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2026年8月2日 聖霊降臨後第10主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 8月2日
  • 読了時間: 12分

聖書交読 イザヤ55章1~5節(旧約p1152)

司)55:1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。

会)55:2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

司)55:3 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

会)55:4 見よ/かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし/諸国民の指導者、統治者とした。

全)55:5 今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は/あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主/あなたに輝きを与えられる/イスラエルの聖なる神のゆえに。


聖書朗読 マタイ14章13~21節(新約p28)

14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。

14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」

14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、

14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。

14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。

14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


説教 「賛美の祈りがあると」


説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


皆さん、おはようございます。今年も8月に入りました。五週あります8月の第一の主日礼拝です。このたいへんな暑さの中、皆さん良くお集まりくださいました。皆さんご存じのように、7月28日、熊本地方でたいへん大きな地震がありました。今もなお暑さの中で避難生活を送っておられる方々に主の憐れみが届きますよう、お祈りいたします。


さて、先週は、マタイによる福音書13章44~52節から、天の国の宝について味わって参りました。そもそも13章では、天の国について、そのたとえが語られており、私たちの目を天の方へと向けさせます。


そのような13章の最後には、イエス様が地上の故郷とも言えるナザレで受け入れられない、というショッキングなことが記されていました。そこで人々はイエス様につまずき、その不信仰のゆえに、イエス様はそこではあまり奇跡をなさいませんでした。


天の国の宝が語られ、希望と喜びに満ちた雰囲気から、急に暗雲が立ち込め、14章に入りますと、そこでは洗礼者ヨハネの最期が語られます。


出来事の舞台は、当時の領主ヘロデの誕生日の祝いの席でした。そこには、もちろん領主を恐れて、義理で集まっている人々も大勢いたでしょうが、祝いの席にふさわしい華やかさ、喜びの雰囲気があったのです。しかし、ある少女の一声で、雰囲気は一変します。祝いの踊りを踊ったヘロデの妻へロディアの娘が、血のつながらない義理の娘でしたけれども、よりによって「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と申し出たのです。これは、母親にそそのかされてのことでした。洗礼者ヨハネとへロディアの間には軋轢がありました。ヘロデが、その兄弟フィリポの妻であったへロディアを娶ったことで、洗礼者ヨハネに糾弾されていたのです。いつか洗礼者ヨハネを亡き者としようと思っていたへロディアには、この機会に乗じて、洗礼者ヨハネの命を奪ったのでした。この悲しい知らせを、ヨハネの弟子たちは、イエス様に報告しに来ています。今後どうしようか、ということも、そこで話されたのかもしれません。


そのような出来事を受けて、本日の聖書箇所は、マタイ14章13節ですけれども、「イエスはこれを聞くと」と始まっているわけです。「これ」というのは、洗礼者ヨハネの死の知らせのことだったのです。


この知らせを聞くと、イエス様は「舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」とあります。このように、イエス様は洗礼者ヨハネの死に暗示される危機と脅威に直面して、退き、場所を移そうとされるのです。これは神様の導きによる方向転換であるとも言われます。私たちのイエス様も、この時悲しまれたのです。この意味では、私たちの主は悲しみを知っておられる方でした。


それなのに、「群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った」とあり、退いて一人静かに悲しみたくても、それが許されないイエス様の苦しいお立場がここに示されます。私たちの生きる現代社会でも、立場によっては、同じように一人の時間を持つことが難しい人々がいることを、思いやることが必要です。


それでも、イエス様は人々を拒絶なさいません。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」とあります。イエス様の心、また生き方が、他者に開かれていることを、ここで見ることができます。私たちの心は他者に向かって開いているでしょうか。イエス様の行動の動機は「深く憐れむ」ことです。まさに内臓が動かされるような思いです。それに基づいて、イエス様はまず、病人の癒しをなさいました。


イエス様は今、私たちをも、このように深く憐れんでくださいます。この夏の暑さで倒れ込むような私たちを、また、体に様々な弱さを覚えて悩む私たちを見ていてくださって、必要な助けを与えてくださいます。その憐れみは、今熊本地方で苦しんでいる被災者の方々にも及ぶと信じています。


