2026年7月19日 聖霊降臨後第八主日
- 明裕 橘内
- 3 分前
- 読了時間: 14分
聖書交読 詩編86編11~17節(旧約p923)
司)86:11 主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。
会)86:12 主よ、わたしの神よ/心を尽くしてあなたに感謝をささげ/とこしえに御名を尊びます。
司)86:13 あなたの慈しみはわたしを超えて大きく/深い陰府から/わたしの魂を救い出してくださいます。
会)86:14 神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。
司)86:15 主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる。
会)86:16 わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え/あなたのはしための子をお救いください。
全)86:17 良いしるしをわたしに現してください。それを見て/わたしを憎む者は恥に落とされるでしょう。主よ、あなたは必ずわたしを助け/力づけてくださいます。
聖書朗読 ローマ8章12~17節(新約p284)
8:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
8:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
説教 「私たちは神の子供である」
説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
おはようございます。たいへんな暑さが続いております。一雨ほしいぐらいですが、関東地方では金曜から猛烈な雨となっていて、それも極端だなと思うところです。
天気のことはさておき、今日は聖霊降臨後第八主日を迎えております。聖霊降臨後の季節の典礼色は緑で、それは信仰の成長や希望をイメージさせます。その成長は、何によって与えられるかと言えば、それは聖霊によってもたらされるのです。今日の聖書箇所は、ローマ書の8章から開いておりますが、私たちに成長と希望を与えてくださる聖霊が、「神の霊」として登場します。
今日の聖書の箇所までの流れを先に確認しておきましょう。ローマ書の1章から辿っていくと長くなってしまいますので、5章からの流れを振り返っていきたいと思います。
ローマ書5章は、新共同訳の小見出しを見ますと「信仰によって義とされて」とありますように、まさにローマ書の核心とも言える「信仰義認」のことについて、述べています。続く6章では、「罪に死に、キリストに生きる」という小見出しにありますように、「罪への死」ということが語られます。7章になりますと、「内在する罪の問題」という小見出しからもうかがえますように、「律法の限界」についてパウロは書き進めていきます。律法があっても、それで罪が制限されるので問題はない、ということにはならず、人の内には罪があって、それで「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)と嘆いてしまう、それが人間なのだ、と語られます。
そのあとで、8章が来るのです。「霊による命」と小見出しがありますが、まさに聖霊による新しい命について、語られている章です。冒頭の1節には、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と明確に述べられています。そのように力強く断言されて8章は始まり、聖霊による新しい命のことが述べられ、今日の12節に至るのです。
12節を読む前に、確認のため、少し前から読んでみたいと思います。10節からでいいと思います。
10:ローマの信徒への手紙/ 08章 10節
キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
11:ローマの信徒への手紙/ 08章 11節
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
10節に引用符付きで登場する”霊”は、聖霊のことと思っていただいたらと思います。細かいことになりますが、実はここには、三位一体の神様が示されています。10節には、キリストと聖霊が現れ、11節の方になると、「イエスを死者の中から復活させた方」、すなわち父なる神様のことですね、そして御子イエス様、そしてその方の「霊」、すなわち聖霊、ということで、ここに三位一体の神様が揃っています。この三位一体の神様による救いと、新しい命、ということが語られています。
これらのことを受けて、12節は「それで」と始まります。「兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。最近の聖書協会共同訳では、この冒頭の「兄弟たち」を、平仮名で表記しています。近年のジェンダーに対する考え方の影響で、兄弟と言って男性だけだと捉えられないように、という配慮です。もちろん、もとから私たちは、ここで兄弟姉妹すべてに向けて呼びかけられている、と受け取ってきていると思います。愛する皆さん、私たちの義務とは、肉に従って生きなければならないといったような義務ではないのです、というパウロの呼びかけです。これは、ここに至るまでの、三位一体の神様による救いと新しい命の教えからすれば、当然のことでもあります。
