2026年7月26日 聖霊降臨後第九主日
- 明裕 橘内
- 4 日前
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聖書交読 詩編119 編129~136節(旧約p965)
司)119:129 あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります。
会)119:130 御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。
司)119:131 わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。
会)119:132 御顔をわたしに向け、憐れんでください/御名を愛する者への裁きに従って。
司)119:133 仰せのとおり/わたしの足どりを確かなものにしてください。どのような悪もわたしを支配しませんように。
会)119:134 虐げる者からわたしを解き放ってください。わたしはあなたの命令を守ります。
司)119:135 御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください。
全)119:136 わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです。
聖書朗読 マタイ13章44~52節(新約p26)
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
説教 「天の国の宝」
説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
相変わらずたいへん暑い毎日が続いています。皆さん、体調の方はいかがでしょうか。もうこうなると、1週間生きる、ということだけで大仕事、主が皆さんをねぎらってくださるよう願います。
過酷な一週間の旅路を終えた私たちには、天の国の宝が示されています。本日の福音書の箇所は、私たちに天の国について語っています。
本日は44節から読んでいますが、このマタイによる福音書13章は、全体が天の国のたとえとなっています。そこから天の国の希望をいただき、信仰の成長に向かって行くという点では、まさにこの章は、聖霊降臨後の典礼色が緑の季節にふさわしい箇所です。
この章はまず、皆さんもよくご存じの、「種を蒔く人」のたとえから始まります。そして、弟子たちに問われるままに、イエス様はたとえを用いて話す理由を説明なさいます。そのうえで、このたとえ自体の内容の説明をなさいます。天の御国の言葉を聞いてそれを悟る人は、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ、という信仰の成長が語られます。
続いて「毒麦」のたとえが語られ、良いものと悪いものが一緒に育ち、それをよりわけるのは刈り入れの時まで待たなければならないことが語られます。「からし種」と「パン種」のたとえにおいて、天の国の爆発的な成長が語られたのち、改めて「毒麦」のたとえが取り上げられ、イエス様によって説明が加えられています。それによると、この「毒麦」のたとえにはたいへん終末的な色合いがあり、
「イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」
(マタイ13章37~40節)
と、かなり明確に説明がなされています。
世の終わりの時まで御国の子らと悪い者の子らが混在する、しかもそれを選別するのは御国の子らではなく、終末時に刈り入れる天使たちである、と聞くと、この世においてなぜ苦しみや不幸があるのかが見えてくるような気がします。しかも、その中で私たちがすべきことは忍耐することであり、間違っても誰が悪いものの子らであるか、犯人探しをすることではない、ということも教えられるのです。
そのような流れの中で、今日の44節から52節が来るのです。新共同訳の便利な小見出しによると、「『天の国』のたとえ」と「天の国のことを学んだ学者」という部分に当たります。
44節は、「天の国は次のようにたとえられる」というイエス様の言葉で始まります。これは、同じ天の国についてのたとえである24節からの「毒麦」のたとえと同じ始まり方です。また、続く45節も、また47節も、同じ始まり方をしています。聞く者に、これから話されるたとえ話が天の国についてのものなのだ、ということを知らせる重要な役割をしています。
44節で語られているのは、「畑に隠された宝のたとえ」です。このようにイエス様は語られました。「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。今日の説教題は「天の国の宝」ですが、むしろここで言われているのは、天の国そのものが宝である、ということです。聖書協会共同訳で読んだ方が、わかりやすいかもしれません。そちらでは、「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う」と訳されています。
ここで言われていることは、2つです。まずは、意図せずして見つかった天の国という宝、ということです。ここでは、畑に宝がないか、熱心に探していた、というようなことは書かれていません。そしてもうひとつ、その宝を手に入れるために、全財産を投げ打つのだ、ということが言われています。
また、もうひとつの重要なことは、天の国という宝を見つけた時の喜び、ということです。「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、」と言われています。私たちが導かれてイエス様のもとに来て、天の国という素晴らしい宝をいただいたとき、心に喜びがありました。それはまさに、人生を一変させるほどのものでした。皆さんも覚えておられることでしょう。この喜びがあって、私たちは信仰の歩みを続けているのです。
続いては、45節、46節において、「良い真珠を探す商人のたとえ」が語られます。先ほどと同じく、「天の国は次のようにたとえられる」という導入があり、私たちの目を天の国へと向けさせます。新共同訳では端的に、「商人が良い真珠を探している」と述べます。これによって、先ほどの畑の中の宝のたとえとの違いが明らかになります。そちらでは、意図せずに見つかる宝について述べられていました。しかしこちらの真珠のたとえでは、熱心に探している、という状況が述べられています。
46節において、良い真珠を探していた商人が、ついに高価な真珠を一つ見つけることに成功します。このように、人生の宝となるようなものを見つけることにおいては、先ほどの畑の中の宝のたとえと同じですし、何よりも、全財産を投げ打ってそれを手に入れる、という点で、まったく一致しています。
