聖書交読 詩編46編
司)1:【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
会)2:神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
司)3:わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも
会)4:海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ
司)5:大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。
会)6:神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
司)7:すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
会)8:万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
司)9:主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
会)10:地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
司)11:「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
全)12:万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
聖書朗読 ローマ3章19~28節(新約p277)
19:さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
20:なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
21:ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22:すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23:人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24:ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25:神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26:このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
27:では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
28:なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
説教 「宗教改革の目指したもの」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
先週の月曜日からめまいを発症し、ようやく金曜日にふらふらしながら耳鼻科を受診、左の三半規管に耳石が入ってしまっているとのことで治療を受け、今日ここに立っているのは奇跡のようなものです。
毎年、10月31日を宗教改革記念日として祝っておりますので、その直前の日曜を宗教改革主日として記念しております。ルターが、宗教改革のきっかけとなった『95か条の提題』を発表したのが1517年の10月31日、と言われていることによります。
そもそも、本日開いておりますローマの信徒への手紙を書いたパウロが、心血注いで、自分が発見した福音を広く伝えようとしていたのです。それで、自分は行けないけれども、せめて手紙を、ということで、ローマに宛てて手紙を書いたのでした。しかし、それで福音を十分に伝えられたと思われていたローマが、のちにはローマ・カトリック教会の中心地となり、意図的かどうかは別として、ルターの時代には福音を曇らせる結果となっていたのは皮肉なことであり、実に残念なことです。
その原因は幾らも指摘されうるでしょうが、今日は聖書がごく一部の人の所有に限られていたこと、それから、ラテン語で聖書を読む事になっていた、これらのことだけ確認しておきたいと思います。そのような状況を想像することは非常に難しいですが、事実、パウロが手紙を書き送り、後年は実際にその足でその地に渡って福音を伝えたローマにおいて、パウロによる良い種が蒔かれていたにもかかわらず、人々から福音を覆い隠すことが行われていたのです。
今日はローマの信徒への手紙を取り上げている以上、パウロとルターの比較、ということが避けられません。熱心なファリサイ派であったパウロが福音と出会ったことと、熱心な修道士だったルターが福音の再発見をしたことがだぶってきますが、混同してしまわないようにご注意いただきたいと思います。
パウロのケースですが、申しましたように熱心なファリサイ派として律法の研究にいそしみ、何の疑問もなく律法遵守の生き方を貫いていた、と言いたいところですが、そうとも言えないかもしれません。そのきっかけはステファノでした。使徒言行録の7章に記録されていることですが、ステファノが今で言うユダヤ教からの圧迫によって殉教する際、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで最期を迎えるのを目の当たりにし、パウロの心には何か、こちらに本物があるのではないか、といったような予感のようなものが生まれたのではないかと推察します。そのような小さな葛藤を抱えたまま、イエス様を信じる者を迫害しようとダマスコに向かう途上で、パウロは復活のイエス様に出会い、今までの律法絶対主義の生き方が誤りであり、イエス様の存在自体を福音として体験し、自分の命が取られずに生かされたことも福音、律法によらずに生きていることが肯定されることも福音、自らの体験をすべて福音による自由と解放と捉えて、のちの手紙の執筆へと向かっていきます。