次を読んでいきましょう。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」。ここでは、「死ぬこと」と「生きること」が鋭く対比されています。霊肉二元論のようにも聞こえてくる箇所です。「肉」に関しては、体の一部としての筋肉とか、そういったものを指すのではなくて、体全体を指す、ということは、指摘するまでもないことでしょう。あるいは、キリストに出会う前の、古い自分、と言い換えることも可能でしょう。「霊によって」と言われる「霊」は、人間の中枢部分としての精神、というよりも、御霊、あるいは聖霊とはっきりと言い換えてもいい存在です。「体の仕業を絶つ」とは、「からだの行いを殺す」とも訳されます。特に「殺す」とも訳されるこの「絶つ」という言葉は、単に自制する、抑制する、ということを越えて、罪の働きに対して断固として対処するのだ、という強い意志の表れだとも考えることができます。とても強い意味を持つ言葉です。できればある程度抑えておこう、というのではなく、古い自分である体が引き起こすであろう罪の行いは決して許容しないのだ、という決意、決断がここにはある、ということです。
不完全な体、神とは相容れない性質を持つ古い自分を野放しにしていれば、やがては神様の前に死んだ者のようになってしまう、そのようにパウロは警告します。それに対し、体の行いを殺すなら、あなたがたは神様の前に生きる、とパウロが述べる時に大事なのは、その前提です。パウロは人間の努力で、「さあ、しっかり固く決断して、罪から離れるように」と命じているのではなく、「聖霊によって」、体の行いを殺す、と言っているのです。ここが重要です。私たちの信仰生活においては、本来、積極的な能動性が求められるようなところでも、なおそれが受動的である、という真理があります。古い自分の、死に至るような行いについて、それを処断するように、というのは、私たちが積極的に、能動的に働いて行わなければならない究極的な行いのように思えます。だから、頑張ろうとするのです。しかし、パウロはもとから、それが人間には無理だとわかっていました。人によっては、7割、8割、そうできるかもしれない。しかし、神様の世界では、7割8割ではだめなのです。野球の世界では、3割打者と言ったら相当の打者ですから、7割8割、自分で努力して肉の業を絶つことができたら素晴らしいのではないでしょうか。しかし、神様の世界では、10割が求められるのです。完全にできないといけないのです。だからこそ、ここでパウロは、短いので見落とされる危険性はあるのですが、「霊によって」、すなわち聖霊によって、と言うのです。聖霊によって体の仕業を絶つ、これは神様の恵みによる受動、受け身です。聖霊によって、体の仕業を絶っていただく、と言い換えた方がふさわしいかもしれません。そうしていただくなら、私たちは神様の前で生き生きと生きることができる、というのです。
それに引き続いて、本日の箇所の中心となる御言葉、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」が語られます。本日のテーマである「私たちは神の子供である」がここから取られている、ということは、もはや言うまでもありません。ここでの「神の霊」、これは、今まで紹介してきました聖霊のことです。聖霊によって導かれるものは皆、神の子なのです。私たちは、神様の子供です。
ここにもまた、恵みによる受動、受け身が見られます。私たちが事を動かすのではありません。私たちはあくまで受け身的に、聖霊によって導かれるのです。
「神様の子供となる」というのは、生まれた時からの性質と言うよりは、新しく与えられる性質で、その点では「神様の養子となる」というニュアンスが強いと思います。そのことについては今日は深く触れませんが、先ほども触れましたように、神様とは相容れない古い自分が、すっかり変えられて、新しい自分とされている、そのような意味合いを見出すことができます。
パウロは2つのものを対比させて語ることが得意だったのでしょう、続く15節でも、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けた」と語ります。「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」と、「神の子とする霊」の対比です。「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」、これはそのような精神、と言い換えてもいいかと思いますが、それに従って生きると、自分の力で生きようとし、自分で自分を良い人にし、正しくしようとします。そしてそれは、やりがいのある生き方、などではなく、恐れを伴うものだ、とパウロは指摘します。このように努力してみるんだけど、それで合っているのだろうか、私のこのような生き方で、本当に良い方向に行くのだろうかと、いつもびくびくしているのです。
そのような精神ではなく、私たちは「神の子とする霊を受けた」とパウロは主張します。これも、どちらかと言うと受け身の響きがあります。もともとそのような霊を持っていた、あるいは、もともと私が神の子に自分でなることができた、というのではない。別の所から、本来自分の力ではなることのできなかった神の子にしていただける霊を受け取った、ということです。これが、聖霊のことです。
15節の後半には、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。「この霊によって」とあるのが、聖霊のことです。聖霊によって、私たちは父なる神様に向かって、「アッバ、父よ」と呼びかけることができるようになるのです。「アッバ」はアラム語で「父」の意味で、その点では、ここでは「父よ、父よ」と2回繰り返されていることになります。まずアラム語で「アッバ」と言い、そのあと、「訳して言うならばこうです」といった感じで、ギリシア語で「父」と言い直していることになります。このようにアラム語がまず用いられていることが、イエス様の弟子たちや使徒たちの使っていた言語を示唆している、とも言われる箇所です。パウロ書簡では、他にガラテヤ4章6節にも用いられ、「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊」と言われています。イエス様も、その地上の歩みにおいて、ゲツセマネの園の祈りの中で、「アッバ、父よ」と呼びかけておられます。
