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2025年6月8日 聖霊降臨祭

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 6月8日
  • 読了時間: 13分

聖書交読 詩編104編24~34節(旧約p942)

司)24:主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。

会)25:同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。

司)26:舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。

会)27:彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。

司)28:あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。

会)29:御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。

司)30:あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。

会)31:どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。

司)32:主が地を見渡されれば地は震え/山に触れられれば山は煙を上げる。

会)33:命ある限り、わたしは主に向かって歌い/長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。

全)34:どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。


聖書朗読 使徒2章1~21節(新約p214)

 2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

 2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

 2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

 2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

 2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

 2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

 2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

 2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

 2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

 2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

 2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 2:14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。

 2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。

 2:16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

 2:17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。

 2:18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 2:19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。

 2:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。

 2:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』




説教 「神の右の座におられるキリスト」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


皆さんおはようございます。本日は聖霊降臨祭、ペンテコステです。キリストが救いの業を終えられて天に帰られ、そこから約束の聖霊が、父なる神様とキリストから送られました。そのことを記念する日です。世界宣教の始まりの日、あるいは教会の誕生日とも言われますこのペンテコステ。どのような時だったのか、聖書の言葉から振り返ってまいりましょう。


時は五旬祭の日。旬は10日を表します。五旬ですから、50日、ということになります。何から数えて50日かと言うと、それはイエス様の復活からです。イエス様の復活から40日後にイエス様の昇天があり、それからさらに10日後に、聖霊が降ったのです。それが、もともと大麦の刈り入れが終わり、小麦の刈り入れを祝う祭りで、大麦の初穂をささげる「初穂の祭り」から50日目に祝われていた五旬祭と重なったのです。ちなみに「ペンテコステ」という名前は、「50番目」を表すギリシア語から来ています。そのような日に、イエス様を信じる一同が一つになって集まっていました。恐らく一緒になってお祈りしていたのでしょう。


そうすると、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります(2節)。続いて、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)と記されています。これは、その場にいた一同が見聞きした、外側の状況です。大きな音、そして炎のような舌。それは、今となっては説明しがたいものです。


しかし、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という4節の言葉に関しては、これは一同の共通した忘れがたい体験でした。大きな音について、また一人一人の上にとどまった炎のような分かれた舌に関して、満足いくような説明は出来なかったかもしれない。しかし、そこにいた一同にとって、聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした、というのは、否定することの出来ない、確かな共通の体験だったのです。


この出来事の時の「激しい風が吹いて来るような音」というのは、誰も説明できなかったとしても、その物音で大勢の人が集まってくるほどのものでした。そして、気づいたのは、イエス様の弟子たちが話しているのが、「自分の故郷の言葉」である、ということでした。9節から11節までには、この時集まってきた人々のルーツとなる地名が列挙されています。そのような、それこそ「天下のあらゆる国」から集まってきた人々が、耳にして「懐かしい故郷の言葉だ」と思えるような言葉が語られていたのです。懐かしい故郷の言葉が語られているという時点で、集まった大勢の人々の反応としては、好意的であったと思われます。ですから、語られていた内容、すなわち、「神の偉大な業」についても、決して否定的ではなかったと思います。確かに、彼らは「皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った」(12節)のではありますが、基本的におおむね好意的だったのではないでしょうか。


それでもやはり、理解しがたい出来事に直面すれば、誤解する人も必ず出ます。13節には、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」というあざけりの言葉も記されています。世界宣教の始まりの日とも言われ、また、教会の誕生日とも言われるこの聖霊降臨、ペンテコステの出来事が、まずはぶどう酒に酔っていることなのだ、とあざけられたこと、この事実を忘れないでおきたいと思います。私たちは、自分たちのしていることは正しいと思い、当然理解されるべきだと思います。しかし、大事なペンテコステの出来事が、当初は周囲に理解されていなかった。教会のスタートの日に、そこには周囲からのあざけりの声があった。私たちが今、伝道してもうまくいかない、なかなかわかってもらえない、ということがあって悩むとしたら、それは私たちだけの悩みではないのです。昔もそうだった。私たちよりも前に、周囲からの無理解によって悩んだ人々がいた。そのことに思いをはせ、自らの慰めとすることができたら幸いです。


