top of page
執筆者の写真明裕 橘内

2022年10月9日 聖霊降臨後第18主日礼拝

更新日:2022年10月27日

【聖書交読】Ⅱテモテ2章8〜15節(新約392頁)

司)8:イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 会)9:この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。 司)10:だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 会)11:次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。 司)12:耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。 会)13:わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」 司)14:これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。 全)15:あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。 【聖書朗読】ルカ17章11〜19節(新約142頁)

11:イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。

12:ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、

13:声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。

14:イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

15:その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。

16:そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

17:そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。

18:この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

19:それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


ここまで気温に差があるとたいへんです。思わず「イエス様、何とかしてください。憐れんでください」と言いたくなるかもしれません。本日の福音書に登場する、重い皮膚病を患っている十人の人はもっと真剣だったことでしょう。自分たちがこれからもこのまま隔離されて生きることを余儀なくされるのか、それとも晴れて共同体の一員に復帰できるのか、という瀬戸際だったからです。


ここでこの「重い皮膚病」について確認しておきましょう。少し違和感のあるこの「重い皮膚病」ですが、このように訳される言葉はもとは「らい」あるいは「らい病」と訳されてきました。それが具体的な病としての「ハンセン病」と結びつけて考えられてしまった場合、これは微妙な問題なので慎重に物を言わなければなりませんが、患者団体からの要望でその訳が使えなくなり、いろいろと工夫が必要となっていった、と表現できるようないきさつがあります。そこで新共同訳は「重い皮膚病」としています。しかし、旧約には、古い訳し方だと「家のらい」と呼ばれるものなどが登場し、おそらく壁に生じるカビのようなものなのでしょうけれども、単に皮膚に関するものとは言えない、しかも病気と断じることもできないことがわかります。なお、この言葉は新改訳第三版から、ヘブル語の「ツァラアト」をそのまま訳さずにカタカナで表記するようになり、何とギリシア語で書かれた新約で「らい」と約されてきた「レプラ」すら、「ツァラアト」と訳すというのか、表記するようになり、これは完全なる誤訳、あるいは翻訳の放棄というものです。ここでは、問題となる言葉によって表される状態は、イエス様の当時、隔離が必要と思われていた何らかの病だったということと、そしてそれは皮膚などのからだの外面に病変が現れるものだった、ということにしておきましょう。


彼らは、まだ実際に自らの病が癒されるのを見る前に、動き出しました。イエス様の「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」という言葉に素直に従ったのです。果たして彼らは癒されました。彼らに与えられた、「見ずして信じる」、すなわち結果を見ないで信じる信仰が、彼らを癒したのです。


ところが、実はイエス様はもうひとつのことを願っていました。それは、戻ってきて、感謝する、そのことでした。ごく自然に、湧き上がる感謝を胸に、ひとりが帰ってきました。わざわざサマリア人だった、と言われています。当時ユダヤ人とは難しい間柄にあった人々の一員でした。


サマリア人のことも、せっかくですからご一緒に整理しておきましょう。旧約聖書の時代のことです。国としてのイスラエルが北と南に分かれたあと、北王国の方の都のように言われるようになるのがオムリ王が築いたサマリアです。北王国イスラエルは紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、植民政策で民族が入り混じり、南王国ユダの側からすると、サマリアに住む人々は純粋なイスラエル人とは思われなくなっていきました。そのため、南王国の人々は彼らを軽蔑することになります。次第にサマリアに住む人々はサマリア人と呼ばれるようになり、南王国ユダの人々はユダヤ人と呼ばれるようになり、このお互いが反目し合うようになるわけです。そればかりか、時代によっては、異民族の血が入っているから嫌われた、というよりは、時には自分たちをユダヤ人と同じような民族と言い、時にはそうではないようなことを言う、日和見的な態度をとるサマリア人をユダヤ人が嫌ったとも言われるようです。


イエス様は、最終的に「感謝を表す」ということが大事であると思っておられたところ、癒された人々の大多数は、とにかく何でもいいから癒されること自体の方が大事だった。結局はこういうことでしょう。重い皮膚病だった人々の願望。それは、ただ癒やされることだったのです。もちろん、これはこれで大きなことです。彼らは実際困っていました。このままでは生きていけない、そこまで追い込まれていたとも考えられます。間違った願望を持っていたとか、彼らの願望は大したものではなかった、ということを言うことはできません。


ただ、ここで「願望」ということについて、考えておきたいのです。願望とは、だいたいが無意識の領域のものであると考えられていますが、願望とは何か、ということを考える時に、そのひとつの定義として「願望とは、その目的を達成する手段がないのに熱望すること」であるということは押さえておきたいものです。願望とは何か。それは、その願っていることを達成する手段がないのに、熱望すること。ということは、この重い皮膚病に苦しんでいた人々は、癒やされることを願望した時、自分たちの中には、その癒やしを達成する手段がなかった、ということになります。だからこそ、イエス様に「憐れんでください」と願ったのです。この願いは、皆さんよくご存知の、「キリエ、エレイソン」という祈りの言葉となり、現代にまで響いています。