「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』」(15節)


ずいぶん気のきく弟子たちです。ただ、それはイエス様には、「自分たちでは何もできない」と言っているのと同じでした。それに対し、イエス様はこう言われます。


「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(16節)


なぜ行かせるのか。あなたたちで何とかしなさい。このように言おうとしておられるかのようです。私たちは、早々に自分の能力に見切りを付け、「もう無理ですから」といって、自分の責任範囲のものでも、投げ出してしまいたくなるものです。しかし、イエス様はおっしゃるのです。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」


「そうは言われても」ということで、弟子たちは答えます。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」(17節)。確かにそうなのです。冷静な状況判断です。すでにこのとき、弟子たちがそこにいる群衆の数を数えていたかどうかはわかりません。しかし、100人、200人の規模ではない、ということはわかったのでしょう。その群衆に対し、パン五つと魚二匹しかない現状を見て、「これでいける」と思う方が無謀で、「これでは足りないのです」と冷静に分析する方が、信頼に足る味方ではないでしょうか。別にそのことを、イエス様は非難しておられません。むしろ、よく現実を見ている、頼りになる弟子たちだ、と思われたかもしれません。


今、熊本地方での大地震のあと、200以上の避難所に、9000人以上の人々が避難しています。大規模な断水が続く中で、水も不足し、食糧も十分に行き渡っていないと言われています。そのようなとき、避難所の開設者や市の職員の人々は、どのぐらいの避難者数に対して、どのぐらい水がある、食料がある、というのを、冷静に計算しなければなりません。足りないなら足りない、と発信して、どこかから足りない分を供給する手立てを考えなければなりません。少なくてもいける、と思うのは、この場合無謀と言われます。


しかし、このマタイによる福音書で描かれている状況に限って言えば、イエス様が声をかけているのは弟子たちに対してでした。この弟子たちと言えば、すでに12使徒として、お金も、替えの履物すらも持たずに宣教の足袋に遣わされ、「何も持って行かなくても何とかなったものだ」という体験をして帰って来た、そのような者たちだったのです。「あのような体験があったのだから、今回もイエス様は何とかしてくださるかもしれない」と淡い期待を寄せてもおかしくない者たちだったのです。しかし、この度は彼らの理性の方が上回りました。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。そこでイエス様は、「それをここに持って来なさい」(18節)とお命じになります。併せて、「群衆には草の上に座るようにお命じになった」と記されています(19節)。


続きを読んでいきましょう。「そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた」(19節)。イエス様はうやうやしく五つのパンと二匹の魚を取り、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」ます。イエス様は、この五つのパンと二匹の魚を、少ないとみなすことはありませんでした。だから、とてもたいせつなものとして、受け取りました。そして、このようなある種の危機においても、イエス様は天を見上げるのです。いや、このようなときだからこそ、天を仰いだのでしょう。私たちが危機的な状況において、にっちもさっちもいかなくなり、思わず天を見上げたのはいつのことだったでしょうか。そのようなときこそ、天を仰ぐこと、それを自らの習慣となるよう、自らに訓練を課しているでしょうか。イエス様は天を見上げたのです。


さらにイエス様は、賛美の祈りを唱えます。これは、「祝福した」ということです。「祝福する」とは、新約聖書の言葉で、敢えて言うと、「よく語る」という意味です。五つのパンと二匹の魚を目にして、「何だこれは、少ないじゃないか、これでは足りない」と言えば、これは祝福ではありません。それらを見て、「神様、感謝です。これらを備えてくださって」と良い方向に語り、良い言葉がけをすれば、それは祝福する、ということにつながるのです。


新共同訳の訳語の選択は、この場合適切なものです。私たちの目には、少ない、足りないと見えかねない、五つのパンと二匹の魚を目にして、祝福する、すなわちよく語る、というのは何かといえば、「賛美する」ということです。神様、このあなたが備えてくださった五つのパンと二匹の魚のゆえに、あなたを賛美します、このように言うことは、究極的な祝福、ということになります。


