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2025年9月28日 聖霊降臨後第16主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 9月28日
  • 読了時間: 13分

 

聖書交読 詩編146編(旧約p986)

司)146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。

会)146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。

司)146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。

会)146:4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。

司)146:5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人

会)146:6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は

司)146:7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち

会)146:8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し

司)146:9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

全)146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。

 

聖書朗読 一テモテ6章11~20節(新約p389)

6:11 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。

6:12 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

6:13 万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。

6:14 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。

6:15 神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、

6:16 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

6:17 この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

6:18 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。

6:19 真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。

6:20 テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。

 

説教 「永遠の命に向かって」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

本日開いておりますのは聖書日課の使徒書で、第一テモテ6章の11節から20節です。この11節から16節までは、パウロの時代の洗礼の時の式文をもとにしている、とも言われます。

 

この箇所の最初には「これらのこと」(11節)とありますが、それはこれより前の節に書かれていることを指しています。どんなことが書かれていたかと言いますと、例えば10節では、「金銭の欲は、すべての悪の根です」と言われています。ですから、ひとつには、金銭欲などを避けなさい、と言っていることになります。

 

その代わりに、むしろ追い求めるのは「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」(11節)である、と明言されています。最初の「正義」は単に「義」とも訳されます。正しいこと、すなわち正義を求める、というだけではなく、神様が私たちを信仰をもとに義としてくださることを求める、ということでもあるでしょう。「信心」は、イメージ的に古いか、あるいは別の宗教、特に日本古来の民間信仰のことを指すように思われるかもしれません。これは新改訳2017では「敬虔」と訳されます。「敬虔なクリスチャン」と言われる時の、あの「敬虔」です。もとはと言えば、「神様や超自然的なものへの敬虔さを表すこと」という意味であるようです。

 

そういったものを求めつつ、なおかつ信仰の戦いを戦い抜いて、「永遠の命」(12節)を手に入れるように、すなわち獲得するようにパウロは強く勧めています。そのためにこそ、あなたは神様に召されたのだ、とパウロはテモテに明かします(12節)。

 

信仰生活が、ある意味で信仰の戦いでもある、というのがここで言われていることですが、これは私たちの感覚と合っているでしょうか。そのことを非常にリアルに感じている人もいれば、そこまででもない、という人もいることでしょう。しかし、聖書を通して、あるいはもしかして体験を通して確かに分かっていることは、私たちを神様から引き離そうとする悪の力の働きがある、ということです。それを悪魔と言うかどうかは時代によっても人によっても異なるかもしれませんが、どうやらこの世には、私たちが神様にまっすぐに従って、喜んで幸せに生きるのを何とか阻もうとする諸々の力があるようで、それで苦労する、ということもあるのです。そのような妨げを信仰の戦いと表現したうえで、それを戦い抜き、テモテよ、あなたは「永遠の命」に向かいなさい、とパウロは強く勧めているのです。

 

苦しみ悩みからの解放を求めて聖書の御言葉に導かれ、そこでイエス様を救い主として示され、救われて信仰生活に入った、そういったケースでは、その後の信仰生活が戦いだ、と言われたら、どうなのでしょうか。もっと平安な、あるいは平穏な毎日を予想していたのに、ということもあるかもしれません。またある面では、周囲の人々との葛藤であるとか、救われた、と思っていたのに、その実あまり変わっていない自分を発見して落ち込むとか、そういったいわゆる信仰の戦いを経験するからこそ、救い主イエス様がおられる、ということや、御言葉からの慰めがリアルに感じられる、という幸いもあるかもしれません。いずれにしても、私たちの信仰生活には、パウロの語る通り、信仰の戦いを戦い抜く、という側面もある、ということを、私たちは聖書のことばから教えられるのです。

 

13節に目を移してまいりますと、「ポンティオ・ピラト」という実在の人物の名が記されています。どこかで聞いた名前、と思われたことでしょう。つい先ほど私たちは使徒信条で、この人物の名前を読み上げました。使徒信条の方では「ポンテオ・ピラト」と言われていました。この人物は、26~36年にユダヤを任されたローマ人の総督です。ですから、ちょうどイエス様が十字架にかけられた時のユダヤの総督でした。この時、ピラトは、イエス様が罪を犯してはいないと見なしたのですが、エルサレムのユダヤ人指導者たちは、ピラトにイエス様を処刑するように主張しました。そのことで、結局イエス様は十字架にかかられることになりました。もちろんそれが、神様に用いられて、私たちのための救いの十字架となったことを、私たちは知っています。使徒信条同様に、イエス様が実在の方であったことを示すために、ここでこの人物の名前に触れている、というところもあると思います。