この「願望」というのは難しいもので、空腹は食物によって満たされるが、願望を充足する特定の対象はない、という一文がありました。なかなか考えさせられます。確かにそうです。今見ています、重い皮膚病から癒やされること、これは、その目的を果たす手段がないだけでなく、何によってその願望が満たされるか、明確ではない、という性質を持つのです。ここに問題が隠れています。だからこそ、本当のところ何が大事か、ということは、ぼかされてしまってもおかしくない状況だった、ということになるのです。いや、重い皮膚病を抱えていた人々の願望なのだから、その願望はその病の癒やしによって満たされるということで間違いないではないか、とも考えるのですが、そうとも限らない、ということなのです。


少し考えてみたいのですが、例えば最近驚いたことがありまして、それは今年のノーベル平和賞のことです。時節柄ふさわしい、そうなるのも当たり前だと、ロシアのウクライナへの軍事侵攻について異を唱えるウクライナ、ロシア、ベラルーシの人権団体がノーベル平和賞を受賞すると聞いて何の違和感もなくおりました。ところが、当のウクライナからは、このことに疑問が呈されている、というのです。私が感じない違和感というものを、感じている人々もいる。このことに驚きました。ウクライナの人々は、何であれ、その願望は平和であり、このノーベル平和賞で平和に近づくのなら、それで皆が喜んでいるのではないか、と薄っすらと思い浮かべていたことが、そんなに簡単なことではないことがわかりました。願望というのが、何によって満たされる、ということが明確でないからこそ、そして、それがもともと実現する手段を持たないことも相まって、何が大事なことなのかは一概に言えない、ということが明らかになってきました。ウクライナのことの場合、彼らにとって、ノーベル平和賞によって彼らが脚光を浴びること、そして彼らを取り巻く世界が、それによってウクライナが平和に近づくのではと期待することが、必ずしも大事なこととは限らない、ということになるわけです。


本日の福音書の、この重い皮膚病の人々も同じかもしれません。私たちは、彼らは病だったのだから、その癒やしが大事だったに違いない、と考えます。本人たちもそれは同じで、それが実現すれば、彼らはもう何もそれ以上必要ないと、もう隔離されない、自分たちは自由だ、とばかり、どこかへ行ってしまいました。しかし、その中で別な価値観が打ち出され、それはイエス様により、癒やしを感謝すること、その感謝を具体的に述べること、と明らかにされました。実はその価値観を共有して、そのとおりに行ったのはひとりだった。10人のうちのひとり。これは寂しいことだったのではないでしょうか。


イエス様は感情を押し殺して言葉を飲み込むことなく、「癒されたのはほかにもいたはずだが」と口にしています。これも大事なことのひとつだと思います。ただ我慢、というのではなく、思っていること、その心情を吐露するのです。


ただ、私たちの主イエス様は、その思いに流されることなく、戻ってきたサマリア人に「あなたの信仰があなたを救った」との最高の祝福の言葉を投げかけています。そうすることが大事だと、わかっていたからです。この祝福の言葉は、イエス様のご性格から考えると、帰ってきたサマリア人にだけ、ご褒美のようにして語られた言葉ではなく、イエス様の心の中では、帰ってこなかった他の9人にも向けられた言葉であると信じたいと思います。



本日の福音書の箇所を振り返った時、癒やされただけで帰ってきて感謝しなかった人々のうちに、自らを見出す、ということもあろうかと思うのです。私たちも、何か願っても、そもそもその願望を実現する手段を持たないからこそ願うのであり、お腹が空いたら食べればとりあえずは満たされる、というような単純な話ではないので、何をもって自分の願望が満たされたか、というのが捉えにくい。だから、たとえば病だったら、それが癒やされることを願うことがすべてであって、そこに実はさらにその癒やしを感謝する、という大事なことがあることにはなかなか気づかない。これは別のケースを想定しても同じで、経済的困難、人間関係の悩み、将来への不安、こういったことからの解決を願望として抱く時、大概はその問題自体が解決することで満足してしまって、それに感謝する、というところにまで至ることが少ない。だからこそ私たちは赦しを願うのであり、そのように大事なことが見えず、多くの場合、イエス様に感謝することを忘れているのに、それでもなお私たちを「あなたの信仰があなたを救った」との言葉で祝福し続けてくださるイエス様に感謝するしかありません。しかも、その信仰すら、イエス様をヘブライ書に従って信仰の創始者と呼ぶ以上、イエス様が与えていてくださるものなのに、それを「あなたの信仰」と言ってくださることには、ただただ頭が下がる思いです。共に感謝してお祈りいたしましょう。


愛するイエス様。

あなたが私たちに命を与えてくださり、

また信仰すら与えてくださること、

改めてありがとうございます。

わかっているべきことすらわかっていないなかで、

何を望むべきなのか、また望む上で何が大事なのかさえ、

わかっていない面があります。

問題が解決しさえすればもうあとはイエス様のことさえ顧みないような面がありはしないでしょうか。

あなたの前に悔い改めます。

なおも十字架においてあなたの赦しがあることを受け取り、

改めて願うこと、そしてその中で何が大事か、ということに向き合っていきたいと思います。

あなたに感謝すること。

シンプルでありながら時に忘れがちなこのことを、

もう一度教えて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン



【報告】

・来週は礼拝後、予算総会となります。ご欠席になる際は委任状をご提出ください。

・11月20日、秋の特別礼拝です。池上安先生が講師です。


閲覧数:16回0件のコメント

Comments


bottom of page