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執筆者の写真明裕 橘内

2022年10月2日 聖霊降臨後第17主日礼拝

2022年10月2日 聖霊降臨後第17主日礼拝

【聖書交読】詩編37編1〜9節(旧約p868)

司)1:【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。

会)2:彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。

司)3:主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。

4:主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

司)5:あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい

会)6:あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。

司)7:沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。

会)8:怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。

全)9:悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。


【聖書朗読】ルカ17章5〜10節(新約p142)

5:使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、

6:主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

7:あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。

8:むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。

9:命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。

10:あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」



【説教】「私たちの願い」

皆さんは今何か、「どうしてもこれを」ということで、かなえられてほしいと願っておられることはありますでしょうか。今年に入って相次ぐ値上げ、またこの10月からも値上げされるものがあって、物価の上昇に歯止めがかからない今だからこそ、「物価がこれ以上上がることがないように」という願いも生まれてくることでしょう。また、今の時期でこの暑さでは、これからどうなるのだろうか。これではからだがもたない。何とか程よい天候に落ち着いてほしい。そのような願いもあるかもしれません。


ただ、私たちの思っていることと、イエス様が考えておられることが違う場合があります。願い事の場合も同じで、私たちが熱心に願い求めていることと、イエス様のみ心が合わない場合もあるわけです。今日の福音書の箇所も、そのことを表しているかもしれません。弟子たちはこう願います。「わたしどもの信仰を増してください」。人間的に考えれば、信仰はないよりはあったほうがいいのはもちろんのこと、できれば小さな信仰より大きな信仰の方がいいような気がします。その前に、何度も赦す、ということをイエス様が教えられたので、そのためには、信仰を増してもらわなかったらやっていけない、と思ったのかもしれません。この章の4節のことです。


一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカによる福音書/ 17章 4節)


この「7回」というのは、「何度も」というような意味合いもありますから、これは大きなことだ、となったわけです。信仰を増してもらえなかったら何も出来ない、と弟子たちが感じても無理はないところですね。



しかし、イエス様はこの「信仰を増してほしい」という弟子たちの願いに対し、「ではそうしよう」といったような肯定も、「それは必要ない」という否定もしておられません。イエス様の口から出るのでは、「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」という、その意図がつかみにくい教えです。しかも、信仰の話はどこへやら、続いては忠実で腰の低い僕像が語られていく。これでは弟子たちはイエス様の真意を理解できたのでしょうか。


改めてイエス様の御言葉を確認しますと、


「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」


とのことでした。6節の御言葉です。先程は、信仰を増してください、と願う弟子たちの発言に、イエス様は否定も肯定もしておられない、とお話しました。「よし、それをかなえよう」とも、「そんな願いはだめだ」とも仰っておられないのは確かです。ただ、「からし種一粒ほどの信仰」という表現を、「からし種」がたいへん小さな粒であることから、信仰は大きくなくても、小さくても、それはそれでいいのだ、十分なのだ、ということを言っておられるとするならば、やはり私たちの思っていること、願っていることとイエス様の御心には開きがある、ということになろうかと思います。


ここで大事なのは、弟子たちは信仰が大きければ良い、という価値観でいたところ、イエス様にとってはそれよりも、ご自分に対して忠実かどうかを見ていた、ということです。ここにずれがあったのです。その事に気づいてほしかったのが、イエス様でした。だから、つながりがわかりにくかったとしても、ここで続いてイエス様は僕のお話をしておられるのです。


やや唐突な感は否めないのですが、そのように、ご自身に対して忠実であることを大事と見ておられたイエス様は、7節からの部分ですが、「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合」と切り出して、僕がその主人に対して忠実であることについて、教え始められます。主人は僕に対して仕えるわけではない。むしろ、僕が、主人の命令に従って忠実に仕えるのだ、ということ。そしてもうひとつ大事なのが、「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」という反意疑問文です。本当に質問しているのではなくて、最初から「いいえ」という答えを想定した疑問文です。「すべきことをしただけのことで、主人は僕に感謝するだろうか、いいえ、するはずがない」という、ある意味での強調文です。僕は自分のつとめを果たしたからと言って、それで誇ることは出来ない、ということを、イエス様はここで主張しておられるのです。


