聖書交読 エレミヤ20章7~13節(旧約p1214)
司)7:主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。
会)8:わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。
司)9:主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
会)10:わたしには聞こえています/多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて/我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
司)11:しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき/勝つことを得ず、成功することなく/甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない/とこしえの恥辱である。
会)12:万軍の主よ/正義をもって人のはらわたと心を究め/見抜かれる方よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
全)13:主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を/悪事を謀る者の手から助け出される。
聖書朗読 ローマ6章1~11節(新約p280)
1:では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
2:決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
3:それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
4:わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
5:もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
6:わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
7:死んだ者は、罪から解放されています。
8:わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
9:そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
10:キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
11:このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
本日は聖書交読の箇所に基づく、園田伝道所礼拝での説教を掲載します。
説教 「語り続ける」
エレミヤの悩みは、尊い主の御言葉を語っているのにもかかわらず、迫害されることでした。この20章でも、主の御言葉を預言していたことから、パシュフルという名前の祭司に、捕らえられてしまいます。翌日には解放されるのですが、その際に、エレミヤはバビロン捕囚の預言をすることになります。自分が助かって安心してもいい時に、仲間の民の悲惨な運命を預言しなければならないとは、何と辛いことだったでしょうか。では、今日の聖書箇所を少しずつ振り返って学んでまいりましょう。
まず7節です。
「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります」(7節)。
ここでエレミヤは、このように御言葉を語るゆえに苦難を受けることを、「主よ、あなたが私を惑わしたのですよ」と訴えています。これは、主の預言者の姿にしては、ふさわしくないようにも思えます。主の預言者であるならば、主のことは間違っても悪く言わないのではないでしょうか。しかし、続く「あなたは私をつかみ、思いのままにされました」という告白は、主の、思いやりのない、荒々しい姿を表しているかのようです。エレミヤは、この方に振り回されている、と思っていたのでしょう。そして、エレミヤとしては、一生懸命主の言葉を語っているにもかかわらず、「私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります」としか言いようのない仕打ちを受けることにはもう耐えられない、というような気持ちでいっぱいでした。ですので、少し言い過ぎのような表現も見られるのでしょう。
8節には、エレミヤが語っていることが、周囲の人々にどのように受け止められていたか、ということが記されています。前半には「 私は、語るたびに大声を出して『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません」とあります。エレミヤとしては、主が語られることを受け取って、それを忠実に伝えていると思っていたのですが、周囲の人々には、それは「暴虐だ。暴行だ」ぐらいのことばにしか聞こえてこなかったのです。エレミヤの方は至って真剣でも、エレミヤは街中で「暴虐が起こる!」と、起こりもしないようなことをただわめいているおかしな人のようにしか思われなかった。その時の気持ちを、「主のことばが、一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなるのです」と表現し、「主の言葉を語ったばっかりに、人々に馬鹿にされた」と訴えたのです。
9節はエレミヤの葛藤をよく表しています。
” 私が、「主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない」と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません”(9節)。