続く14節以降は、使徒ペトロの説教の記録です。彼は、離れていったユダに代わってマティアが補充され、再び12人に戻った使徒を代表して話し始めます。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」(14~15節)。ペンテコステの出来事は、朝九時の出来事でした。人の働くことの出来ない、暗黒の闇夜は終わり、朝日と共に一日の活動が始まる。その輝かしい希望の朝に、聖霊は降ったのです。そしてはっきりと、「酒に酔っているのではない」と言い切ります。こんなこと言ったらどう思われるか、そんなことは気にせず、否定すべきことははっきりと否定するのだと、ここでペトロは「酔っていない」と断言するのです。


では、酔っていないのであれば何なのか。そこも、ペトロははっきりとさせています。「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」(16節)。神の権威ある言葉として今で言う旧約聖書の預言者の言葉を引き合いに出したのは、それがその場にいた人々の共通点であるとペトロが思ったからです。そこにいた人々の多くは、言語はそれぞれでしたが、ほとんどがユダヤ人か改宗者でしたから、今で言う旧約聖書が、彼らを結び付ける唯一のものと言っても言い過ぎではありませんでした。だから、ペトロはここで、旧約聖書に訴えたのです。そして、その中で、ヨエル書の預言の言葉に、今体験している出来事をよく説明できる御言葉があると示され、それを引き合いに出してきたのです。


では、当時の人々と同じように、私たちもこの預言の言葉を聞いてみましょう。


『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。

わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。


これは、ヨエルの終わりの時についての預言でした。ユダヤ人たちは会堂でこのみことばを聞いては、終わりの時に思いをはせ、そのようなときには、神の霊がすべての人に注がれるのだ、とイメージしていました。ペトロはこの時、今がまさにその終わりの時、だから神様は私たちに神様の霊を注がれたのだ、と即座に理解しました。ペトロは、世の腐敗を見たからではなく、あくまで御言葉から、霊が注がれるその時こそ、終わりの時、と教えられたのです。その時、 あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。また、18節でも、改めて「彼らは預言する」と言われています。

これが、霊が注がれ、一同が他国の言葉で語り出した現象を説明している、とペトロは理解しました。まさに彼らはその時預言していたのであり、周囲の人々もそれを聞いて、「神の御業を聞いた」と言ったのです。


ですから、ここでの現象は、何か天からくる不思議な言語で、誰にも理解できないことを語ったのではなかったのです。ちゃんとその言語の使い手なら理解できる言葉で、預言をし、神のみわざを語ったのです。


ここで、若者は幻を見、老人は夢を見る、と言われていることに改めて注目しておきましょう。若者が夢幻を見る。それは理解できないことではありません。しかし、高齢者になって夢を見る、というのはどうでしょうか。夢を見るのは若者の特権であって、年を重ねた者はそれまで積み重ねた人生の経験値をもとに、堅実な考え方をするのではないでしょうか。しかし、ここでは、老人は夢を見る、と言われます。これが、聖霊が降った時に起こることなのです。


続いて、終わりの時には不思議なことが起こる、とヨエルは述べています。それをここでペトロは伝えています。


「上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。

主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。」


19節は、終わりの時のしるし、きざしといったものです。20節では、終わりの時を恐怖とはとらえずに、「主の偉大な輝かしい日」と表現したうえで、その前には天変地異が起こる、と預言しています。それは、これからの困難な時期を予告しているかのようです。信仰を持ってこの世を歩み続けるのは簡単なことではない。場合によっては、信仰のゆえに苦しみにあうかもしれない。世の中が、私たちに合うものではないかもしれない。しかし、暗闇の後に、輝かしい朝が来るのです。そのような困難があろうと、私たちには一人一人に親しく聖霊が降っているので、困難の中でも夢を見ながら、生きていくことができる。そして、たとえ困難があっても、主の名を呼び求める者は皆、救われるのだ。それが、ここでヨエルの預言を引用しながら、ペトロが伝えたかったメッセージでした。私たちの努力によらず、正しい生き様によらず、イエス様、私を救ってください、とイエス様のお名前を呼び求めるならば、私たちは救われる。このメッセージを聞いて3000人もの人々が洗礼を受け、仲間に加えられた、というので、このペンテコステが教会の誕生日、と言われるのです。