聖霊によって、私たちは神様に「アッバ、父よ」と呼びかけることができるようになりました。アッバとは、決して幼児言葉ではなく、大人が父に対して敬意と親密さをもって呼びかける呼び方であったとも言われています。私たちは聖霊によって、神様との親しい関係に入り、恐怖ではなく、尊敬と親しみを込めて、お父さん、父よ、と呼びかけることができるようになったのです。それは、私たちが神様の子供とされたからです。
16節では、聖霊の働きについて、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と言われています。聖霊だけが一方的にわたしたちを神様の子供と宣言するだけで、私たちにその実感がない、というわけでもない。また、わたしたちだけが熱心になって、「神様の子供となった気がするんです」と訴え、神様側からの何の確証もない、というわけでもない。神様からの霊と、私たちのうち側の霊と、その両者が一緒になって、私たちが神様の子供であることを証言する。二者の証言は揺るがされない確かさを持っています。私たちはそう思い込んでいるのでも、ただ希望的観測を述べているのでもなく、確かに、神様の子供とされているのです。
本日最後の17節で言われているのは、では、神様の子供とはどんな存在か、ということです。これは、皆さんも気になるところだと思います。先ほど来、あなたがたは神様の子供だ、と言われて、それだけでも自らがどのような存在であるか分かってうれしい、ということはあるかと思いますけれども、では、具体的に神様の子供であるとはどのようなことなのか、御言葉から聞いてまいりましょう。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。17節では、このように述べられています。ここで表されていることは、神様の子供であることが、相続人である、という観点です。神様の諸々の良いものを受け継いでいく者、と理解していただいて構わないと思います。それが、キリストとの「共同相続人である」、という考え方に発展していきます。それで、最後の一文が、キリストとの共同相続人である意味を説明します。もう一度読んでみます。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。これが、多少わかりづらいことは確かだと思います。むしろ、私たちはキリストと共に共同相続人であるから、キリストと共に苦しむこともあるし、その結果として、キリストと共に栄光を受けることもあるのだ、そのようなことを述べていると理解する方がわかりやすいと思います。
まずこのことは、私たちの人生における様々な苦しみを否定せず、肯定するものです。私たちが受ける苦しみは、人生の失敗を意味しません。私の日ごろの行いが悪かったから、こんな苦しい目に遭うんだ、ということではない、ということです。キリストも、栄光の十字架の前には、様々な苦しみを経験されました。私たちは、自らの苦しみを、キリストの苦しみになぞらえて考えることが許されています。単純に言えば、キリストも苦しんだのだから、私も苦しむのは何らおかしいことではない、ということです。私の人生に、苦しみなどあってはならない、それは悪だ、と考える必要はないのです。
そして、すでに触れたことですが、キリストの十字架の苦しみが復活の栄光につながったように、私たちのこの日ごろの苦しみは、栄光へとつながっていきます。人生における成功、目覚ましい働きが栄光につながるのではなく、苦しみこそが栄光につながる道だと受け取るなら、私たちの苦しみに対する考え方も大きく変わっていくのではないでしょうか。
私たちは、先週いいことがあった、今朝茶柱が立ったからいいことがありそうな気がする、そのような淡い期待の中に生きるのではなく、聖霊によって神様の子供であると宣言され、苦しみもまた、栄光につながる道である、と知って、喜ぶのです。何の良い兆しが見えなくても、中東戦争に終わりが見えなくても、私たちは聖霊によって神様に「アッバ、父よ」と呼びかけることができる存在とされました。まさにそのことが、恵みなのです。今朝起きて、あまり昨日と代り映えのしない、成長のない私だな、と思うことがあったとしても、あなたはすでに、神様の子供とされているのです。そして、聖霊はあなたを洗礼によって信仰の歩みへと導き、聖餐の恵みによって養い、福音の説教によって育むことによって、確かに導いておられます。思い煩いがあっても、その中で聖霊によって神様に祈り、歩みを続けることができます。神様の子供とされたことに喜びを見いだし、地上の歩みにどんなに困難が立ちふさがろうと、希望を失わずに、生きていきたいものです。
アッバ、父よ。
私たちを神様の子供としてくださり、心から感謝いたします。自分の力では肉の業を絶つことのできない弱い私たちですが、どうか聖霊によって導き、日々新しくしてください。恐れによってではなく、あなたの子供としての親しみと信頼をもって、あなたに祈る者としてください。人生に苦しみがあるとき、それを失敗のしるしとしてではなく、キリストと共に歩む道として受け止め、やがて与えられる栄光を望み見つつ歩ませてください。良い兆しが見えない日にも、私たちがすでにあなたの子供とされている恵みを思い起こし、希望を失わず、聖霊の助けによって今日一日を歩むことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
報告
・本日は、礼拝後に新約聖書の学びがあります。来週は、午後1時より三浦綾子読書会です。いずれも、各自昼食をとって、ご参加ください。




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