノアの家族と動物たち以外は滅ぼされてしまいました。突然、何の前触れもなくやってきた洪水に、準備ができていなかったのです。こうはならないように、という警告です。
これは、イエス様が再び来られる、再臨の時のことを指しています。37節には、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」と言われています。誰もが予測もしていない時に、イエス様は再び来られるのです。この日のことは、本当に誰も知らないのです。36節をご覧ください。:「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と書かれている通りです。「天使たちも子も知らない」の「子」は子なる神、イエス様のことです。イエス様でさえ、前もってご自身の再臨の時を知らないのです。それは、父なる神様だけが知っておられることだからです。
39節を見ると、「そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」とあります。大洪水が来るのに、誰も何も気づかなかったのです。それと同じように、イエス様の再臨についても、誰もその兆しを知りません。何も気づかないのです。
次に、40節と41節を開いてみたいと思います。この2つの節でひとつのことを言っています。それは、「連れて行かれる者と、残される者がある」ということです。連れて行かれる、というと何だか悪いイメージがあって、残される方がいいのではないか、というイメージもあるかもしれません。しかし、もちろんここは、連れて行かれる、というほうが天使によって救いのために集められるということ、残される、というのは滅びに向かって取り残されてしまうことを表しています。イエス様の当時の人々は、これを聞いて、たいへんだ、取り残されたくない、と思ったのではないでしょうか。皆さんはいかがでしょうか。「二人の女が臼をひいていれば」とありますが、これはひとつの思い石臼を、2人がかりでひいている様子を表している、と言われます。2人で一緒のことをしているのだから大丈夫だ、どちらか片方だけが残されるなどということはあり得ない、といくら思っても、神様の思いは私たちとは異なります。みこころでなければ、いくら一心に同じ一つのことに取り組んでいても、片方だけが残されてしまう、ということがあり得るのです。
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」とイエス様はお話を続けます(42節)。救いにあずかるために、しっかり目を覚ましているように、とイエス様はおっしゃるのです。これが、今日の聖書の箇所の中ではとっても大事なことなのではないでしょうか。いつイエス様の再臨があるかわからないから、準備ができない、と人間は言いやすい者です。しかし、だからこそ、しっかり目を覚ましている必要があるのです。私たちが用心深く待ち望むのは、私たちの主である方が来られる日です。それは、大きな喜びの日でもあります。私たちしもべは、主に忠実であることがたいせつです。そのお方が、「目を覚ましていなさい」とおっしゃるのですから、私たちは素直に、「はい、目を覚ましています」とお答えして、主を待ち望むのではないでしょうか。
次を見ると、「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう」(43節)と言われています。これはどういう意味でしょうか。イエス様が泥棒にたとえられているのでしょうか。不思議な表現ですが、ここでは目を覚まして、しっかり主の再臨に備える、という信仰の姿を伝えている御言葉として読みたいと思います。
最後に、「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(44節)とイエス様はこの部分を締めくくっておられます。この「用意していなさい」という言葉が、「備える」という今日のテーマとつながります。「人の子は思いがけない時に来る」というのが、その理由です。だから、備えている必要があるのです。最初に、「何のために、どう備えるか」と前置きしましたが、イエス様の再臨のために、イエス様に忠実に備えていくのです。
でも、感謝なのは、たとえ思いがけないときであっても、イエス様が来てくださることです。これは私たちにとって、良い知らせなのではないでしょうか。イエス様の再臨の時は、このイエス様によって尊い救いにあずかっている私たちにとっては、愛するイエス様にお出会いする喜びの時です。その時を心待ちにしながら、この待降節を過ごしていきたいものです。
お祈りしましょう。
天地の造り主であられる父なる神様。
私たちのために尊い救いをご計画くださり、
ひとりの御子、イエス様によって、
救いを成し遂げて下さりありがとうございます。
そして、今度はイエス様が王として再び来られることで、
始まりのあった世界にその終焉、仕上げをもたらし、
救いの完成を与えて下さることに感謝します。
このアドベント、クリスマスへ向けての良い備えであるとともに、
再び来られるイエス様のことも再び来られるイエス様のことも思い描き、
再臨の時を待ち望んで過ごすことができますように。
世の中はますます混沌としていってますが、
その中でもイエス様に希望を置いて、
そのお出会いできる日を心待ちにさせてください。
世界に平和が訪れますように。
私たちのもとにも、
御心が行われますように。
愛するイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・先週は秋の特別礼拝でした。
・本日から待降節、アドベントです。礼拝の中でお証しがありました。
・今年のイブの燭火礼拝は4時半からです。
・本日午後2時から母の家ベテル 待降節聖会 第三聖会です。
橘内師のご奉仕です。園田伝道所礼拝は玲子牧師の担当です。
・12月11日は馬渕神学生の説教です。
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