ところが、時に人間は、すべきことをしたに過ぎないのに、さも大きなことをしたかのように、誇り高ぶることがあります。自分がしたことは当たり前ではなく、かといって他人のしたことは当たり前。それで、不平不満を言ったりすることもあるのです。


このあたりのことは、なぜ主であるわたしの方が身を低くして、「ああ、あなたの願いはこれですね、承知しました」と仕えなければならないのか、まずあなたがたの方が、すべきことを果たしていくべきではないか、というひとつの真理を表しているようでもあります。また、もしイエス様によって信仰を増してもらったとしても、下手をすると人間はそれによって、「私がこれだけのことをした」と、自分の手柄にしてしまう危険性もある。そのことのための対策としてイエス様が打ち出しているのが、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」という明確な教えです。これは正直なところ、結構難しい。言われたことにせよ、これをやるのはたいへんだったのだ、少しは認めてほしい、と思ったりしてしまうわけです。自らを殺し、あるいは隠すようにして、「しなければならないことをしただけですので、何もお礼を言ってもらわなくてもいいし、ましてや評価なんていいですよ」と言うのは、頭の中でいくらそうしなければならないと思っても、なかなか出来ないことです。


イエス様としては、厳しい言い方をすると、いくら立派な信仰を持つようになったとしても、人間として基本の部分、自らを低くして生きる、ということが出来ていないのなら、何の意味があるか、とおっしゃりたいぐらいのことだったかもしれません。もちろん紳士的なイエス様はそこまであからさまにはおっしゃいませんけれども、イエス様は人間の弱い部分を知っておられて、あえてこのようなことを教えようとなさったのではないでしょうか。


大きな信仰を持って、それを誇りとして生きていこう、という弟子たちの姿に対して、たとえ目立たなくても忠実に生きることの尊さを、ここでイエス様は教えようと願っていたのです。私たちもそれに沿って、イエス様に対して忠実であることを願って毎日を送っていきたいものです。


ちなみに、この部分だけでは、そのようにたやすく誇り高ぶってしまう人間に対する最終的な神様のご判断は示されていません。しかし、もう一度4節の所を確認しましょう。七回赦しを求められたら、惜しみなく七回赦していく、ことのことは、人間にだけ課されたものなのでしょうか。これはイエス様も、ともに負ってくださる、ご自分にも課された定めなのではないでしょうか。私たちは、「イエス様、またちょっとのことで、あたり前のことをしたに過ぎないのに、誇り高ぶってしまいました」とイエス様の前に出る。イエス様は、それを聞いた上で、「わかった。よく告白してくれた。そのことを神様の前で思い出されないようにし、もう罪として取り上げられることのないようにしよう」と言ってくださるのです。この赦しは、私たちが実感するかどうかに関わらず、聖餐式において、私たちが口で味わうことができるまでに身近な姿で、私たちに差し出されます。そのような赦しの恵みがあることに、私たちは感謝するものです。


お祈りします。

天の神様。

七度悔い改めたら、七度とも赦してくださる方であること、

感謝します。

いや、それ以上に、何度でも赦してくださることに改めて感謝します。

そのために、イエス様は尊い犠牲を払い、

十字架にかかってくださいました。

そこまで追い込んでしまったことに申し訳なく思うとともに、

十字架による赦しと救いが私たちに聖餐式において提供されること、

それを手で取って口で味わうことができることにも感謝します。

すべきことをしたのに、なにか大きな働きをしたかのように誇るのが人間です。

そのような愚かな面がありますが、赦しがあることに励まされ、

また新たな気持ちで、今日から始まる新しい一週間に向かっていくことができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン



【報告】

・10月16日が予算総会です。礼拝後開催されます。

・11月20日、秋の特別礼拝です。池上先生がお越しくださいます。

・10月23日は堺育麦キリスト教会の豊島先生と交換講壇です。


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