ルターにとって「神の裁き」とは個人的に強く迫ってくる概念でした。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」(20節)とは、パウロだけではなく、ルターの実感でもあったのです。その、誰もが服さなければならない神の裁きのもとから、どうやって逃れるのか。それが、ある意味でルターの一生の課題であったわけです。それに取り組み、個人的には福音の再発見によって天の門が開かれるような経験をしつつも、それをどう自分一人の体験に留めずに広く伝え、理解してもらうかということには、苦労しました。次々と襲い掛かる病、周囲の無理解、そしてその思惑に振り回される日々において、晩年などは、自分の運動はほぼ失敗に終わるのではないか、と気落ちすることも度々であったとまで言われます。個人的に幸福だったのかどうか、答えを見出せぬまま、いつしか彼の運動は「宗教改革」と祭り上げられ、本人は望んでいなかったのに彼の名を冠した「ルーテル教会」が生まれ、世界、ことにキリスト教の世界を大きく変えたと評されるも、本人としては、「福音によって神の裁きから逃れえることを体感できたらそれでよかった」ということだったのかもしれません。
そうすると、ルターが宗教改革をしたとして、その目指すものは何だったのか。それは2つほど考えられます。まずひとつ、それは、「彼の手の届く範囲の、カトリックの改革を目指す」ということでした。そしてもうひとつ、それは、「彼個人の体験を、広く伝える」ということです。特に、この二つ目の方、個人の体験を個人にとどめずに、広く伝えていく、ということには、苦心したと思われます。何せ個人の心の中に起こった大きな変化ですから、それを外側に出して人々の前に描き出し、同じ理解に達してもらうにはいくつものプロセスを経なければならなかったはずです。その手段として、彼は説教を用いました。教えが浸透するように、コラールという、礼拝に参加している皆が一緒に賛美できる讃美歌を作って、歌う、ということを通して、体験を共有できるように工夫しました。また、目指したことの一つ目にあるように、目指したのがあくまでカトリックの必要な部分の改革でしたので、すべてを変えようとしたわけではありませんでしたから、福音を伝えるのに有益だと思われるものは積極的に用いていきました。オルガンをはじめとする音楽、また絵画が人々の心を動かし、心に訴えるものがあると思えば、それらを積極的に自らの運動の中に取り入れていきました。また、当時の印刷技術の進歩と相まって、文書による自らの考えの伝播が有効であると思えば、彼は寸暇を惜しんで執筆活動に没頭し、それは短期間での新約聖書の翻訳にまで至ったのです。残念ながら当時は印刷された新約聖書一冊で牛一頭、調べますと20万円から30万円程度に値するほどの高価なもので、誰もかれも買うことができたわけではありませんでした。しかし、それを幸いにも買うことができた人の中には、これまた幸いにもそれを辻に出て大声でそれを朗読する、という志が与えられた人があり、それによって一般の人々でも聖書の言葉の朗読を耳にすることができた、と言われます。これは、聖書が印刷されてもなお、いにしえの時代のように、「神の言葉を聞く」という大事な姿勢が保たれた、ということであり、重要なことです。
このようにして、ルターの個人的な体験は、個人のものにとどまらずに、徐々にまずは彼の手の及ぶ範囲に広がっていきました。もちろん、主にカールシュタットと言う、同じ宗教改革者と言いながらルターとは袂を分かつことになる人物による過激で熱狂的な運動があり、再洗礼派と言われる人々の間違った主張があり、果てには弟子であると目されるようなメランヒトンという人物による、カルヴァンという改革者の教えの方に流されてしまうというような様々な反対要因もありました。それで、先に述べたように、ルターは自分の運動が失敗だったのではないか、とまで心配したわけですが、律法の束縛の中からパウロが発見した福音を、ルターは自らの内的苦闘の中から再発見し、それを大事にして周りにも伝えていく、ということを地道に続けていきました。それがどう評価されるかは、今後もいろいろな説が出されていくのでしょうが、こうしてルーテル教会が存続し、福音を何よりも大事にしようとする人々がいる、という事実こそが、彼の功績を物語るものだと思っております。
「与えられる義」(22節)が再発見されて、「獲得する義」という能動的義は舞台裏に去り、受動的義がルターによって主張されるようになったことを忘れずに、そこを丁寧に掘り下げ、大事に後に伝える者でありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。
人のすべての営みを天からご覧になり、
その過ちを見抜き、
時に応じて、パウロを立て、
またルターを立て、
折々に過ちを正す機会を与えてくださり、
それが新約聖書として残り、
あるいは宗教改革としてその伝統が私たちのところまで届くようにしてくださり、
感謝をいたします。
10月31日の宗教改革記念日を前に、
このようにして宗教改革主日として、
みことばを聴いてまいりました。
パウロが律法に依らない義を発見し、
ルターがそれを受け継いで信仰による義を確立したように、
私たちのうちにも、
自らによって立つ傲慢を退け、
ただあなたに身を寄せて、
あなたのお遣わしになった救い主を信じ、
獲得するのではなく、
あなたから与えられる義に期待する者でありますように。
あなたの前に立つことなど想像もできなかった者が、
信仰によって義とされて、
あたかもあなたの前で一度も罪を犯したことのない者のようにみなしていただき、
堂々と胸を張ってあなたの前に出ることができるようになった幸いを覚えます。
この高度に複雑化した世の中を生きるのには、
それだけでもストレスの多い現代社会ですが、
その中でも生きる力を失わずに、
福音によって希望を持って生きる者でありますように。
救い主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
【報告】
・本日は宗教改革主日です。典礼色は赤です。
・来週は召天者記念礼拝で、典礼色は白となります。
その後一旦聖霊降臨後の季節の緑に典礼色が戻りますが、
11月27日には待降節が始まり、典礼色は紫に替わります。
このような、赤⇒白⇒緑⇒紫と典礼色が目まぐるしく変わる、
変化に富む季節を過ごしてまいります。
そして、待降節から、新しい教会暦の一年が始まります。
・11月20日、秋の特別礼拝です。ゲスト説教者は池上安先生です。
祝福されたときとなるよう祈りましょう。
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