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執筆者の写真明裕 橘内

2022年10月16日 聖霊降臨後第19主日礼拝

【聖書交読】詩編121編(旧約968頁)

司)1節【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。

会)2節 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

司)3節 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。

会)4節 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。

司)5節 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

会)6節 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。

司)7節 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。

全)8節 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。


【聖書朗読】ルカ18章1〜8節(新約143頁)

1:イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

2:「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。

3:ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

4:裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。

5:しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

6:それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。

7:まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

8:言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

秋晴れの気持ちの良い朝を迎えました。新しい一週間が始まったこの日、私たちは何を願うでしょうか。先週との比較で何か物事を考えることも多いですので、先週バタバタと過ごしたので、今週は落ち着いて過ごしたい、であるとか、今週はあまり気温の変動もなく、何を着るのか、服装のことであまり悩まないで過ごしたいとか、そのようなことを願うこともあるでしょう。

本日の福音書で目を引くのは、とにかく「絶えず祈る」ということです。イエス様も、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教える」という明確な目的を持って、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」のたとえを話されます。ここまではっきりとたとえ話の目的が述べられているのはこのたとえ話の特徴です。私たちはここから祈りの重要性を知るのであり、しかもしつこいほどに、執拗に祈ることが大事であることを学び取ります。

これは弟子たちに語られたたとえ話です。これより前の箇所には、神の国がいつ来るのか、というファリサイ派の人々からの質問にイエス様が答えておられるシーンが描かれています。ファリサイ派というのは、分離派とも言われるような、律法遵守に熱心な人々で、それゆえイエス様と衝突することがたびたびでした。その質問に対して、あなた方が思っているような形では神の国は来ないから、よく注意しておくように、といったことがイエス様のお答えの内容でした。これはいわゆる「終末論」であって、これから先、世の終わりに際して起こることについての教えです。このことを併せて考えると、終末に関して、気を落とす人が少なからずいた、だからせめて弟子たちには、気を落とさずに絶えず祈る者であってほしい、というイエス様の側の願いがあったことがうかがわれます。終末に関して気を落とすとは、長く神の国の到来を待っているけれども、待てども待てども一向に神の国が来るような兆しはない、だから結局神の国の到来などないのではないか、といったような嘆きのことです。そのように気落ちしてしまうことのないように、ということです。

そして、結論としては、神様が速やかに裁いてくださる、すなわち、困難の中にいる者を救い出すために弁護してくださる、ということが述べられています。この困難というのは、日常生活を送る上で私たちが経験する様々な困難もありますし、また、このように終末のこと、神の国の到来に関して、希望を持っていくことに困難を感じている、そのような人々が抱えている困難、と言うこともできるでしょう。

このたとえ話をざっと見ていきますと、興味深いことに「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」が登場します。読んでいきますと、この登場人物を神様と比較して、「この裁判官ですらこうなのだから、まして神様はこうしてくださる」といった展開になっていることがわかります。小さい方にあてまはっていることが、より大きな方にもあてはまる、というユダヤ式の考え方で、人間の裁判官にあてはまっていることは、より大きい神様にも当てはまる、という論法です。このような、人を人とも思わない裁判官ですら、執拗に願うなら裁判をしよう、と思うのだから、それより大きな存在である神様であれば、祈り願う者をほうっておかれるはずがない、というわけです。

このことは、祈り願う者の希望になります。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」とは大きな約束の言葉であり、祈りが聞かれることを私たちに確信させるものです。ここで「選ばれた人たち」とありますから、まずイエス様の念頭にあったのは神の約束の民、イスラエル人、そして目の前にいる弟子たち、ということだったでしょうが、この言葉が私たちにも開かれた聖書の中にあることで、私たちのもとにもこの約束の言葉が伝えられてきています。神様が願いを聞いてくださることが確かであること、そしてその速やかであること、このことを私たちは信じることができるのです。

しかし、気になるのはイエス様の最後の一言です。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)。これがあって、このたとえ話が単なる「祈りは聞かれる」といったことだけを教えているのではない、ということがわかってまいります。

「人の子が来るとき」。これはイエス様が将来に王として再び来られる、いわゆる「再臨」のときのことを指しているので、「これから先、どうなるか」ということに関わってくると考えられます。イエス様の再臨の時、果たして地上に信仰が見出されるのか。この言葉が表す状況に関して、多くの信仰者が現実に失望して、祈るほどの信仰を持っていない、という悲惨な状況を指すと理解されることもあります。ただ、イエス様のお話の流れからすると、そのような否定的なことをここで述べられるのだろうか、と疑問に思うことがあります。どう考えたらいいのでしょうか。