7,8節で訴えていることからわかるように、「もう主の言葉を語りません」というエレミヤの決断は、理解できないわけではありません。そこまで苦労して、御言葉を伝えなくてもいいですよと、私たちもエレミヤのことをねぎらいたくなります。もし私たちがエレミヤと同じような立場に追いやられたら、同じような決断をするでしょう。また、その一方で、「私は主に惑わされた」と、完全に被害者意識に陥っているエレミヤに対して、「そんな態度でいいのか」と、責めるような気持ちも出てくるかもしれません。そのような思いを持ったままで主の言葉を伝えるのは、主の預言者として果たして良いことなのか、とも思ったりするわけです。しかし、そのような私たちの思いを越えて、不思議なことがエレミヤの身に起こります。御言葉を語ることで苦難を受けるエレミヤ、ですからそれをやめれば、どんなにか楽になることでしょうか。ところが、実際はその逆に、「私は内にしまっておくのに耐えられません」と思わず言ってしまうような状態に陥ったのです。まさに主の言葉がエレミヤの心の内で燃える火のようになり、もう語るまいと思って気に留めないようにしよう、忘れようと思っても、それどころか、却って気になり、忘れることも、否定することもできなくなっていったわけです。恐らくまだこの段階では、エレミヤは主のことを、7節にあるように「あなたは私をつかみ、思いのままにされました」と表現せざるを得ないような存在に思っていたことでしょう。しかし、苦々しい思いだけでなく、結局は御言葉を語らない、ということが、却って自分を苦しめているのだ、ということに気づき始めてはいました。まだはっきりと、「やはり思い切って主の御言葉を語るようにします」とは宣言していないものの、思いとしては、もう一度御言葉を語る方向に向かいつつあったのではないでしょうか。
これと同じような経験をしたことがある、という人は幸いです。確かに日本で、イエス様のことを伝えることは優しいことではありません。ことに、真剣に生きることを嫌い、生真面目に生きている人を軽く見るような傾向を持ちつつある現代日本の社会においては、私たちが真剣に聖書に取り組み、イエス様に従って、御言葉を伝えようとすると、「重い」であるとか、そんなに肩ひじ張らなくても、などと言われてしまうかもしれません。しかし、それで口をふさいでしまえば楽かというと、日々主の御言葉が重くのしかかり、これでいいのかと、却って苦しくなってしまう。私たちにも、そのような御言葉の体験が必要なのかもしれません。
10節に目を移しましょう。
”私が、多くの人のささやきを聞いたからです。『「恐怖が取り囲んでいる」と告げよ。われわれも彼に告げたいのだ』と。私の親しい者もみな、私がつまずくのを待ちかまえています。「たぶん彼は惑わされるから、われわれは彼に勝って、復讐できるだろう」と”(10節)。
この節は、御言葉を語らないでいるとなぜ苦しくなるのか、の説明でもあります。一言で言えば、主が侮られている、ということに、エレミヤが耐えられなくなっていった、ということです。エレミヤがつまずくのを人々が待ち構えている、ということは、主がエレミヤを支えることができる、ということを否定していることになります。主なる神様にそのような力はないのだ、と思っているのと同じ、ということです。これに、エレミヤは耐えられませんでした。私のことをどう思おうと勝手だけれども、私を支え、私をつまずくことのないようにしてくださる主を軽んじないでほしい、という思いです。その辺りが、エレミヤを奮い立たせて、「語り続けよう」と思わせたのではないでしょうか。
11節の「しかし」でトーンは一転し、エレミヤは主による勝利を確信します。「主は私とともにいて、荒々しい勇士のようです」という言葉に、それは表れています。でも、まだ実際には「私はやはり語り続けます」と言葉では言っていません。それは13節まで同じです。しかし、この節での勝利の確信、そして12節の祈り、13節の賛美を見れば、言葉にはっきり表れていなくとも、エレミヤの心は明らかです。
12節では、エレミヤは主を「正しい者を試し、思いと心を見る万軍の主よ」と呼んでいます。ここで「正しい者」には自分のことも含めているはずです。この方が「思いと心を見る」方だからこそ、エレミヤが「もう御言葉を語るまい」と思っても、却って主の御言葉が火のように内に燃えていたことをご存知だったのです。エレミヤは、決して自分の手で敵に復讐しようなどとは思っていません。あくまでそれを主にゆだねておられます。「私の訴えをあなたに打ち明けた」とは、エレミヤが、自分の中で主に不満を述べていたのではなく、主に向かって打ち明けていたのだ、ということを明らかにしています。私たちも、何でも聞いてくださる主に、どんなことでも、思いを打ち明けることが大事です。それが、「とてもこの日本では御言葉など語れません」といったようなマイナス方向の訴えであったとしても、人に語るのではなく、主に告げる、ということが大切です。主が必ず答えてくださるからです。
最後の13節は、まるで詩編の一節であるかのようです。
「主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ」(13節)。
悪を行う者どもの手から救い出されたという貧しい者とは、もちろんエレミヤのことです。先ほど触れましたように、エレミヤはここでも、「やはり私は主の御言葉を語り続けます」などとは宣言していません。しかし、悪を行う者ども、すなわち、エレミヤがつまずくのを待ち構えていた人々からの救いを、エレミヤは確信していました。エレミヤの場合、彼の親しい者がそのように彼の失敗、敗北を望んでいたのですから、状況は悲惨でしたが、それでも主が勝利を与えてくださり、救い出してくださると信じていたのです。それは、主の御言葉を語るまいとして逆に苦しんだ状況から解放され、語り続けようと決意したことを表している、とも思われます。
私たちの人生においても、御言葉を語るかどうか、その辺りの姿勢がはっきりしていないときには、人生の軸が定まっていないと言いますか、いろいろと揺れてしまって、それゆえの悩みであるとか、苦しさと言ったものを感じてしまいがちです。そのところを乗り越えさせていただいて、主の御言葉を語る、それを語り続ける、という所にしっかり立つならば、まさに主によって安定した、軸のしっかりした歩みになるものです。主から勇気を与えられ、語らずにはいられない、という思いで、歩ませていただきたいものです。
お祈りしましょう。
御言葉をもって私たちの人生に臨まれる主なる神様、
あなたの御名を賛美します。
今日このようにあなたの前に共に出て、
あなたの御言葉に触れることができて感謝します。
あなたなしには勇気のない者ですから、
御言葉を語ったら損になる、
いろいろと面倒なことになる、
と及び腰になってしまいますが、
あなたから勇気をいただいて、
御言葉を語り続ける私たちへと変えられていきますように。
どんな困難の中でもあなたは私たちを救い出してくださいますから、
それを信じて、その受けた救いを証ししていくことができますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
【報告】
・本日から三浦綾子読書会が始まります。午後1時から、『道ありき』を読みます。
・28日水曜日午後2時半、園田で家庭集会があります。
・来週は昼食会があります。
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