ちょうどそのような良き日に、本日午後、園田伝道所の開所式が行なわれること、神様の導きと受け止めて感謝いたします。残念ながら席の関係で限られた方しか出席できないのですが、開所式が終わりましたら、またいつでも行くことができますので、ぜひ皆さん、覚えてお祈りください。今の時代、一つの教会にこのように伝道所の新しい建物が与えられるというのは、本当に夢のような話です。私たちは教会を生み出してくださる聖霊の力強いお働きによって、夢を見させていただいているのです。益々、私たちには夢が与えられていくでしょう。その伝道所がさらに発展し、多くの人々が集い、そこで主の名を呼び求めて次々と救われていく。そのような夢です。これからも、この聖霊のお働きに期待しましょう。


このように、本日は聖霊降臨の日の出来事を御言葉を通して振り返ってまいりました。旧約時代には限られた人物に、限られた期間しか注がれることのなかった神の聖霊が、新約の時代になって、キリストの昇天後、聖霊は信じる者ひとりひとりに降り、注がれ、その内側に、永続的にとどまるようになりました。そのような道が開かれたのです。では、実際私たちのところに、どうやって聖霊は来られるのか。今日開きました聖書の箇所の少し先、まだペトロの説教が続いている所ですが、そこを開いてみますと、ペトロのこのような声が聞こえてきます。


「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(2章38節)。


私たちは、救いの洗礼を受けることによって、賜物、すなわちプレゼントとして、聖霊を受けることができるのです。この聖霊は私たちを助ける方で、私たちの傍らに来てくださり、私たちを弁護してくださいます。まさに、私たちに寄り添ってくださる方なのです。そればかりか、先にも申し上げましたように、私たちの内側に留まってくださって、私たちの心のうちを照らし、イエス様の真理を教えてくださるのです。どんなに私たちが「自分は一人だ」と思う時にも、実は聖霊なる神様がいつも一緒です。そのことを御言葉から思い起こすことができ、感謝です。


そして、最後に、この方こそ、私たちが夢を見て生きることを実現してくださる方です。普通だったら、夢を見るのは若者の特権、年を重ねれば重ねるほど、現実の重みに希望も奪われて夢など見ることもできない、ということになりかねないわけですが、私たち一人一人のもとに聖霊が来てくださるとき、若者は幻を見、年を重ねた者は夢を見る、ということが起こるのです。今日も、また今週も、私たちにはこの聖霊が伴ってくださいます。そのことに安心して、毎日の歩みを続けてまいりましょう。


お祈りします。

天の父なる神様。イエス様の昇天を記念した翌週、こうして聖霊が一人一人に降ったことを記念するペンテコステを迎えることができ、感謝します。旧約時代には、王や祭司、あるいは預言者にしか注がれなかった主の聖霊が、このように信じる者すべてに注がれるようになったことに感動しています。しかも、永続的に私たちのうちで働いてくださいます。そればかりか、傍らに立って私たちを弁護し、慰めてくださいますから、ありがとうございます。そのような聖霊なる神様を、心に歓迎いたします。この聖霊に導かれて歩む私たちの歩みを祝福してください。午後の園田伝道所の開所式の上にも、主の聖霊が臨まれますように。尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


・報告

本日午後は園田伝道所開所式があります。来週は礼拝後、新約の学びの第二回目が開催されます。また、2時からは母の家ベテルセミナー、また3時半からは青谷福音ルーテル教会にて神学校の卒業式が行われます。


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