この2つのたとえにおいて、違いは天の国との出会い方です。一方は受動的に、意図せずして出会います。そのようなこともあるのです。まさに導かれた、としか言いようのない出来事です。もう一方は、能動的に、積極的に求めて、ついに天の国に出会います。私たちも、長年積極的に天の国を求めてきて、そしてついにイエス様に出会って天の国の宝を手にした、という方もおられれば、意図せずして、ふと教会に導かれて、そこで人生を一変させるような天の国の宝に出会った方もおられることでしょう。私たちの中には、成人洗礼の者もいれば、幼児洗礼の者もいます。天の国の宝へと導かれるその導かれ方には、様々な違いがあります。しかし、天の国という宝を手にしたら、それを何が何でも離さずに、それを得るためには何をも惜しまずに犠牲を払う、という点では、共通しているのではないでしょうか。
続く47節も、先に指摘したように、これまでと同様、「天の国は次のようにたとえられる」との導入によって始まります。畑の中の宝、高価な真珠と来て、ここでは魚がたとえに用いられています。このたとえの中で天の国を象徴的に表すのは、「網」です。その網は、ガリラヤ湖での漁で用いられる投網の網ですが、あらゆる種類の魚を集めます。それは、食べられる良い魚もあれば、食べられない魚もあるのです。これは、明確に24節からの「毒麦」のたとえのエコー、残響です。良い麦と毒麦が一緒に育って、より分けられるのは刈り入れのとき、というのと同じで、網は良い魚も悪い魚もいっしょくたに引き上げてくるのです。天の国とはそのような懐の広いものだ、と言おうとしているかのようです。
48節では、漁をしてきた人々が、「座って、良いものは器に集め、悪いものは投げ捨てる」とありますが、これは終末の「選別」を先取りした表現です。このように「座って」選別する姿は、裁判など、正式に裁きをすることを表す、古代地中海世界の一般的な表現であったと言われています。これは「毒麦」のたとえの、終末における選別の表現と一致しています。そしてまた、49節からの、世の終わり、終末のときにおける裁き、選別の教えへの導入となっています。
というわけで、49,50節は、あまり読みたくない、世の終わりの裁きについてイエス様が語っている部分になります。しかし、私たちがこの部分を正面切って取り上げることができるのは、もうすでに私たちがここで言われている裁きを免れている、その安心感があるからです。もちろん、私たちは配慮して、あまり「裁き、裁き」と言わないようにするのではありますが、でも、「もしかすると私たちも裁かれるかもしれない」と思ったら、裁きについて取り上げるのも憚られるわけですから、このように裁きについて述べているところも読み、取り上げている、ということは、すでに私たちがイエス様の十字架によって、ここで言われているような裁きを免除されている、ということが大きいのです。この部分を読んで、内面に恐れを抱く方があったら、どうぞもう一度、イエス様の十字架を思い出してください。終末について恐れ、自らの存在がどうなってしまうか、そこに不安を覚えるあなたのために、まさにイエス様は十字架にかかってくださったのです。私たちが恐れなく終末のときへと向かい、その中でも天の国の宝をしっかり握って、喜んで生きることを、イエス様は願っておられるのです。
最後に、弟子たちへの教えとして、「天の国のことを学んだ学者」の部分、51,52節が語られます。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」。最後に、イエス様は弟子たちに、このように問いかけられます。「これらのこと」というのは、13章でイエス様がたとえ話によって教えられた、天の国の宝の教えのことです。弟子たちは、素直に「はい」と答えました。それを、新共同訳では言葉を補って、「分かりました」と訳しています。本当に分かったのでしょうか。最終的に、イエス様の十字架を前に逃げ出してしまったような弟子たちもいたことを考えると、このとき本当に天の国のことについて十分わかったのかどうか、疑わしいところもあります。しかしその辺りはイエス様は深く追求せずに、52節の教えを語られます。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。これは、マタイによる福音書の性質をよく表した教えだとも言われます。「天の国のことを学んだ学者」は、「天の御国の弟子となった学者」とも訳されますが、この天の国の宝についてたとえによって教えられた弟子たちのことです。また、現代において福音書を開く私たちのことを指す、とも受け止めることができます。そのような人たちは、「新しいもの」、すなわちイエス様による画期的な新しい天の国についての教え、御国の福音を扱うことができます。そしてそれだけでなく、古いもの、すなわち律法をはじめとする、今で言う旧約聖書の教えすら、必要に応じて取り扱うことができる、と言うのです。確かに、旧約の教えは古いということで、否定されるものではありません。イエス様ご自身、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)とおっしゃいました。ここで導き出されるのは、私たちが、新約だけでなく、旧約をも大事にして、聖書全体を神様の言葉として受け入れて、それを熱心に学び、心の倉に御言葉を蓄えることの大事さです。そして、必要な時に、自らの慰め、励ましとして、旧約、新約問わず、心の倉から聖書の御言葉を思い出し、また、隣人を見舞うとき、手紙やメールを送るときに、聖書全体の御言葉から、慰めや励ましの言葉を選ぶのです。天の国の宝をいただいている者として喜び、そのことについて教える聖書の御言葉を愛して、この暑い夏を乗り切ってまいりましょう。
お祈りします。
天の神様。
暑さの厳しい日々の中、あなたが私たちを守り支えてくださっていることを感謝いたします。あなたは、畑に隠された宝を見つけた人のように、また良い真珠を探し求めた商人のように、私たち一人ひとりを天の国という尊い宝へと導いてくださいました。その出会いの喜びを、どうか心に新たにさせてください。
イエス様の十字架によって、すでに世の終わりの裁きから解き放たれていることを感謝し、恐れなくこの宝をしっかりと握りしめて歩ませてください。
そして、聖書全体の御言葉を心の倉に蓄え、必要なときに互いを慰め、励まし合うことができますように。この暑い夏を、あなたの守りのうちに乗り越えさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
報告
・本日は、午後に三浦綾子読書会があります。




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