 

14,15節で、この十字架にかけられたイエス様が、見事復活されて天に帰られたのち、この世界に再び来られることが語られています。そして、15節後半から、パウロによる壮大な頌栄、神様への讃美が始まります。

 

13節においては、神様こそ、万物に命をお与えになる方である(13節)、と言われていましたが、16節では、この方が唯一の不死の存在であると紹介しています。私たちの神様は、不死の神様である。この方は、決して命を失ったり、また力を失ったりすることはない。まさにこの方に、なくならない、終わりのない命があるのであり、それを私たちにもお与えくださる、ということなのです。

 

この神様は「近寄り難い光の中に住まわれる方」(16節)である、と言われています。

「聖書では、光は神様や神様の言葉、また神様の真実を明らかにする人々や物事を表現するのに用いられる」と言われることがあります。確かに、神様は光を創り(創世記1章3節)、旧約聖書では、神様はしばしば輝きのうちに現れると記されています。その光のことを、「近寄り難い」と表現していることから、私たちにとって神様は遠い存在なのだろうか、と思ってしまうこともあるかもしれません。それにもかかわらず、この神様は、近寄り難いどころか、私たちに御子イエス様を送ってくださり、このイエス様を通して、私たちに近づいてくださいました。

 

しかも、この神様は「見ることのできない方」(16節)とも呼ばれています。驚くべきことに、旧約聖書では、神様を直接見ると人間は死ぬとまで考えられていました。このような御言葉があるぐらいです。

 

 「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト記 33:20より)

 

ですが、私たちはこの神様に出会っても死ぬことなく、むしろ「永遠の命」を求めて生きるように勧められています。これは大きな変化であり、また恵みでもあります。

 

「この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン」と、この神様への賛美の言葉を述べた後で、パウロは永遠の命に向かって生きる生き方について、17節以降で説明していきます。

 

17節では、「不確かな富に望みを置く」ことについて、戒められています。これは永遠の命に向かって生きる生き方ではない、ということです。「不確かな富」というのは、言い換えれば「頼りにならない富」ということです。そのように訳されている聖書翻訳もあります。これは、「この世で富んでいる人々」に対しての戒めです。ただ、この世で富んでいるとは言え、その実彼らは高慢になっており、頼りにならないようなものに頼っている、というのが、パウロの見立てでした。近寄り難い光の中に住んでおられる方が、却ってその方の方から近寄ってこられ、見ることのできない方の実体を、イエス様を通して見るかのように信じることができるようになった恵みは、この世で富んでいる人々にはなかなか届きません。心は高慢で、この世に確かな、頼りがいのある神様がおられるにもかかわらず、何の頼りにもならない、一時的な富にばかり目を留めて、それに頼り切っている。そのようなことが、永遠にまで続く命を生み出すことはないのです。むしろ思い切って方向を変えて、万物に命をお与えになる神様、そして唯一の不死の存在である神様を頼るようにして、この方から、永遠の命をいただくのです。

 

しかも、パウロは、この神様のことを説明するのに、「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」と表現しています。この世の富に惑わされず、神様のみを信じなさい、と言われても、それではあまりにも禁欲的で、あれダメ、これダメ的で、何の面白味もない、そのように思っていた人々は、パウロの当時にもいたのでしょう。だからこそ、不確かなこの世の富を捨てて神様を信じたとしても、それで貧しくなるとか、何の楽しみもなくなるとか、そのようなことではなく、神様がすべてのものを与えてくださるのだから却って豊かになるのだし、それを通して私たちが人生を楽しむようにしてくださるのだ、と述べるのです。

 

なおかつ、18節では、「喜んで分け与えるように」と勧めます。これも、この世の不確かな富にしがみついている場合、やりにくいことです。どうしても、分けたら減ってしまう、と考えてしまうので、それぐらいだったら自分で抱えておこう、ということで、手放せなくなるわけです。しかし、物惜しみをせず、喜んで分け与えても、なお豊かになる。17節にあったように、神様はすべてのものを豊かに与えてくださって、私たちを楽しませてくださる、ということなのですから、私たちはその御言葉に頼って、神様が与えてくださることに信頼するとき、私たちのぎゅっと握られた手はおのずと開いてきて、分け与えることができるようになるのです。