私たちの現状を見てみましょう。創立70周年に際し、私たちはいろいろな欠乏を周りに見ています。ためらわずに言えば、かつてほど人々は礼拝に集まっていない現実がある。しかし、そこに賛美の祈りがあれば、どうでしょうか。イエス様が、わずか5つのパンと二匹の魚を見て賛美の祈りをささげたように、私たちも、足りない、と見える所に、賛美の祈りをささげるのです。この暑い中でも、少子高齢化が加速度的に進む中でも、主はこのように、人を送ってくださっているのです、感謝します、そのことのゆえに、あなたの御名を賛美します、そのように賛美の祈りがあると、教会は変わってきます。


イエス様の時代に戻りましょう。賛美の祈りを唱え、イエス様はパンを裂きながら、弟子たちにお渡しになります。そして、弟子たちは受け取ったパンを、群衆に渡していきます。


弟子たちが次第に気づくことは、五つのパンしかなかった割には、ずっとイエス様は、自分たちにパンを渡し続けておられる、ということです。五つしかなかったんだから、もういい加減なくなるはずなのに、なぜかイエス様は、ずっとパンを渡し続けておられる。そこで彼らは、パンが増えている、ということに気付くのです。


ここで、パンを裂くなかで、パンが増えていることが重要です。どうなるだろう、とじっと待っているときには、パンは増えません。思い切ってパンを裂き始める所に、奇跡が始まり、パンは増えていくのです。教会が十分人的にも経済的にも満たされたのを見てから動き出す、というのではなく、まだ足りない、と思うような中でも、大胆に70周年の様々な記念のことのために動き出すのです。


最終的な結果を見てみましょう。


14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。

14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


最初見ていたのは、五つのパンと、二匹の魚がそこにあるだけの現状でした。しかし、最終的には、大群衆をそれで養ったのです。すべての人が、食べて満腹になったのです。それだけではありません。パン屑は、12のかご一杯になるほどでした。この12が、イスラエルの12部族を指すとか、12使徒を暗示するとか、そういったことは言うまでもありません。


ここには、夕暮れ時を目前として、大群衆が飢えに直面するという、死の兆候がありました。しかしそれは、そこにいたすべての人が満腹するという、命の給食へと発展したのです。そのきっかけとなったのは、欠乏の告白でした。こんなことは言ってはいけない、ではなく、正直に、「足りません。ここには五つのパンと、二匹の魚しかないのです」と告白したことがきっかけとなり、この命の給食へとつながりました。この出来事の前の、悲しい、洗礼者ヨハネが命を奪われた、あのヘロデの死の宴から一転し、命溢れる感謝の祝宴となりました。それを導いたのは、イエス様の賛美の祈りでした。私たちも、賛美の祈りをささげるとき、その場は主の祝福に満ち溢れます。どんな欠乏があろうと、それを補って余りある主の祝福が、私たちのもとを訪れるのです。


この五千人の給食の様子は、マタイ26章の、聖餐式の設定と言われる食事の時の様子と似ていると言われます。私たちはこれから、命と祝福の聖餐式に預かるのです。また、この当時の数え方で、男が5000人、ということですが、女性と子どもたちを加えれば、そこに1万人以上はいたことでしょう。それは私たちに、現在熊本地方で避難している約9000人の人々のことを思い起こさせます。私たちは祈りによって、その方々のためにイエス様がお働きくださり、この福音書の出来事と同じように、この避難しておられる方々が食べて満たされるように願っています。


天の父なる神様。洗礼者ヨハネの死という悲しみの中でも、群衆を深く憐れみ、ご自分を求める者を拒まれなかった主イエスの御名を賛美します。私たちも、足りないと嘆く現実の中にあって、あなたが備えてくださったわずかなものを、感謝と賛美の祈りをもって差し出す者とならせてください。思い切ってパンを裂くように、大胆な一歩を踏み出す信仰を与えてください。熊本地方で避難生活を送る方々の上に、あなたの慰めと必要な糧が満ち溢れますように。私たちがこれから預かる聖餐の恵みによって、あなたの命と祝福を新たにされますように。この礼拝から遣わされる一週間も、あなたの守りと導きがありますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


報告

・本日は礼拝後昼食会があります。その後は役員会となります。


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