先に、イエス様の再臨、とさらっと言ってしまったので、もう少しこのことについて確認をしておきましょう。イエス様は約束の救い主として、この世に誕生なさいました。そして、十字架と復活を経て、救いのわざを完成なさり、天へと帰っていかれました。それで終わり、というのではなく、続きがある、ということです。それが、再臨です。先程、「イエス様が将来に王として再び来られる」と申しましたが、一度、弱々しい赤ちゃんの姿でこの世に来られたイエス様は、今度は栄光に満ちた王の姿で、この世に終末をもたらすために来られる、このことを「再びこの世に臨む」ということで、再臨、と呼んでいます。

調べていきますと、旧約聖書では、イエス様のこの二度の到来を区別してはおりません。特にキリストを預言した預言者たちがそうでした。なので、どれがイエス様の再臨を預言しているのか、そもそもそれが本当に再臨のことを言っているのか、ということに関してはわかりにくというのが現実なのですが、例えばゼカリヤ書の14章4節などは、再臨についての預言なのではないか、と言われています。このような御言葉です。

「その日、主は御足をもって

  エルサレムの東にある

   オリーブ山の上に立たれる。 

    オリーブ山は東と西に半分に裂け

     非常に大きな谷ができる」

このようなたけだけしい主の姿は、イエス様の最初の、赤ちゃんとしてこの世に到来する姿には似つかわしくないし、そもそも、この冒頭の「その日」という言い方は、旧約独自の、終末を指す表現です。これは再臨のことを表す旧約の預言、と言って良いでしょう。

この再臨に関しては、その重要性が、物の本によりますと、「再臨信仰は救いの完成の信仰です。もしこの信仰が崩されれば、創造の信仰も、十字架と復活の信仰もすべてが宙に浮いてしまうのです」といった言葉で強調されています。また、有名な内村鑑三は、「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその脳髄であろう。再臨なしに十字架は意味をなさない。したがって、我々クリスチャンは再臨の信仰の立場に立って聖書を通観する必要がある」とまで述べているそうです。

そのような、重要な「再臨」といった視点で、このたとえ話を再検討する必要がありそうです。特に、意味深なイエス様の言葉、「その時に地上に信仰が見られるだろうか」という言葉に関しては、そのことが必要です。

そもそもこのイエス様の言葉ですが、疑問文でありながら、実際は「いや、そうではない」という否定の答えをすでに想定しているいわば強調文で、「地上に信仰が見られるだろうか、いや、見られない」ということを主張しているのです。イエス様が再臨なさるという大事な時に地上に信仰が見出されないとは、どういったことなのでしょうか。

考えてみますと、信仰が必要なのは、イエス様と離れているからです。イエス様は全能の神様なので、どこにでも存在できる方ですし、だからこそ、私たちが毎月行う聖餐式の中にもおいでになることができるのですが、とりあえず今、イエス様は天におられ、私たちはこの地上に置かれている、と整理しておきましょう。その現状においては、イエス様と私たちは距離的に離れており、私たちはこの目でイエス様を見ていないので、その存在と、どのような方であるかということ、私たちに何をしてくださったか、といったことは、私たちが信じる領域のことです。

しかし、イエス様が来られて実際に間近にお会いできたら、話は別です。もう信仰は必要ありません。イエス様がおられることはもちろん、イエス様がどのような方か、すぐわかります。イエス様と顔と顔を合わせてお会いし、もはや信じるも何も、そこに実際におられる方と過ごす時を喜ぶのです。地上に信仰が見られない、というのは、悪い意味ではなくて、そのような喜ばしい状況を表しているのです。もっと言うと、私たちはイエス様の再臨の時、引き上げられる、と言われています。次のような聖書の約束の言葉があります。

「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」 (第一テサロニケ4:16〜17)

いつまでも主とともにいるようになる、という、夢のような約束が見られますが、このように、私たちはどこで再臨の主に出会うかと言うと、引き上げられて、空中で主と会う、と言われているのです。であればこそ、もう地上での話ではないのですから、地上に信仰が見られない、というのも大いにあり得ることです。そのような将来の喜びの時の希望を、ここでイエス様は語っておられるのではないでしょうか。期待して、ともにお祈りいたしましょう。



天の父なる神様。

私たちに大いなる将来への希望を与えてくださり、

感謝します。

この地上では願っても願ってもかなわない、

と思ってしまうことが多々あり、

それは現在も続くウクライナとロシアの戦争や、

相次ぐ値上げのことも含まれるのですが、

あなたは確かな約束として、

イエス様の再臨をご計画くださり、

私たちがこの困難と悲しみ多き地上から引き上げられ、

空中にてイエス様とお出会いする喜びの時を与えてくださること、

その約束をありがとうございます。

そのことを遥かに仰ぎ臨み、

毎日の暮らしを確かな足取りをもって送っていくことが出来ますように。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン



【報告】

・本日礼拝後、予算総会となります。ご欠席になる際は委任状をご提出ください。

・11月20日、秋の特別礼拝です。池上安先生が講師です。


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