 

この、分け与えることと、永遠の命を求めて、それに向かって生きることのつながりを確認しましょう。分け与えたら貧しくなる一方だ、ということで手を握ってしまったら、それはとりもなおさず、豊かに与えてくださる神様を信頼していない、ということとなり、そこで神様との関係、つながりは途絶えてしまいます。そうすると、命の源であり、不死である神様とつながっている場合に、そのお方から流れて来る永遠の命の恵みもまた、途絶えてしまう、ということになります。自分から進んで手を離して、分け与えて生きていくことは、実は永遠の命を求めて、それに向かって生きていくことと、密接につながっているのです。

 

続く19節で、「真の命を得るために」しっかりと土台を据えるようにパウロは勧めますが、これこそ永遠の命に向かって備えていく姿です。そこには、「俗悪な無駄話」(20節)をしているような隙間はないのです。この「無駄話」という言葉で、ドキッとしないでいただきたいと思います。別にこれは、いわゆる井戸端会議のような、私たちの何気ない日常会話のことを指して言っているのではありません。この第一テモテの1章に、「異なる教え」や「作り話」といった言葉が出てくるのですが、それらのことを指す、とも言われています。今年の夏はあまりにも暑かったので、恐らく普段よりもずっと、「暑いですね」という言葉を交わすことが多かったと思いますが、そういった何気ない言葉を「無駄話」と決めつけて否定しているのではありません。その当時、パウロの愛弟子テモテが仕えていたエフェソの教会では、キリストを救い主とする信仰の教えとは異なる教えであるとか、ギリシアやローマの神話であるとか、そういったものが教会に過って入り込んでくることがあり得たわけです。そのようなものを指して、「無駄話」と言っているのです。

 

真の命を得るために、すなわち永遠の命を得るためにしっかりと心に土台を据えて、永遠の命に向かって生きていく生き方には、キリストを否定する異なる教えや、本来神ではないものを神とするような神話の入る余地はないのです。「不当にも知識と呼ばれている反対論」というフレーズに出てくる「知識」は、かつては「霊知」と訳されることがありました。これもまた、異なる教えのひとつで、ギリシアのグノーシス主義のことであると言われます。これもまた、キリストを否定する哲学のひとつです。永遠の命に向かって堅固な土台を据えるためには、御言葉も学んでいく必要もあるし、日々祈っていくことも大事なので、そんな、間違った教えに関わり合っている暇はないですよ、ということです。言い換えれば、それほど永遠の命のためには私たちは本気になっていく、ということでもあります。もう神様がイエス様を通して永遠の命を与えてくださっている、という安心感とともに、この世の勢力が、覆いかぶさるように、永遠の命の光を輝かせないようにして、私たちから永遠の命へのあこがれを消し去ってしまおうとしている現実の中では、私たちもまた自覚的に、永遠の命に向かって進む思いを持って、信仰の戦いを戦い抜くのです。

 

このように、本日は永遠の命に向かって進む、ということをテーマにお話ししてまいりました。軸としては、近寄り難い光の中に住まわれる方が私たちにイエス様を通して近づいてくださり、本来見たら命が奪われる、という神様が、私たちに姿を現してくださり、むしろ御自身の不死の性質から、永遠の命を与えてくださる、という恵みがありました。信仰の戦いを戦い抜き、永遠の命を獲得しなさい、というメッセージは、私たちのがんばりを求めるものにも聞こえないわけではありません。しかし、そもそもその信仰へと導き入れてくださったのは神様であって、そこに聞くべき福音、良い知らせがあります。恵みに感謝して、一緒に永遠の命に向かって、進んでまいりましょう。

 

お祈りします。

天の父なる神様。あなたのお名前を賛美します。あなたは万物に命をお与えになる方で、唯一不死の方です。御言葉をもって、あなたは今日も語ってくださいました。あなたは私たちをこの世から救い出してくださって、信仰生活へと導き入れてくださり、なおかつ、その信仰の戦いを戦い抜くことができるようにも導いてくださいます。そしてついには、私たちがあなたが与えてくださる永遠の命を手にすることができる望みをありがとうございます。この希望に生きる一週間でありますように。尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・本日は午後1時から、三浦綾子読書会です。また、来週は昼食後、予算総会があります。ご出席ください。

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